20XX年1月 神奈川・横浜 【検証】

 その日の午後、リンはマユ教授とケンヂを連れてマンションに戻った。

 いわゆるタワーマンションと呼ばれるこの建物は、大学と駅のちょうど真ん中あたりに建てられており、どちらにも徒歩で気軽に行くことができる。

 建てられた時期がやや古いため見た目はありふれた形をしているが、周囲に高い建物がなく閑静なところがリンは気に入っていた。


「おっきなマンションね~……」

「大きくても、面倒が多いだけですよ。部屋に着くまで時間がかかるし」


 高級ホテルのような広いエントランスは三階部分まで吹き抜けになっていて、公園に面した明るい窓際に品の良いソファとテーブルがずらりと並んでいる。

 三人を乗せたエレベーターは数十秒で最上階に到着した。

 高速のエレベーター内は一気に気圧が変化するため、帰宅する時も外出する時も、毎回耳抜きをしなければならない。リンはそれも面倒事の一つだと思っていた。


 祖父の所有する横浜の高級マンションを借りるに当たって、リンは低層階の部屋を希望したのだが、祖父の強い勧めによって最上階の角部屋を与えられた。

 祖父に愛されていることは分かるが、その結果が必ずしも自分の希望に沿った形になる訳ではない。利便性を鑑みれば最上階よりも低層階の方が優れているのは明らかだし、セキュリティ面に関しても、災害が起きた際のリスクと相殺される程度の差しかないだろうとリンは考えていた。つまりは、『祖父が孫娘に与える部屋』としての格が重視されているだけで、本質的にこれは祖父の自己満足なのではないか、などと穿うがった考え方をしてしまう自分が少し嫌になることもあった。

 とは言え、これが贅沢な悩みであることもリンは理解していた。


「カナザワさんのお家はとってもお金持ちなのね~」

「あはは……」


 木目調のシックな内装の内廊下を歩きながら、これまでの人生で何度となく言われてきた台詞に対して、リンはこれまで通り曖昧に微笑むことでやり過ごす。

 自分の家がお金持ちなのは事実だ。しかしそれは生まれた時から当たり前だったことで、改めて他人からそう言われても、どう返事をすればいいか分からない。

 そんなことないですよ、などと事実を否定しても意味がないし、かと言って当然の顔で肯定しても嫌味な感じになってしまうだろう。投げつけられるパイを甘んじて顔で受けるように、曖昧に微笑むしか有効な対処法はないと、リンはこれまでの人生で学んできたのだった。


「ここです」


 リンは突き当りの一つ手前にある扉に手を触れて、ロックを解除した。

 玄関から広々としたホールを抜けてリビングダイニングに入ると、がらんと広い部屋の中に乱雑にダンボールが置かれていた。リンが手当たりしだいに開封した後、そのまま一切整理していなかったためだ。

 壁際にはデスクが二つ。その上にモニターや機材が乗っている。さほど大きくないローテーブルの上には、紙の資料や、細々こまごまとした何らかの機械類が置かれている。

 その他には何もない。カーペットも、ソファも、座布団もなく、ぐるりと周囲の景色を見渡せる広い窓にはブラインドすらかかっていない。


「あら~……なんていうか……ワイルドなお部屋ね~……」


 マユ教授は少し驚いた様子で、控えめな声で言った。


「すみません、荷物が届いてから全然片付けてなくて……」

「ひょっとしてカナザワさん、このお部屋に住んでいる訳じゃないのかしら~?」

「ええ、そうですよ。あたしの部屋は隣です」

「あらまあ~」


 呆れたような、感心したような声がマユ教授の口から漏れる。

 この一部屋だけでも常識外れな金額になるのだから、当然の反応だろう。

 一瞬呆然としていたマユ教授は、しかしすぐに我に返ったのか、すぐに机の上に置かれている黒っぽい機材に向かっていった。


「これが例の【願いシステム】に使う装置かしら~。懐かしいわ~」

「そうですけど……ご存知なんですか?」

「昔、こういうのを開発する企業に努めていたことがあるのよ~」

「へえ……」


 マユ教授は謎の多い女性だ。

 一部の学生からは、某外国企業のエージェントだとか、政府の諜報機関の関係者だとか(誰も本気で信じている訳ではなかったが)色々と噂されている。

 彼女のプライベートを知る者は教授たちの中にも全くいないらしい。そういったミステリアスな雰囲気もまた、彼女の人気を押し上げる一因となっているようだった。


「カナザワさん、さっそく試してみたいのだけれど~?」

「あ、はい。ではこれを……」


 リンはとりあえず自分の部屋からお茶などを持ってきて一息つこうかと思っていたのだが、今日いきなり自宅を訪れることを決めたマユ教授がそんな悠長なことを望むはずもないと思い直して、すぐに装置の設定を始めた。

