20XX年2月 神奈川・横浜 【転機】

 翌日。

 時刻はまだ朝の8時を過ぎたところで、大学の構内は静まり返っている。

 身を刺すように張り詰める冷気が静謐せいひつな朝を演出する中、その雰囲気にそぐわぬ早足で構内を歩く女子学生の姿があった。

 彼女はそのままの勢いでマユ教授のセミナールームに入ると、脇目も振らず最短距離を突っ切り、奥の教授室へと通じる扉を音を立てて開いた。


「マユ教授! お話があります!」


 一限目の講義の準備をする前に、まずはコーヒーでも一杯飲もうかとお気に入りのカップをちょうど手にしたところだったマユ教授は、嵐のような勢いで入室してきたリンを見て目を丸くした。


「カナザワさん、どうしたの~……?」

「どうしたのってそれ聞きたいのはこっちですからね! これは一体どういうことか説明して下さい!」


 リンは手に持っていたスマートフォンをずいっとマユ教授に突きつけた。

 その画面には、コーヒーショップの中から窓越しに撮影された、男女のカップルの後ろ姿が写っていた。


「えっと~……? ……あっ」


 マユ教授は最初、それが何の写真なのか分からず首を傾げていたが、やがて何かに気付いたように声を上げた。


「昨日の夜の9時頃に、教授とケンヂが駅の近くのラブホテルから出てきたところ、あたし見てたんですからね!」


 リンは怒っていた。見るからに怒っていた。

 それは不貞をはたらいた恋人と、虫も殺さないような顔をしながら恋人を寝取った女教授に対しての怒りだけではなかった。

 リンは自分自身のことを、それなりに理解しているつもりだった。

 例えば昨日のようなことが起きた場合、自分ならホテルから出てきた二人を見つけた時点で首根っこを押さえてその場で正座させて問い正すくらいのことはするだろうと思っていた。

 ところが実際に自分が取った行動は、咄嗟とっさに隠れてその場をやり過ごすという、なんとも情けないものだった。しかも反射的に。何かを考える余裕もなく。

 それだけにその行動は、自分の本当の姿を表しているようで、そんな自分にリンは心底腹が立っていた。

 コーヒーショップで買いたくもないコーヒーを買ってから家に帰る頃にはもう、その怒りはすっかり熟成されていて、すぐにケンヂに電話をして問い詰め、あやふやな回答しか得られないことにまた腹を立て、その勢いで恋人関係の解消を叩きつけて、さらに勢い余って翌日のマユ教授の講義スケジュールを調べ上げ、早起きするために早く寝ようとベッドに飛び込むも興奮して寝付けず、まんじりともしないうちに夜が明けてしまったのでそのまま飛び起きて、大学まで怒りの早足でおもむいたのだった。


