20XX年2月 神奈川・横浜 【変化】
マユ教授とケンヂ、そしてリン。三人の秘密の研究チームが結成されてから、約一ヶ月が過ぎようとしていた。
マユ教授は職務の合間を縫って、週に一度のペースでリンのマンションに足を運んでいる。限られた時間の中での作業となるため、未だに資料の整理すら終わっていない。しばらくはこれが続くだろう。
「あら~……これはひょっとして、マリィ博士の研究データかしら~?」
恒例のコーヒーブレイクが終わってすぐのこと、PCを操作していたマユ教授が声を上げた。
「どれです?」
リンがモニターを覗き込むように顔を寄せる。
マユ教授はウインドウを拡大して見せた。
「ほら、なんだか隠すみたいにディレクトリが分けられていたわ~」
「本当ですね……」
そこに表示されていた内容は、要約すると以下のようなものだった。
コアの中心部には、約20µmの気泡のようなものが必ず存在する。これは人工的に生成されたワームホールで、平行世界とリンクしている。かの世界ではコアは電源を供給された装置に繋がれており、ワームホールを通じて共鳴反応が起こるため、こちらの世界のコアにも常に電力が供給された状態になっている……。
「これはちょっと……ユニークな仮説ですね」
リンはできるだけ言葉を選んで言ったが、内心ではふざけて書かれた文章のようにしか思えなかった。
確かにコアの電力がどこから来ているのかという問題は未だに解かれていない謎だが、ワームホールで並行世界と繋がっているというのはさすがに妄想が過ぎる。
こちらからモールス信号やバイナリデータをコアに向けて送り、何らかの意味のある電子的ゆらぎが返ってこないか観測するということを割と真面目にやっていたらしいことも含めて、悪い冗談のようだとリンは思ってしまった。
「でも~……どんなコアの中心にも必ず気泡が入っているのは確かなのよね~」
「……そうなんですか?」
「そうなのよ~。一般的には、この気泡はコアの製造過程で生じる副産物的なものと考えられていて、そこからコアの製造方法を探る手がかりになると言われていたんだけど~、この気泡自体に意味を見出すという視点はなかったわね~。興味深いわ~」
それからしばらくマユ教授は、マリィ博士のものと思しきデータを集中的にチェックしていた。
リンにはよく分からなかったが、マユ教授の中でなにかが琴線に触れたらしい。
その日も窓の外が真っ暗になるまで作業は続いた。
ケンヂにマユ教授を送らせることにして、リンがマンションの入り口まで二人を見送るのも恒例になっていた。
日が落ちてからの冬の空気は一層冷たく、乾燥していて、独特の寂しさがある。
二人の姿が見えなくなるのを見届けてから、リンは早足に自分の部屋に戻った。
さて夕食はどうしようかと考えたところで、リンはふと急にジンジャーエールを飲みたい気分になった。
普段はあまり炭酸飲料は飲まないのだが、時々こうして無性に飲みたくなるタイミングがある。人によってそれはコカ・コーラだったり、マクドナルドの安いハンバーガーに挟まったぺらぺらのピクルスだったりするらしいが、どうも現代を生きる人間にいつの間にか備わったそういう衝動というのは確かにあるようだ。
月に一度あるかないかの衝動だから、当然リンの冷蔵庫の中にはジンジャーエールは常備されていない。ペリエならあるが、それでは欲求は満たせそうにない。
配送サービスを使えば30分以内に届くだろうけど、それまでじっと待つのは少し違うような気がした。
例え30分以上かかると分かっていても、自分で動いて欲しい物を取りに行きたいと思ってしまうのが人間の性……というより、リンの性格だ。
リンはすぐに着替えて、出かける準備を始めた。
リンが向かったのは駅の近く、繁華街から少し外れた通りにあるバーだった。
地下に降りる木製の階段がオレンジ色のライトで照らされて、長い年月を経た
酒を飲むにはまだ少し早い時間のためか、バーの中は比較的空いていた。
木の素地を生かした内装はいかにも落ち着いた雰囲気で暖みがあり、打楽器を多用したBGMのおかげで異国情緒がたっぷりと漂っている。
リンは迷わずまっすぐにカウンター席に向かった。
「あれ、珍しいね。今日は一人?」
恐らく70歳を越えているであろう白ひげのマスターが気さくに話しかけてくる。
リンはケンヂに紹介されてから何度かこのバーを訪れていた。
「無性にここのジンジャーエールが飲みたくなっちゃって」
リンが言うと、マスターは笑ってグラスを用意し始めた。
「あるよね、そういうこと。ぼくも時々急に駄菓子が食べたくなるもん。リンちゃんはきなこ棒って知ってる?」
「なにそれ、知らなーい」
軽く談笑しているうちに、さりげなくリンの前にジンジャーエールが置かれた。
よく見なければ分からないほど細かい氷の粒がグラスの中を舞っていて、レモンの輪切りとミントが添えられている。
一口飲むと、スパイシーな香りが鮮烈に駆け抜け、心地よい辛味を残していく。
ここで出されるジンジャーエールはカクテルにも使われるものなので、甘みの少ないリッチな味わいと本格的な香りを楽しむことができる。
「おいしい。来てよかった」
「それは何より」
「マスター、今日は夕ご飯もいただきたいんだけど」
「今夜はねえ……チーズのエンチラーダとエビのセビチェになります」
「じゃあそれで」
「お酒は?」
「いらない」
「だよね。じゃあちょっと待ってて」
「はーい」
このバーでは割としっかり目の食事も取ることができる。なぜか料理の国籍が日によって完全にバラバラだったりするが、味は専門の店を出したほうがいいのではないかと思うほどだ。
マスターが裏の厨房に声をかけてからしばらくすると、できたての料理が並んだ。
「今日は来てよかったなー。虫の知らせってやつかな」
出された料理は思いの外リンの口に合い、思わずおかわりをしてしまった。
カロリーの計算が狂ってしまうが、こういうお店ではそういった野暮なことは考えてはいけない。
「リンちゃん、前に来た時より生き生きしてるね。なにかいいことでもあった?」
「いいことっていうか……んー、秘密です。でも、最近は充実してる感じかなー」
「いいね。リンちゃんの食べっぷりを見て僕も元気を貰っちゃったから、ジンジャーエールは僕に
「えっ、いいの? マスター優しいなあ。ありがと」
リンが上機嫌でバーを後にした時、家を出てから2時間ほどが経過していた。
アルコールを飲んでいないのに、軽く酔ったような心地で裏通りを歩く。
表通りから外れたこの辺りは、少し歩くといわゆるラブホテル街というやつが近くなってくる。昔から変わらない日本の文化とも言うべき奇妙な一画だ。
一度だけ入ったことがあるが、意外と高級感があって悪くなかった――そんなことを思い出しながら、リンがふと一つのホテルに目を向けると、ちょうど入り口から一組のカップルが出てくるところだった。
リンは反射的に、近くのコーヒーチェーン店に入って身を隠した。
頭で考えての行動ではなく、
窓の向こうを見知った顔の二人が歩いていく。
リンは自分の心臓が驚くほど早く脈打っていることに気が付いた。コーヒーの香りが嫌いになりそうだな、と頭の中の冷静な自分が呟く。
通り過ぎていく二人の後ろ姿は、マンションの入り口で見送った時と同じだった。
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