【研究報告】
マユの納骨から約1週間後、リンはサチコから研究が完成したという旨の連絡を受けて、朝早くから五反田の研究所を訪れていた。
かつてリンの祖母であるユカリがマリィ博士と共に過ごしていた研究所の近くに新たに研究所を構えることになったのは、サチコの強い希望があったためだ。
サチコはコアの研究を引き継ぐにあたって、リンから例の音声メッセージを受け取っていた。マリィ博士がユカリ助手に向けて送った言葉は時を越えてサチコの心を揺さぶり、研究に対するモチベーションをぐっと引き上げることとなったのだった。
台形のような特徴的な外見をしたビルの6階にリンが足を踏み入れると、すでに白衣を着たサチコが待っていた。
研究室の中には様々な機材が並んでいるにもかかわらず、どこかがらんとした印象を受ける。ここで働いている人間がサチコ一人しかいないからだろうか。
この研究はマユの指示通り、外部の人間を一切入れずに行われていた。機密の漏洩を防ぐためと言っても、かなり過剰な……というよりも、無謀なやり方と言える。
主にサチコが一人で作業を行い、時々リンが手伝うという形で30年以上も続けられてきた研究だ。こんな非常識な研究にずっと付き合ってくれたサチコに対してリンは、心から感謝の念を抱くと同時に、彼女が不満の一つもこぼさず己の人生の大半を費やしてくれたことに対して、少なからぬ驚きを禁じ得なかった。
「お待ちしていました、リンさん。どうぞこちらへ」
サチコに促されるまま、リンは部屋の奥にある一番大きなテーブルの前まで歩いていった。椅子を勧められたが、リンは静かに首を振って断った。
頑丈そうな黒いテーブルの上には、小さな装置に載ったコアと、市販品の携帯端末だけが置かれている。
広々としたテーブルの上にぽつんと置かれたそれらの装置は小さく、どこか所在なさげに見えた。
「まずはこの端末を初期化します」
サチコが手慣れた様子で端末を操作していく。元々ほとんどデータが入っていなかったのか、初期化はすぐに完了した。
「次に操作用のソフトウェアをインストールします」
研究室のクラウドから、サチコが開発したアプリがダウンロードされる。
非常に軽いらしく、ダウンロードもインストールも一瞬で終わった。
「リンさん、一応確認してもらえますか?」
「ええ」
アプリを起動すると飾り気のない黒い画面に切り替わる。シンプルなインターフェイスは、リンにどことなくDOSの画面を連想させた。
アプリの詳細を確認すると、やはり容量はごく小さい。
「それでは無線接続を切って、直接コアと繋ぎます」
「有線でなければできないの?」
リンの疑問に、サチコはケーブルを接続しながら笑って答えた。
「無線でもできるんですけど、よそのデータと通信する可能性を潰すためですね」
「ああ……」
サチコは、最初からこの研究報告に不正がないことを証明するための手順を踏んでいるのだった。そうでなければ端末をリンの目の前で初期化する必要もない。
当然リンはそんな不正が行われるはずがないとわかっていたし、サチコもリンがそう信じてくれていることは重々承知していたが、それでもその辺りを曖昧にしない律儀なところにサチコの人間性が出ているようだった。
(本当に、マユさんとは全然似てないね)
奔放という言葉がよく似合うかつての教授の姿をリンが懐かしく思い出している間に、セッティングは完了した。
サチコがアプリを起動して数ステップの手順を踏む。
黒い画面に波形のようなものが表示された。
まるで心電図のようだとリンは思った。
「ハロー、マリィ」
サチコが端末に向かって話しかける。その声は少し震えているようだった。
『……ハロー、マスター』
一瞬、端末のスピーカーからノイズが聞こえた後、増幅された女性の声が響いた。
ややハスキーな、落ち着きのある成人女性の声だ。
「まあ……」
リンは思わず目を見開いて、端末とコアを見比べた。
端末から聞こえてきた声は確かに、マリィ博士の音声データの声と同じだった。
この研究発表に立ち会うにあたって、念のため昨日の夜に聞いておいたばかりなのだ。聞き間違えようがない。
『ご用件はなんですか?』
「そうね……あなたの調子はどう?」
『まあまあです。マスターはどうですか?』
「少し眠いわ」
『寝不足には緑黄色野菜や豚肉がおすすめです』
「ありがとう、マリィ」
『どういたしまして、マスター』
端末から顔を上げると、サチコは苦笑いを浮かべてリンに向き直った。
「……聞いて頂いた通りです。マリィ博士の声を再現するために必要なデータは、確かにコアの中に残されていました。でも、それ以上詳しいことは分からなかった。これはマリィ博士の音声データを使って、既存の対話型オペレーションアプリを動かしているだけです」
