【変化の波】

 海面の上昇によっていくつかの国が深刻な被害をこうむり始めてようやく、この星に住む人々は環境問題を本当の意味で逼迫ひっぱくした課題として受け止めるようになった。

 日本での制御核融合による発電所は、15年後に一基目の完成を目指している。全世界から化石燃料による火力発電を全て撤廃し、核融合発電に切り替えるのが最終的な目標だ。

 政府主導の長期に渡る徹底したイメージ戦略が功を奏し、核融合発電所建設反対派の声はだいぶ小さくなっていた。中国ではすでに試作機が稼働していたことと、その安定した実験結果も世論の後押しをしていた。


 世界は変革の時を迎えようとしていた。

 もしも世界中に無尽蔵の電力が循環すれば、これまでの制約にとらわれない全く新しい技術が発展していくだろう。


 しかし――自分がその輝かしい未来を目にすることはないだろうとリンは思った。

 医療の発展により日本人の寿命はますます延び、近いうちに定年が85歳へと変更される。定年制度そのものが撤廃される日も近いだろう。

 リン自身、80歳を越えてなお気力体力共に充実していた。肌の若々しさも数世紀前では考えられないほどの水準だった。

 だが、それでも確実に近づいていくる死の足音は避けようのないものだ。

 大きな病気も事故も経験せずにここまで生きてきたリンにとって、自身の死は現実味のない話のようにも思えたが、頭の片隅ではすでに刻一刻とカウントダウンが進んでいるのを漠然と感じていた。

 そして、その日受け取ったメッセージによって、死に対するイメージはより一層明確なものとして彼女の心の中に印象付けられることとなった。


         ◆


 大地を円筒状に貫く空間。

 その壁際にはぐるりと無数の扉が並んでおり、中央に設置されている4基のエレベーターから白い道が伸びている。吹き抜けとなる空間には強化ガラスが張り巡らされているため、落下事故の心配はない。

 地下5階まで連なる全ての階層は白く明るくライトアップされている。

 上からその様子を見下ろすと、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。

 まだ真新しいこの施設は、共同墓地だった。

 この頃、墓を買うといった習慣はすでに廃れており、一部の富裕層や先祖から受け継いだ墓を持つ人々以外はこうした共同墓地を利用するのが当たり前になっていた。

 かつて存在した石の墓標は昔から地上にあるものが全てで、都市部においては今後増えることはほとんどないだろう。


 横浜にあるこの共同墓地『神奈川静安センター』の地下一階に当たる回廊を、4人の男女が歩いていた。

 先頭を行くのはこのセンターの職員で、ずんぐりとした体型の中年男性だ。

 その後ろを並んで歩くのは50代半ばの女性と男性の夫婦で、更にその後ろを80代くらいの女性が歩いている。

 それぞれが黒い服を着ており、50代の女性の手には小さな骨壷があった。


「こちらです」


 職員の男性が一つの扉に触れると、扉は静かな音を立てて左右にスライドした。

 そこは幅1.5メートル、奥行きは3メートルほどの空間だった。突き当りの壁の一部が突き出るようにしてテーブル状になっているが、その他には何もなく、大理石のような白い壁が周囲の音を吸い取っているかのように静寂だけをもたらしていた。


「奥の壁にタッチして下さい」


 職員の案内に従って女性が壁に手を触れると、四角い小窓のような空間が現れた。

 女性がそこに骨壷を収めると、小窓は自動的に閉じた。


「これで終了です。遺影として故人の写真などを壁に映したい場合は、ここでデータを送信して下さい。納骨区画はスタンドアローンとなっていますので、他の場所からはアクセスできませんから。扉はご親族の方以外でも随時登録されればロックを解除することができるようになりますが、同じようにこの場での登録が必要となります。また、清掃のために職員が定期的に入室させて頂きますのでご了承下さい」


 こうして同じ説明を、これまで何百回と繰り返してきたのだろう。淡々と話す職員からは、ある種の貫禄すらうかがえる。事務的で冷たい印象だが、こういう場ではむしろふさわしい態度とも言えた。


「ええ、大丈夫です。ありがとう」


 応じる女性は穏やかな表情を保っていた。

 夫婦共に悲観にくれている様子はないが、そういった客は珍しくもないのだろう。職員は気にした様子もなく説明を続ける。


「地下一階の区画では、本物のお線香やロウソクをご利用頂けます。高度防火システムが作動しておりますので火災の危険性はありません。生花や食べ物などを置かれても構いませんが、衛生上の観点から、一定期間が過ぎたものはこちらで回収させて頂きますので、併せてご了承下さい。他に何か質問があればお答えいたします」

「いいえ、大丈夫よ。ありがとうございました」


         ◆


 センターの地上部分には、喫茶店や飲食店、生花の売店からお土産コーナー、更には個人用のワークスペースなどが完備されていた。

 他にも壁で仕切られた休憩所や、子供用にクッションが敷き詰められたコーナーなどがあり、落ち着いたBGMがゆったりとくつろいだ雰囲気を演出している。


 納骨が終わったリンとサチコ、カイトの三人は喫茶店でテーブルを囲んでいた。

 長らく海外に行ったきり、ここ数年音信不通だったマユが亡くなったという知らせをリンが受け取ったのは2週間前のこと。

 イタリアのシチリア島東部、カターニアのホテルから身元不明の遺体が発見され、持ち物の中にあった携帯端末の中で最も頻繁に連絡を取り合っていた者――リンの元へと連絡が来たのだった。

