2XXX年8月 【いずれ訪れる時】
真夏のよく晴れた昼間に外に出るのは、多少なりとも危険を伴う行為だ。
世界全体の平均気温は1世紀前と比べて1℃ほど上昇し、今もなお温暖化は進み続けているという。
そんな猛暑の中、四人の親子がマンションの入り口の前に集まっていた。
「気をつけていってらっしゃいね~」
「行ってきます、ママ」
「カイト、サッちゃんとはぐれないようにね」
「わかってるよ……」
二人の子供が乗り込んだ自動運転タクシーが走り去るのを見送ってから、リンとマユ教授はいそいそとマンションの中に退避した。
「ふー、ちょっと外に出ただけでもう汗が……」
「はいリンちゃん、タオル」
「あら、準備がいいですね。ありがとうございます」
空調の効いたエレベーターで最上階まで上り、マユ教授の部屋に入る。
大学時代から変わらない、ふんわりとした髪の後ろ姿を見ながら、リンは感心したように呟いた。
「マユさんは全然汗かかないのねえ」
「うふふ、暑さ寒さには強いのよ~」
「羨ましい限りで……やだやだ、若い頃はこれくらいどうってことなかったのに」
「リンちゃんはまだまだ若いわよ~」
「あなたがそれを言いますか」
リンは苦笑しながらマユ教授を睨んで見せる。
近年の急速な科学の発展の恩恵を受けたスキンケア用品は、30代の半ばに差し掛かったリンの肌を今なおみずみずしく保たせているが、それでも手の甲や
それに引き換えマユ教授の姿は、リンの目からは完璧に見えた。
顔は化粧品によってかなりの部分を誤魔化すことができるが、髪の毛の水分や爪の付け根などにはどうやっても年齢がにじみ出てしまうものだ。
ところがマユ教授は、リンが出会った頃とほとんど変わっていないように見えた。
「あの二人、大丈夫ですかねえ」
リンは若々しい外見を保っているマユ教授にほんの少し嫉妬を覚えてしまう自分を自覚して、それを誤魔化すために話題を変えた。
「もう子供じゃないんだから、大丈夫よ~」
「いや、サッちゃんまだ高校生じゃないですか。カイトは中学生だし」
「でも来年は東京の大学に行って、一人暮らしを始めるのよ~? 選挙権だってあるんだし、立派な大人よ~。カイトくんだって高校の推薦決まってるんでしょう?」
「まあ一応……でもあの子、最近明らかに元気がないんですよねー」
リンは、反抗期らしきものを迎え始めた息子の家での様子を思い出しながら呟く。
「それって~、リンちゃんが今日のデートをセッティングしたことと関係ある~?」
「そういうことです。来年にはサッちゃんと離れ離れになるから、寂しいんだろうなと思って」
「それでイベントのチケットを取ってきたのね~。優しいお母さんだわ~」
「まあ、余計なお世話かもしれませんけどね。思春期の子供は親からお節介されると反発したくなるものだし」
「それでもきっと嬉しいはずよ~。サチコも昨日から楽しみにしていたわ~」
「それならいいんですけど」
リンは微笑んで、いつの間にか用意されていたグラスの水に口をつけた。
カイトがサチコに対してほのかな恋愛感情を抱いていることは、ずっと二人を見てきたリンにはすぐにわかった。
それこそ生まれる前からの付き合いで、幼い頃は姉弟といった感じだった関係が、歳を重ねるにつれて微妙な距離感を保つようになっていくのはごく自然なことだったのかもしれない。
それでも、とリンは少しだけ憂いを含んだ気持ちで考えた。まだ若い彼らが将来を共にすることはきっとないのだろう、と。
カナザワは旧家だ。
大きく成長したグループを安定してまとめるために、常に跡継ぎを用意しておかなければならない。
子供に全く自由がないわけではない。むしろ、こういった古式ゆかしい家にしては、珍しく有情だとすら言える。高校に入るくらいの段階で、カナザワを継がないと本人が決めたのであれば、それ以降、その子供は自由となるのだから。
ただし、婚姻だけは別だ。カナザワを継ぐにふさわしい人材をパートナーとしてあてがわれ、子供を作ることを義務付けられる。だがそれ以外であれば、自分の人生は自分の好きなように生きることができる。
逆に、カナザワを継ぐと決めた場合は、婚姻は自由となる。その代わり、グループの跡取りとなるためのエリート教育が始まる。どちらを取るかは自由だ。
「カイトはどうするんだろうな……」
