20XX年~2XXX年 【進みゆく】

 妊娠に関して、ケンヂに連絡を取るつもりはないとマユ教授は語った。

 リンは当初、これに憤慨ふんがいして強く抗議した。

 慰謝料とまでは言わないけれど、せめて認知させるべきではないか。

 しかしマユ教授の決意は固かった。一度これと決めたマユ教授を動かすのは並大抵のことではない。

 それならせめて、今の自分にできることを……例えば身重となったマユ教授の身の回りの世話をしようと考え、リンは甲斐甲斐しく動き回ることになった。

 子供を育てるに当たって、自宅のアパートでは手狭だろうということで――なんとマユ教授はそれまで、築うん十年の六畳一間に住んでいたという――今やほぼ彼女の私室のようになっているリンの隣の部屋を、正式に貸すことになった。

 貸すと言っても、家賃を普通に支払おうとすればとんでもない額になる。そのためリンは祖父と交渉し、マユ教授を祖母の研究資料の管理者として雇う形で、実質無料で部屋を使ってもらうことになったのだった。


 それから約半年後、マユ教授は無事女の子を出産した。

 リンはその間ずっとマユ教授に付きっきりになっていて――マユ教授には親兄弟がいないか、あるいは連絡を取るつもりがないようだった――最終的に出産の立ち会いまでした。

 初めて見るお産は想像よりもずっと早く終わった。

 マユ教授が分娩室に運ばれてから1時間もしないうちに、するりと生まれてしまったのだ。

 ものすごく痛いとか、一晩中かかるとか聞いていたリンは拍子抜けしてしまった。

 マユ教授は普通に産むと言っていたけれど、お医者さんが気を利かせて無痛分娩にしてくれたのかと思ったほどだった。無論、そんなことはあり得ないのだが。

 当の担当医も、こんなにスムースなお産は初めてだと驚いていた。


 それから数ヶ月が経った。

 マユ教授は子供にサチコと名付けた。

 この時代にしては古いと言われるような名前だが、ここ数年は人気漫画の影響で昔っぽい名前を子供につけるのが流行していたため、リンはマユ教授の名付けに特に疑問は抱かなかった。


「夜泣きとか大変じゃないですか?」


 この頃、リンは毎日のようにマユ教授の部屋を訪れていた。

 家事や食事の手伝いなどを率先してこなす様子はまるで本物の家族のようだった。


「夜泣きはまだ始まってないわね~。でも大丈夫よ。私、寝なくても平気だから~」


 なんでもないことのように言うマユ教授に、リンは眉をひそめた。


「ダメですよ、ちょっとは休まないと。育児サービス利用しないんですか?」


 区のサービスを受ければ無料でヘルパーを派遣してもらうことができる。時間などは限定されるが、子供を任せて自由な時間を確保できるというのはかなり大きい。

 遠隔でのサポートもそこそこ手厚く、昔に比べれば圧倒的に子育てをしやすい環境になっている。


「うーん……でも~、リンちゃんがたくさんお手伝いしてくれるし~……」

「あたしだっていつでも来られる訳じゃないんですからね」


 そう言ったすぐ後に、リンは自分がほぼ毎日のようにマユ教授の部屋に顔を出していることに気が付いたが、知らないふりをすることにした。


「いつもありがとうね~。リンちゃんが私の旦那様みたいね~。うふふ」

「別に……このくらい普通でしょ。教授にはお世話になってるし……」


 リンは少し顔を赤くして、誤魔化すように食器の片付けを再開した。


「……あたしもそろそろ考えないとなあ」


 リンが独り言のように呟いた言葉に、サチコをあやしていたマユ教授が反応する。


「あら、リンちゃんも子供欲しくなっちゃった~?」

「まあ子供っていうか……まずは結婚からですけど……」

「あらあら、もうお相手がいるのね~?」


 純粋に驚いたような顔をしているが、マユ教授の声音はほんの少しだけ低かった。

 そしてリンは、長い間一緒に過ごしているうちに、彼女のそういった微妙な声の高さを判別できるようになっていた。


「……ケンヂの時みたいなことを警戒してるなら、大丈夫ですよ」


 当時の恋人に危うく研究を盗み出されそうになり、それを阻止しようとマユ教授が暴走したせいで大変なことになった一件は、今でもリンの中に苦い思い出として強く印象付けられている。