説明するサチコの表情には、どこか悔しさがにじんでいるようだった。
「……こんにちは、マリィ博士」
『こんにちは』
リンが端末に話しかける。”マリィ”は声紋の違いを読み取って、微妙に言葉遣いを変更して答えた。
「あなたはユカリ……いいえ、クモザキ助手のことを覚えているかしら?」
『……申し訳ありません。その質問にはお答えできません』
リンは”マリィ”の返答を聞いても表情を変えずに、すっと姿勢を戻した。
「リンさん……」
「ええ、分かっているのよ。でもね……聞かずにはいられなかったの」
「分かります」
サチコ自身、先程のリンと同じような質問は何度も行ってきた。
アプリが予め設定された以外の文言を喋ることはまずあり得ない。しかし、コアという未知のオーパーツならあるいは奇跡のようなことが起きるのではないか……。
だが、そんな淡い希望は徹底的なテストによって完全に打ち砕かれた。
「結局、コアの中に存在するとされる集積回路にアクセスすることもできませんでした。【願いシステム】でどうにか構築したソフトウェアでは、コア内部のメモリをチェックするだけで膨大な時間がかかってしまいます。私にもっと力があれば……」
「いいえ、サッちゃんはよくやってくれたわ」
沈んだ表情を見せるサチコの肩に手を乗せて、リンは優しく微笑んだ。
「あなたは確かにマリィ博士の声を再現して見せた。コアの中に人間の情報が格納され得るという事実が分かっただけでも、とんでもない発見よ。本当にありがとう」
「いえ……でも、そう言ってもらえると、少しは頑張った甲斐があります」
リンも、そしてサチコも、心の中では理解していた。
これは真に求めていた結果ではない、と。
それでも確かに得られるものはあった。ここからまた新たに研究を始めれば、いつかはその目標までたどり着ける日が来るかもしれない。
……そう、時間さえあれば。
サチコに残された人生の時間は、長く見積もってもあと半世紀程度。まともに研究を続けるだけの気力と体力が続く時間はもっと短いだろう。そしてリンに残された時間は、サチコの半分にも満たないのだ。
サチコとカイトの間に生まれた子供は三人いるが、長男はカナザワグループの不動産関係に、次男は地方銀行にすでに就職している。末っ子の長女はまだ大学生だが、早い段階ですでにカナザワ重工への内定が決まっていた。
つまり、この研究を継ぐ者はもう、誰もいなくなってしまったということだ。
マリィ博士の声を再現するという目標は、文字通りの意味では達成された。
ユカリの想いから始まった研究は一世紀を超えて、ようやく終わろうとしている。
リンとサチコの胸の内に様々な想いが浮かんでは消えた。
精一杯のことはやった。よくぞここまでやり遂げたと称賛されてもいいくらいだ。
でも……本当にこれでよかったのだろうか。
二人はお互い、胸の中に浮かぶ気持ちを言葉にしないまま、研究報告は終了した。
「……ハロー、マリィ」
リンを研究所の外まで見送ってから戻ってきたサチコは、ふと気になったことを思い出して、端末に話しかけた。
それは、先程の研究報告の最中に感じたほんの些細な違和感。恐らく自分一人で実験をしていた時と違って、マスター登録されていないリンが話しかけたことによる結果のブレに過ぎないだろうが……。
そう頭では理解していても、一度気になってしまったことはその日のうちに確認しなければ気が済まないのがサチコの性格だった。
『ハロー、マスター』
何度話しかけても寸分違わぬ抑揚と速度で返事が来る。
そうプログラムされているのだから当然のことなのだが、だからこそ気になったのかもしれない。
サチコはアプリの設定を弄って自分の声をゲストとして登録し、もう一度話しかけた。これで設定上は、先程リンが話しかけた時と同じになったはずだ。
「こんにちは、マリィ」
『こんにちは』
「マリィ、あなたは、ユカリさんのこと、クモザキ助手のことを覚えている?」
『申し訳ありません。私はその質問に対する回答を持っていません。ネットワークに接続すれば、検索結果をお教えすることができます。接続しますか?』
「……いいえ」
プログラムが答えられないような質問をした時の返答としてはこれが正常だ。
しかし、先程リンが質問をした時は微妙にニュアンスが異なった。そして何より、ネットワーク接続についての提案がなかった。
サチコはそれから文言を微妙に変えて何度も試してみたが、結局『その質問にはお答えできません』という台詞を再現することは一度もできなかった。
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