「……カナザワさん、女の子が夜中に一人で出歩いたら危ないわよ~?」

「ちょっと! 話をそらさないでください!」

「困ったわね~」


 ちっとも困ってなさそうな声でマユ教授は言ったが、よく見ると眉が少しだけハの字になっている。これが彼女なりの困った時の表情なのだろうか。


「あたしとケンヂの関係、マユ教授は最初から知ってましたよね? それなのにどうしてこういうことをするんですか?」

「事情があったのよ~……」

「どんな事情ですか?」

「えっと~……カナザワさんはヨツヤくんのご両親がどんなお仕事をされているか知っているかしら~?」

「知りませんけど……今関係あるんですかそれ」

「お父様は有名な物理学者さんで、お母様は海外で活動している、とっても売れっ子のジャーナリストさんなのよ~」

「はあ……?」


 マユ教授の話はこうだった。

 ヨツヤケンヂは物心ついた時から、たくさんの大人に尊敬されている父親の背中と、数ヶ月に一度帰ってくる母親のエネルギーに満ちあふれる笑顔を見て育った。

 そしていつか自分もあんなふうに、キラキラと光り輝くような大人になりたいと思うようになった。

 しかし彼には、特別に心を惹かれるものが見つからなかった。

 整った顔立ち、恵まれた身体能力、そして何より人間関係を円滑にこなす才能が備わっていたものの、それは彼の憧憬しょうけいに追いつく手がかりにはなり得なかった。

 彼に限った話ではないが、大学という場所に通う時間は、そういったものを探すための最後のモラトリアムとも言える。

 彼は焦っていた。

 自分だけの特別を見つけようと、密かに躍起やっきになっていた。


「……どうしてそんなことをマユ教授が知ってるんですか」

「彼に聞いたのよ~」


 ベッドの上で? と言おうとして、ギリギリでリンは踏みとどまった。

 今更そんな皮肉めいたことを言っても惨めなだけだ。自分が知らなかったことをマユ教授が知っていたのは事実なのだから。


「で、それがなんだって言うんですか?」


 マユ教授の話を聞くうちに怒りによる興奮が段々と冷めていき、同時に、心の中にある種の冷徹さが張り詰めていくのをリンは感じていた。


「これなんだけど~」


 マユ教授は引き出しから小さな黒いチップを取り出すと、少し古い型のタブレットに挿入し、その中身をリンに見せた。

 それは、リンの祖母の研究データの一部だった。


「どうしてこれがここに……」

「昨日の夜、ヨツヤくんに渡してもらったのよ~」

「ケンヂから?」

「カナザワさんのお祖母様の研究を初めて見せてもらった日、あなたとヨツヤくんのことを調べさせて貰ったわ~。それからずっと、私はヨツヤくんのことを注意して見ていたの。少し気にしすぎかなって思ってたけど、昨日彼がデータを盗むのを見ちゃって、どうしようって思って、それで~……」

「それでホテルに誘ったんですか? あなたアホですか?」

「ひど~い。でもでも、きっと問い詰めてもはぐらかされるだろうし、腕力じゃかなわないし~……肉体関係を持ったことをカナザワさんにバラされたくなかったら言うことを聞いてねって言ったら素直に従ってくれたから、良かったかな~って……」

「んん~~~~……」


 リンは頭痛をこらえるように眉間みけんしわを寄せてうなった。

 薄々思っていたが、この人は頭がおかしいんじゃないだろうか。


「まず……あなたの言っていることが本当だという証拠がありません。本当はあなたがデータを盗んでいて、その罪をケンヂに着せてる可能性もあります。もしくは自分の体を対価にしてケンヂを実行犯に仕立て上げたとも考えられます」

「ヨツヤくんに直接聞いてみてくれていいわよ~。もう全部バレちゃったから、話してくれると思うし~」

「それは……別れ話した翌日に連絡取るのめちゃくちゃ気まずいんですけど……」

「あら~、お別れしちゃったの~? 悲しいわね~」

「誰のせいですか!」

私のせい~?」

「……もういいです」


 リンは気まずさをこらえて、その場でケンヂに連絡をとった。

 最初はとぼけていたケンヂだったが、リンが今マユ教授と一緒にいることを話すと、観念したように自分のしたことを白状した。その内容はマユ教授の話と違いなく一致した。


「最悪……」

「カナザワさん大丈夫~? コーヒー飲む?」

「いりません……ていうか教授はどうして平気な顔してるんですか。人の彼氏寝取っておいて……おかげでもうめちゃくちゃですよ」

「でも~、ああしなかったら研究が盗まれてしまっていたわ~」

「……どうしてそこまでして……自分の体まで使って、おばあちゃんの研究を守ろうとしたんですか。いつかそのうち発表する予定だったんだし、ケンヂがそれを盗んで自分のものとして発表したってあたしは別に……」

「それはダメ」

「……えっ?」


 その一瞬、マユ教授が常にまとっているほんわかとした雰囲気が消えた。

 リンはあの日の――マユ教授がコアのガラスケースを持って窓際で振り返った時のことを思い出し、本能的に身構えたが、目の前にいるのは一瞬前と変わらない様子のマユ教授だった。

 しかしその雰囲気は固く、間違えようのない真剣さが見て取れた。


「あの研究は……遠い未来には、発表することになるかもしれない。でも、今はダメなの。あれが世界中の人々の目に触れることだけは、避けなきゃいけないわ」

「な……んで?」

「……ちゃんと理由はあるの。私にだけわかること……今は言えないけど、その日が来たら必ず話すわ~」

「……答えになってませんけど」

「答えは、もう少し未来まで待ってね~」

「はあ……ていうか教授、ひょっとして……こんなことがあったのに、まだウチに来て研究続ける気ですか?」

「えっ……ダメなの~?」

「常識的にっていうか……感情的に……? いや、とにかく……教授はもう少し、まともな倫理観を持つべきです」

「私にはちょっと難しいけど、努力してみるわ~。そうしたら、またカナザワさんの家にお邪魔してもいいかしら~?」

「はあ……。もういいですよ。好きにしてください」


 マユ教授は未知の怪物だ、とリンは結論付けた。

 怪物に倫理を説いても無意味なばかりか、逆に自分の常識を覆されかねない。

 半ば諦めの気持ちでリンはこれまで通りの関係を維持することを決めた。三人組は二人組になってしまったけれど。


「でも良かったかもしれないわね~。ヨツヤくん、他の学部とか他の大学にも体の関係の子がいるみたいだったから~、カナザワさんが後になって悲しむよりも……」

「ちょっとその話、詳しく聞かせてもらっていいですか?」


 こうしてリンは、他学部と他大学の学生による包囲網を結成し、ケンヂに対して、彼が知り得た内容を一切誰にも漏らさないこと、もしほんの少しでも口が滑ったらその時はあることないこと言いふらしてやるぞという脅迫まがいの約束を取り付けることに成功したのだった。

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