「あら~……わかっちゃった~?」


 可愛らしく首を傾げるマユ教授だったが、再びあの時のようなことが起きないために常に気を配っていることがうかがえた。

 リンとしては何もそこまで気を張らなくても……という気持ちがあるのだが、まあ別に害があるわけでもないし、彼女の好きにさせればいいかと半ば諦めている。


「父と祖父が紹介してくれた人なんです。ぶっちゃけて言えば、カナザワグループの後継者候補なので……あたしのやってるような研究については門外漢なんですよ」


 リンは先日顔を合わせたばかりの青年のことを思い出しながら、そう説明した。

 27歳にしては幼い顔立ちだったが、会話の端々から知性を感じさせる人だった。


「それって~、お見合いみたいなものかしら~?」

「まあ、似たようなものですね」


 みたいなものというより、お見合いそのものだ。

 ただし、双方に拒否権はない。


「リンちゃんはそれでいいの~……?」

「別に、って感じですね。落ち着いていて優しい人だし、顔もいいし」


 その言葉は別に強がりでもなんでもなく、リンの正直な感想だった。

 さすがに一度の会食では余所行きの顔の下にある地の性格まではわからなかったが、祖父と父が探し当てた逸材には違いないのだから、まあ悪い人ではないだろうとリンは楽観的に考えていた。


「私はそういうのってよくわからないのだけれど、リンちゃんはもっとこう……恋に燃えるような子だと思ってたわ~」

「そういうのは十分楽しませてもらいました。最初からあたしには大恋愛の末に結婚するなんていう選択肢はなかったので」


 マユ教授はなんと言えばいいかわからない様子で、眉をハの字にしていた。

 リンはそれを見て、ふっと微笑んだ。


「気にしないで下さい。あたしは中学の時にカナザワを継ぐ気はないって宣言したから、今こうして好きな研究をさせてもらえてるんです。ただその代わりとして、父と祖父が見定めた次の跡継ぎ候補と結婚して、子供を最低でも一人産むことが求められているっていうだけで。恵まれた環境で好きなことをやらせてもらえる対価としては破格ですよ」


 特別な家に生まれたからと言って、特別な人間になることを強要しない自分の一族のやり方に、リンは感謝していた。

 決して完全な自由とは言えないが、それを補って余りある恩恵を得ているのだ。これ以上を望むのは単なる甘ったれだろうとリンは思っていた。


「そう……リンちゃんが納得してるなら、それでいいのだけれど……」


 マユ教授はリンの話を聞いても、どこかまだ煮え切らないような表情をしている。本当はリンが無理をしているのではないかと、気にしている様子だった。


「あはは、まさかマユ教授に心配されるとは思いませんでしたよ。言っておきますけど、外から見たら教授の方がよっぽどヤバいんですからね」


 リンの言葉に、マユ教授はキョトンとした顔になった。


「だってそうでしょう? 行きずりの男との間にできた子供を、教え子のマンションに転がり込んで一人で育ててるんですよ」

「そう言われるとちょっと恥ずかしい気がするわね~」

「ちょっとですか……」


 リン自身、自覚していない部分で多少の強がりはあったのかもしれない。

 それでもこうしてマユ教授と毎日他愛のない話をしていれば、そんなことは些細な問題のように思えてくるのだった。


 それからの約3年間は、リンの人生にとって最も穏やかで、それと同時に一生忘れられないような大切な時間となった。

 大学に行く前と帰宅後は必ずマユ教授の部屋に行き、彼女と一緒に家事をしたり、子供のサチコをあやしたりする。

 サチコが初めてハイハイをした時、初めて言葉を話した時、初めて歩いた時……それら全ての尊い時間をマユ教授と共に味わい、噛み締めていった。


 大学の4年間を終えた後、リンは大学院には進まずに、当初から予定していた相手と結婚した。

 結婚式と披露宴は盛大なものとなり、リンは内心辟易へきえきしていたが、招待したマユ教授とサチコの顔を見て心が安らいだ。

 渋谷の実家の近くに一軒家を建てて(これは両親からのプレゼントだった)そこに夫婦で住むことになると、ほどなくしてリンは身ごもり、男の子を出産した。

 マユ教授の時は陣痛などあまり痛そうな様子がなかったので完全に油断していたが、リンの場合は普通に大変つらく苦しいものだった。

 リンは無痛分娩を選択したが、それでも完全に苦痛が消える訳ではない。

 出産後の憔悴しきった頭でリンが最初に考えたのは、「今度マユ教授に会ったら一言文句を言ってやろう」という、どこか的の外れたものだった。


 リンの夫は結婚前も結婚後も多忙な日々を送っており、家に帰ってくることも少ないくらいだったが、育児サービスとカナザワ家専属のヘルパーを併用することで、リンはさほど苦労することもなく子育てをすることができた。

 子供のカイトが2歳になる頃には、リンは再びマユ教授のマンションに顔を出すようになった。

 育児が落ち着けばリンも母のヨシノと同じく、夫の秘書役として働かなければならなくなるかもしれない。その前に少しでもマユ教授と一緒に研究を進めたかった。

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