20XX年1月 神奈川・横浜 【始まり】

「あら、ごめんなさい。ぼーっとしてたわ~」


 振り返ったマユ教授は、いつも通りのほわほわした笑顔をリンに向けていた。

 何もおかしな点はない。そもそも、一体何に対して胸騒ぎを覚えていたのかすら、リンは思い出せなくなっていた。

 きっと気のせいだったのだろう。

 リンはそう思うことにして、改めてマユ教授を見る。すると、彼女が両手に抱えるようにして、コアの入ったガラスケースを持っていることに気が付いた。


「……ああ、これ。勝手に持ち出しちゃってごめんなさいね~。なんだか持っていると気持ちが落ち着くような気がして~……」


 リンの視線に気付いたマユ教授は、そう言ってガラスケースをリンに差し出した。

 曖昧あいまいな笑顔でリンはそれを受け取る。ずしりとくる。予想以上の重量感だった。

 祖母の荷物が部屋に運び込まれた後、これをダンボールから取り出してデスクの引き出しにしまったのはリン自身だったが、その時はまだ、祖母とマリィ博士のことを何も知らなかった。今はそれを知ってしまったからこそ、こんなにも重く感じるのだろうか。


「コーヒー冷めちゃいますよ」


 誤魔化すように笑いながら言う。

 引き出しの中にガラスケース入りのコアをしまってから、そういえばマユ教授がこれを勝手に持ち出したことに関しては特に不快感を覚えなかったなとリンは思った。


「あら……お砂糖はないのかしら~?」


 コーヒーカップを手にとったマユ教授が、こてりと首をかしげる。


「えっ?」


 反射的にリンは聞き返してしまった。

 マユ教授はいつも研究室でブラックのコーヒーを飲んでいるので、リンは砂糖を持ってきていなかった。


「教授、いつもブラックでしたよね?」

「カナザワさんとヨツヤくんはお砂糖入れないのかな~って思って。うふふ」

「ああ……そういうことですか」

「俺はブラック派っすよ」


 ケンヂは勝手知ったる様子で先にコーヒーを飲み、クッキーにも手を付けていた。


「あたしは食事時以外はちょっと砂糖入れますけど、今日はこれがあるので」


 そう言ってリンもクッキーを手に取る。日本のサクサクと軽いお菓子とは一線を画する、一枚一枚がどっしりと重いこのチョコレートクッキーに合わせるなら、コーヒーだろうと紅茶だろうと砂糖抜きが正解だろう。


「なるほどね~……あら、おいしいわ~」

「お口に合ってよかったです。教授には甘すぎるんじゃないかと少し心配で」

「私、甘いものも大好きよ~」


 お茶会は和やかに進み、自然と話題はコアのことに移っていく。


「カナザワさんは、このおばあさまの研究をどうしたいの~?」

「そうですね……」


 リンは一瞬だけ視線をさまよわせた。


「やっぱり、一度きちんとまとめて、祖母の名前で発表するべきなんだと思います。これだけのものが日の目を見ずに埋もれているのは……」


 あまり深く考えないようにして一気にそこまで喋ってから、リンはその先の言葉が出てこなくなった。

 理由は分かっている。今自分が言ったのは第三者から見たらそうすべきだという話であって、リン自身がどうしたいかという話ではないからだ。だから、これ以上言葉を続けようとすれば、恐らくそれは嘘になってしまう。


「そうねぇ……でも私は、この研究を発表するのは少し待つべきだと思うわ~」

「えっ」


 リンとケンヂの声が重なった。

 リンは知らずに固くなっていた表情をわずかに緩め、ケンヂは不可解なものを見るような目つきで、二人は同時にマユ教授を見つめた。


「おばあさまはなぜ、たった一人でこの研究を続けていたのかしら~……カナザワさん、何か知ってる?」


 リンの心臓が飛び跳ねた。

 祖母が孤独な研究を何十年も続けていたのは、愛する人の声をもう一度聞くため。たったそれだけのために、自分の人生を全て使い切ったのだ。

 そんなプライベートな事情を赤の他人である教授に話してもいいものかと、リンは心の内で自分に問いかける。


「……マリィ博士の声を聞くため、らしいです」


 葛藤の末に彼女は全てを話すことにした。

 不思議とマユ教授になら、話してもいいような気がした。

 隣にケンヂがいることは……この際、目を瞑ることにした。


「そう……二人にはそんなことがあったのね~……」


 リンの予想通り、マユ教授は真剣な表情で話を聞いてくれた。

 しかしケンヂは……こちらも予想通りと言うべきか、厳粛な顔をしようと努めているものの、どうしても疑惑の眼差まなざしが隠し切れていなかった。


「ケンヂが言いたいことは分かるよ。おばあちゃんがマリィ博士の声を聞いたのは、精神的なショックを受けている最中だった。願望が幻聴という形で現れたんだろうって普通なら考えるよね」