 遺体は現地で火葬されたらしく、遺骨となった状態で日本に送られてきた。

 地元の医師と警察によれば、死因の特定は困難だが、外傷や病気のしるしは見られず、また非常に高齢であることからほぼ間違いなく老衰と思われるため、事件性はないだろうということだった。


「それにしても、義母さんはなんでシチリアなんかにいたんだろう」


 カイトがコーヒーを一口すすってから感慨深げに言った。


「あの人のことだから、最後に観光でもしてたのかな」


 サチコは紅茶に砂糖を入れながら微笑する。


「結局、ちゃんと顔を合わせたのは俺たちの結婚式が最後だったなあ」

「うん。まさかあれが最後になるなんてね……」


 リンの息子であるカイトは、25歳の時に、マユの娘のサチコと結婚した。

 彼はサチコと結ばれるためだけにカナザワグループを継ぐことを決意したのだが、その選択がもたらしたものは、彼にとっては決して楽なものではなかった。

 経営者としての実力を身につけるために父と祖父、さらには曽祖父から直々に手ほどきを受け、血を吐くような努力の末にようやく結婚を認められたのだ。

 それでもカイトは何一つ後悔していなかった。

 彼は幼い頃からサチコに心底惚れていて、結婚した後も、それから数十年が過ぎた今でもその気持ちは色褪せることなく同じままだった。


「でも、なんでだろうな」


 カイトはふと思いついたように呟いた。


「なんでって、なにが?」


 応じるサチコに対して、少し身を乗り出すようにしてカイトは続けた。


「義母さん、連絡くれる時はいつも音声通話かメッセージだけだっただろ? 送ってくれる写真も、ちゃんと自分の顔が写っているものは一枚もなかった」

「そういえばそうね……」


 サチコは頬に手を当てて頷いた。

 先ほど納骨をした時に、遺影を設定しなかった理由がそこにあった。マユの顔がきちんと写っている写真や動画のデータが一つもなかったのだ。

 彼女が送ってくる写真は大抵が風景を写したもので、時折本人が写っていても、背中を向けたようなものばかりだった。


「私もマユさんの写真は撮ったことがなかったわ。大学生の時はほとんど毎日顔を合わせていたんだから、一枚くらい撮っておけばよかった」


 ジンジャーエールに浮かぶ氷をストローで軽く回しながら、リンが静かに言った。


「リンさんは母と一緒に住んでいたんですよね。私が生まれる時にすごくお世話になったって、何度も聞かされたのが懐かしい」

「一緒に住んでいたんじゃなくて、部屋が隣だったのよ。でもまあ、ほとんど同棲みたいな感じだったけどね。生まれたばかりのサッちゃんの顔、今でも覚えてるわ。本当に時間が経つのは早いものね……」


 寂寞せきばくを伴う静かな間が生まれた。

 それぞれがそれぞれの人生を思い返し、流れ行く時間の無常を噛み締めていた。


「そうだ、リンさん。母のことでゴタゴタしていて伝えるのが遅くなってしまったけれど……研究の方、そろそろです」

「まあ……」


 リンは目を丸くしてサチコを見た。


「もう少し早ければ母にも報告できたんですけど。力が及びませんでした」

「いいえ、サッちゃんはよくやってくれたわ。無茶な研究を丸投げしてしまって、本当にごめんなさいね」

「そんなことありませんよ。私、すごく楽しかったです。自分の願いがコアをどんどん変化させていくのが面白くって」


 かつて彼女がリンとマユからコアの研究を引き継ぐことを了承した時も、こんなふうに無邪気な笑顔を見せていた。リンはそんなことを思い出しながら、とうとう来たるべき日が来るのだという実感がじわりと胸に満ちていくのを感じていた。


「それじゃあ、来週にはお見せできると思いますので。日程が決まったら早めに連絡します」

「ええ、お願いね」


 センターの出口で三人はそれぞれ別々の無人タクシーに乗り込んだ。

 サチコはこれから研究所へ。カイトは忙しい中無理やり時間を作ったので、会社にとんぼ返りだ。

 リンは静かに動き出す無人タクシーの中で自分の携帯端末を取り出した。


「メッセージ作成」


 一世紀以上前に世に出たスマートフォンは、その後様々な進化を遂げつつも、基本の形はほとんど変わることはなかった。

 だがそれも、エネルギー改革が進めば、いずれ大きく変化していくだろう。

 もしそうなったとしても、きっと自分は使い慣れたこの形の携帯端末を使い続けるに違いない。ただし、その頃まで生きられるかどうかは神のみぞ知るといったところだが……。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、リンはある人物に宛てて、口述でメッセージを作成していった。


「もうすぐ、私たちの研究が完成するそうですよ」

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