そろそろ決めさせてくれと、母と祖父からせっつかれているのだ。リンは自分の時のことを思い出して、軽くため息を吐いた。
「ねえリンちゃん、私ね、ひとつ計画があるのだけれど~」
リンの独り言は聞こえていなかったようで、マユ教授は無邪気な笑顔をリンに向けて話しかけてくる。
「なんです?」
「名付けて光源氏計画~」
「……なんとなく予想がつきましたけど、一応説明してください」
「あのね、サチコとカイトくんを結婚させちゃうの~」
キャッと無邪気にはしゃぐマユ教授を呆れた目で見ながら、リンは頬杖をついた。
「そんなことだと思いましたよ。……あと多分、その計画だと源氏物語は関係ないと思いますよ。あたしも読んだことないけど」
「そうなの~? でも、いい計画だと思わない~?」
「確かにカイトはサッちゃんのこと好きみたいですけど……サッちゃんの方はどうなんですか?」
こういうのは本人同士の感情が一番大事なのだ。
下手に親から的はずれな干渉をされた場合、二度と口を利いてくれなくなる恐れすらある。
「うふふ~。それが脈アリなのよ~」
「ふーん。まだ高校生なのに年下好きとはねえ」
「リンちゃんもこんなデートを仕掛けるくらいだから、賛成してくれるでしょ~?」
「賛成しません」
リンは間髪入れず、キッパリと言う。
「ええ~どうして~?」
「今日のデートはプレゼントみたいなものです。本来は親が口を出すことじゃないんですから、本人たちの自由にさせましょうよ。結婚したけりゃ勝手に結婚しますよ」
「ずいぶんドライなのね~……」
「いやこれが普通だと思いますけど……」
とはいえ、カイトがサチコと結婚するためには、カナザワを継ぐという決断をしなければならない。サチコの進路は情報系なので、経済学や経営学が必須なパートナー候補にはまず上がる可能性がないからだ。
リンはそれをわかっていたため、マユ教授の提案をスルーした。決めるのは当事者である子供たち自身だ。親ではない。
「でもでも~、お互いに好き同士なら、一緒になった方がいいでしょう~?」
しかしマユ教授は、意外にも諦めていない様子だった。
どうにかしてリンを説得しようとしている。それがリンには引っかかった。
「マユさん、どうしてそんなに必死なんです? あの子たちのことを想ってっていうのはわかるんですけど……なんというか、他になにか考えてません?」
「あら~……バレちゃった?」
マユ教授は頬に手を当てて可愛らしく笑った。
「今、私たちのコアの研究って、行き詰まってるじゃない~?」
「はあ……そうですね……?」
なぜここで突然コアの話題が出てくるのかと、リンは首を傾げた。
「理論はできてるのよね~。願いシステムを使って、コアの中にソフトウェアを構築するっていう……それを利用してコア内部のメモリからマリィ博士のデータを探し出して、音声を再現する……」
「まあ、不可能ですけど」
願いのみでプログラムを組むという行為は、目隠しをされた上に両手両足を縛られた状態で、ゼロから一軒家を建てるようなものだ。
しかも、それをやろうとしている人間のスキルは、日曜大工に毛が生えた程度のものと来ている。
リンの言う不可能という言葉は悲観的でもなんでもなく、当然のものだった。
「私たち、専門外だものね~」
「専門の人を引き込む提案を頑なに却下したのはマユさんじゃないですか……」
「だって~、願いシステムの秘密はできるだけ守らないと~」
「その理由もいつか話してくれるって言ったっきり、聞けてませんけどね」
「それはまあおいおい~。それでね~、あの二人に……というか、”子供たち”に続きをやってもらおうかな~って思って~」
おや、これは何か不穏な流れではないだろうか。リンの頭の中で過去の自分が警鐘を鳴らしている。
「……ちょっと……マユさん……?」
「ほら、サチコは子供の頃から願いシステムを使って遊んでたし~、ちょうど情報系に進むからぴったりじゃない~?」
リンはぞわりと背中が粟立つような感覚を覚えた。
話ができすぎている。
「マユさん、あなた……ひょっとして最初からそうするつもりでサッちゃんを……」
「そうだけど~?」
「なっ……なに考えてるんですか!? 子供の人生をなんだと思って……!」