「いや……俺はそんな……」


 ケンヂは慌てて否定しようとするが、うまく言葉が出てこない。それもそのはずで、リンが指摘したことは、ほぼそのままケンヂの頭に浮かんだことだったからだ。


「私はそうは思わないわ~」


 マユ教授が珍しくキッパリと言い切った。(それでもほんわかした雰囲気は全く衰えていなかったが)


「ケンヂくんはさっき検証したばっかりの【願いシステム】のことを忘れてないかしら~? 私の考えだと……多分、おばあさまがマリィ博士の声を聞きたいと強く願った瞬間に、コアが自身の中に蓄積されたマリィ博士のデータを使って、その声を再現する機構を組み上げたのだと思うの~。自身を振動させるか、周囲の空気を振動させるかしてね~」

「まさか……いくらなんでもそんな複雑なこと、できるわけがない……」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわね~。でも、願いがコアを変化させることが証明されてしまったのだから、可能性はゼロじゃないでしょう~?」

「マユ教授の言う通りです」


 リンは少し震える声で言った。


「祖母は、自分の願いによってコアが一時的に発声機能を得たのではないかと予測していました。問題はなぜそれがたった一度きりで失われてしまったのか、再現するにはどうすればいいか……そういうアプローチで研究を進めていたみたいです」


 そう言いながら、リンは内心で驚きを抑えるのに精一杯だった。

 マユ教授は、リンしか知り得ない真実を言い当てた。今日の出来事を組み合わせれば簡単に推測できることかもしれないが、研究者にとってはそう簡単な話ではない。

 願いなどというあやふやなものが現実の物質を変化させるなど、簡単に認めてはならないのだ。検証の結果がそうだと言っていても、例えば地磁気の影響だとか、天候だとか、様々な条件の可能性を網羅して、それでも確かに変化の原因は願い以外にあり得ないという結論に達してから、ようやく次の段階へ思考を進めることができる。

 しかしマユ教授はそれらの過程を無視して思考を飛躍させた。これは研究者の考え方ではない。

 この人は本当は研究者などではないのではないか。噂通り、本当は別の顔を持っているのではないか。

 そんな風に考えてしまうほど、リンはかなりの戸惑いを覚えていたが、それでもマユ教授に対する感情は、どうしてもプラスに動かざるを得なかった。

 既に自分は、祖母の研究に関してだけ言えば、研究者としては失格と言っていいほど、感情に重きを置き過ぎている。

 それを自覚しているからこそ、マユ教授の肯定的な言葉がリンには嬉しかった。


「とても興味深いお話になってきたけれど……残念ながら、そろそろおいとましないといけない時間みたいね~」


 マユ教授の視線を追うと、窓の外はいつの間にかすっかり闇に落ちていて、鏡のように自分たちの姿が映し出されていた。

 この部屋には壁掛け時計もない。リンが慌ててスマートフォンを取り出して確認すると、時刻はもう20時を回ろうとしていた。


「ごめんなさい、あたしすっかり夢中になっちゃって……」

「それはお互い様よ~。今日はとても有意義な一日だったわ~」

「ケンヂ、悪いんだけど教授を駅まで送ってくれる?」

「おう、任せとけ」

「あら~、二人ともありがとうね~」


 リンは二人をマンションの外まで見送っていった。

 街灯の少ないこの辺りは、宵の口であっても深夜のような静けさに満ちている。

 数歩進んだところで、マユ教授がくるりと振り返った。


「カナザワさん、また来てもいいかしら~? 私も、おばあさまの研究のお手伝いをしたくなっちゃったの~」


 リンは一瞬目を丸くしてから、笑顔で「いいですよ」と答えた。

 当然のように言われた「私も」という台詞に、いつの間にか自分が祖母の研究を受け継ぎたいと思っていたことに気付かされて、胸の中がじわりと温かくなるような気持ちになった。


「もちろん俺も手伝うぜ。専門じゃないから難しいことは力になれないかもだけど」

「ううん、ありがとう、ケンヂ。また三人で集まろうよ」

「あらあら~。あまり二人のお邪魔にならないようにしないとね~」


 マユ教授の言葉に三人で軽く笑い合って、その日は終わった。


 それから、リンの生活に新たな項目が加わった。

 祖母の研究を受け継ぎ、彼女が一人で成せなかったことを三人で続けていく。

 目標は、マリィ博士の声をもう一度聞くこと。

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