20XX年7月 神奈川・横浜 【それから】

「……マユ教授、ちょっと太りました?」


 リンはふと研究の手を止めて、マユ教授のお腹周りを見ながら言った。

 前々から気になってはいたものの、確実にふくよかさが増している。


 三人組が二人組になった日から5ヶ月が過ぎた。

 普通なら縁が切れても仕方ないほどのことがあったにもかかわらず、彼女たちは驚くほど以前と変わりなく過ごしている。

 物置部屋と呼ぶには高級過ぎるリンの隣の部屋には、ようやく相応の家具や家電が揃い始めていた。これらは全てマユ教授の私物だった。

 彼女がリンのマンションに通う頻度は増えていき、やがて普通に寝泊まりするようになるまではそれほど時間はかからなかった。


「あら~、気が付いた~?」


 マユ教授はにっこりと微笑みながら、お腹に手を当てて言った。


「この間病院に行ったらね~、妊娠してるって~」

「……は?」


 完全に予想外の返答に、リンは間の抜けた声を発することしかできなかった。


「えっ、マユ教授、恋人いたんですか? っていうか、実は結婚してたり?」

「そんなことないわよ~?」

「えっ」


 リンは完全に困惑した。

 この人はいつも予想外の行動を取るけれど、この展開は本当に予想できなかった。


「じゃあ誰の子なんですか?」

「ヨツヤくんよ~」

「はあ!?」

「あっ、心配しないでね~。肉体関係を持ったのはあの日だけだから~。その前も、その後も、そういうことはしてませんからね~」

「それってつまり……」

「すごいわよね~、一度で当たっちゃうなんて。やっぱり若さかしらね~」

「いやいや! そういう問題じゃなくて! まさか産む気ですか?」


 リンは混乱した頭の中でたった今自分が言った言葉を反芻はんすうして、馬鹿なことを言っているなと思った。

 マユ教授のお腹は服の上から見ても分かるくらい大きくなっている。リンは妊娠に関する知識はそれほど豊富ではなかったが、ここまで成長が進んでいると恐らく堕胎は難しいはずだ。それに、そのつもりならマユ教授は最初から病院に行った時にそうしているだろう。


「もちろん産むわよ~。私、今とっても嬉しいのよ~」

「なんで……」


 なんでこの人はこんなに幸せそうな顔をしているのだろう、とリンは思った。

 理解ができない。妊娠はそう軽く扱っていいものではないはずだ。文字通り生命を生み出す行為なのだから。

 それなのにこの人は、事情があったとはいえ他人の彼氏と関係を持ち、その一回でできた子供をさも幸せそうに産むつもりだと言っている。

 意味が分からなかった。リンは急に目の前の女性が得体の知れない存在であるかのように思えてきた。


「……カナザワさんからしたら、理解しにくいことなのかもしれないわね~」

「うっ……」


 リンは突然自分の思考を見透かされた気がして、若干の気まずさを覚えた。


「私の体ね、とある事情で子供を産めるかどうかわからなかったの~」


 そうしてマユ教授は話し始めた。

 彼女が自分の過去の話をすることなど一度もなかったし、そういう噂話すら聞いたことがなかったリンは驚いたが、しかしそれならなおさら聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けた。


 マユ教授の家系は、代々がんにかかりやすい体質だったらしい。

 彼女の母親はマユ教授が生まれてすぐに乳がんを患った。どうにか手術で事なきを得たものの、その後も何度か再発を繰り返し、マユ教授が中学生の頃に亡くなった。

 多感な時期のマユ教授にとって、目に見えてやせ細り衰えていく母の姿は強烈なトラウマとなった。自分も大人になったらあんなふうに苦痛にまみれて死んでいくのではないか……。