「別に強制した訳じゃないわよ~? こういうふうに遊んだら楽しいねって教えてあげて~、こういう勉強が将来役に立つんじゃない? ってアドバイスしただけで~」
「それは完全に誘導してるじゃないですか!」
冗談ではない、とリンは思った。
リンは自分の生まれた特殊な家庭のこともあってか、自由を侵されることを極端に嫌うようなところがある。そしてそれは、子供たちの目線に立った場合においても同じだった。
「それは……それはやっちゃ駄目なやつですよマユさん……!」
「……それじゃあ、リンちゃん。どうすれば子供は完全に自分の意思だけで、自分の人生を決められるんだろう?」
「それは……っ」
「ねえ、生まれた子供に日本語を覚えさせるのと同じじゃない? この世のあらゆる物事から影響を受けずに育つなんて不可能でしょう?」
「違います。全然違いますよ。言葉を覚えさせるのは子供が生きるためですけど、進路を誘導するのは自分のためじゃないですか。自分の利益のために何も知らない子供を思い通りの方向へ動かすのがよくないって言ってるんですよ」
「私の、利益のため?」
マユ教授の落ち着き払った言葉を聞いて、リンはハッとした。
彼女たちが取り組んできたコアの研究は、マユ教授の利益とはなんの関係もない。むしろ祖母の研究を完成させてあげたいというリンのわがままに過ぎないのだ。
だからこそリンは、今更ながら、これまで熱心に研究に付き合ってくれたマユ教授のことが理解できなくなった。
「自分のためじゃないなら……それじゃあ、あなたは……どうして、一体何のためにそこまでするんですか……?」
マユ教授はその問いに答えず、穏やかに微笑んだ。
話すつもりはない。無言が彼女の意思を雄弁に物語る。
「……とにかく、これ以上、子供の進路を歪めるようなことはしないでくださいね。他人が教育方針に口出しするなって言われるかもしれませんけど、少なくともあたしはサッちゃんのこと、自分の娘みたいに思ってるんですから」
「そうね~……リンちゃんがそんなにも反対するなんて思わなかったわ~。要望に沿えるように努力してみるわね~」
「昔から、全然変わらないんですね。あなたの倫理観はちょっとズレてますよ……」
「昔リンちゃんに言われてから、これでも頑張って直したつもりだったのよ~?」
微妙な空気が流れていた。
マユ教授に悪気が一切ないことは、リンも承知していた。彼女は良くも悪くも純粋なのだ。ただ目的のためには手段を選ばないというだけで……。
「それでね~、実はもう一つ相談があるのだけれど~」
マユ教授は空気を読むつもりがないといった調子でそう言うと、人差し指を頬に当てて少し顔を傾けた。
「サチコが一人暮らしを始めたら、しばらく海外に行こうかなって思って~」
「……ずいぶん唐突ですね」
「一応ね、ずっと考えてたのよ~。手始めにアジアから、コアの研究機関を巡ってみようかな~って」
「世界中を回る気ですか? お仕事は……」
「大学もお休みするわ~。じゅうぶん資金はできたし~」
「その言い方だと、まるで最初からそのつもりだったみたいですね」
「その通りよ~?」
「あはは……」
リンには、マユ教授を止められないことがわかっていた。
彼女はもう決めてしまったのだ。彼女が一度決めたことを覆すことはない。
つい先程まで彼女に対して抱いていたはずの憤りは、一瞬でどこかへ霧散してしまっていた。
ただ、寂しかった。いつかそんな日が来るような予感はあったが、いざその時が現実のものとして目の前に現れると、リンの胸の中はどうしようもない無力感でいっぱいになった。
「ちょこちょこ連絡入れてくださいね。サッちゃんに」
「もちろん、リンちゃんにもカイトくんにもメッセージを送るわよ~」
「年末年始くらいは帰ってきてくださいよ」
「そうね~、それはその時になってみないとわからないけど~」
「病気とか怪我とか……気をつけてくださいね……」
「……リンちゃん、泣いてるの?」
「っ……いい歳して恥ずかしいな。マユさんがいなくなるって思ったら勝手に……」
「安心して。私はいなくならない。ずっとね」
そう言ってマユ教授は微笑んだ。
どこか、この世の外側を見つめるような、ほんの少し悲しそうな笑顔だった。
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