 マユ教授が25歳の誕生日を迎えた年に、その予感は現実味を帯び始めた。

 乳房に小さな硬いしこりのようなものがあり、生理が始まっても終わっても消える様子がない。病院で検査してもらうと、母と同じ乳がんだった。

 母のこともあってセルフチェックを念入りにしていたことが幸いし、ごく初期の段階で適切な処置を施せたため、大事には至らなかった。しかし、25歳という若さでがんを患ったという事実は彼女の人生に大きな影を落とした。

 それからマユ教授は常に怯えた気持ちで生活するようになった。自分も母と同じようにきっと再発する。やせ衰えて毛髪が全て抜け落ち、辛く苦しい闘病生活を送らなければならなくなる。それは耐え難い恐怖だった。

 藁にもすがる思いでがんに関する情報をかき集めたが、ネットで拾えるような情報は信憑性も薄く、とても鵜呑みにできるようなものではない。それでも彼女は情報収集をやめられなかった。それが唯一の助かる道であるとでも言うように。

 やがて仕事も日常生活も手につかなくなり、会社を退職することになった。

 自由な時間が増えれば良くない妄想が広がる。それに抗うかのように一日中ネットに没頭するという生活がしばらく続いたある日、彼女はとあるSNSの書き込みを見つけた。


「……それはどんな書き込みだったんですか?」


 途中まで話したところで急に黙ってしまったマユ教授にいぶかしい視線を投げながら、リンは話の続きを促した。

 しかしマユ教授は困ったようにはにかんで、言葉を探しているようだった。


「えっと~……ちょっと信じられないような、不治の病が治った、みたいな体験談かしら~」

「あー、まあよくあるやつですね」


 エセ科学や詐欺、怪しげな宗教の入り口としては一般的な釣り餌だ。

 普通の人にとっては見え見えの嘘でも、何かに追い詰められて判断力を失っている人はこういった話をきっかけにして、そこからズルズルと引きずり込まれてしまうことがあるのだ。


「それで色々あって、病気の心配をしなくても良くなったの~」


 リンは一瞬、ポカンと口を開けて固まってしまった。

 SNSで怪しげな書き込みを見つけたマユ教授が、その後どんな行動を取ったのか。そこが最も重要な部分であるはずなのに、肩透かしを食らった形だった。


「……いやちょっと、一番肝心なところを省略してませんか!?」


 リンが慌てて食って掛かるも、マユ教授は涼しい顔で受け流す。


「それはいずれ話すわ~。とにかく、体は大丈夫になったんだけど、その副作用? みたいなので、まともに子供ができるかどうかわからなかったの~」

「はあ……」


 リンは内心で頭を抱えたが、自分なりに話を補足してみることにした。

 妊娠に関わるほどの副作用があるということは、法律に触れるような新薬の治験か、あるいは認可されていない手術のようなものだろうか。それによってマユ教授は体質が変わり、病気への不安がなくなった……といったところだろう。

 ただし、がんを完璧に予防できる方法などが存在したら世の中は大騒ぎになっているはずなので、それはマユ教授の精神的な部分をケアするものだった可能性が高い。

 がんにかかりやすい体質が本当に遺伝するかどうかはリンにはわからなかったが、マユ教授の場合はその後再発していないらしいことから、若い頃の乳がんがイレギュラーだっただけなのだろうと思った。

 つまり、自分はもうがんにかからない体質になったと思い込む何かがあったのだ。

 それは先に挙げた新薬だったり手術だったり、もしかしたら催眠術的なものだったのかもしれない。とにかくそう思い込むことでマユ教授の問題は全て解決した。そんなところなのだろう。


「マユ教授が苦労なさっていたということはわかりました」

「わかってくれて嬉しいわ~。さすがカナザワさんね~」


 リンは微妙に釈然としないような気持ちで、ぎこちない笑みを浮かべた。

 なんだか煙に巻かれたような気がする。しかしマユ教授にも人間らしい過去があり、それを知っているのは恐らくこの大学では自分ひとりなのではないかと思うと、少しだけ得意な気持ちになった。

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