 こういう時に社交辞令的なやり取りのようなまどろっこしいものを省略してしまうマユ教授の一面を、リンは好ましく思っていた。


 マユ教授による検証は一度目で期待通りの結果が出た。

 彼女はそれを見てかなり興奮した様子で、珍しくあれこれ早口で語っていた。リンもつられて嬉しくなり、ついつい話が盛り上がってしまったが、ケンヂだけ一人蚊帳の外のように部屋を探検したり床に寝っ転がったりしていた。

 ケンヂの所属している研究室はマユ教授とは方向性が異なり、また彼自身あまり熱心に打ち込むタイプではないため、話に乗れないようだった。


「そろそろ休憩にしない?」


 リンとマユ教授の話が一区切りついた絶妙なタイミングで、ケンヂが言った。

 その時になってようやくリンは恋人を放置していたことに気付いた。


「そうだね、飲み物持ってこようか。マユ教授はコーヒーでいいですよね?」

「ええ、ありがとう~。……あら、これって……?」


 検証に使ったコアを片付けようとデスクの引き出しを開けたマユ教授が、何かを見つけたような声で言った。


「カナザワさん、このコアは何か特別なものなの~?」


 引き出しの中には研究用のコアを収めるための箱が入っているが、その奥に隠れるようにして、クリスタルガラスのケースに入ったコアが一つだけ、ぽつんと置かれていたのだった。

 まるで宝石を収めるためにあつらえられたかのような重厚感のあるケースの下半分は、コアがすっぽりとはまるように窪んだ白いクッションが占めていて、その上にコアが一つ、眠るように鎮座している。


「ああ、それは……祖母が亡くなる時に持っていたものらしいです。他のコアは全部箱に入っていて、空のケースだけが引き出しの中から見つかったそうなので、恐らくそのコアが収まっていたんじゃないかって」

「あらあら~、とっても大切なものだったのね~」

「そうかもですね……それじゃあ、ちょっと待ってて下さい」


 ケースを両手で大事そうに持ってしげしげと観察しているマユ教授を横目で見ながら、リンはケンヂを連れて、隣の自室に戻った。


 ウォーターサーバーの適温のお湯を使って手早くコーヒーを作る。

 リン自身はそれほどコーヒーにこだわりはないため、お気に入りの輸入雑貨店で買ったちょっとお高いインスタントコーヒーだ。豆から挽くような手間はかけない。

 お茶請けにはクッキーをひと缶。これも同じ店で買ったもので、それほど高級な品ではないが、濃厚なチョコレートの味がリンの最近のマイブームだった。

 それらを載せたお盆をケンヂに持ってもらい、リンは大きめのクッションを抱えて部屋を出た。物置部屋には椅子が二脚しかないので、ケンヂが座るためのものだ。


 内廊下を歩いて物置部屋に戻り、リビングの扉を開けると、マユ教授は奥の窓際に立っていた。


「お待たせしました」


 クッションを床に置きながらリンがマユ教授に声をかけたが、無駄に部屋が広いせいで声が届かなかったのか、彼女はこちらに背を向けた格好のまま動かない。


「マユ教授ー、コーヒー持ってきましたよー」


 リンはマユ教授に声をかけながら窓際に歩いていった。

 ちょうど日が沈むくらいの時刻で、遠くの雲と空がピンク色に染まっている。

 ひとかたまりの雲はこちら側が濃い灰色に、それを縁取るように向こう側から暖色の光が貫いて、どこか神話の時代を思わせる荘厳さがある。

 この高さから見渡す夕焼けの空は何物にも遮られず、正面から頭上へと美しいグラデーションを描いていた。

 こうして眺める景色だけは間違いなく素晴らしいとリンは認めていた。

 朝も夜も、窓の外を見るだけでほんの少し幸せな気持ちになれる。その瞬間だけは、祖父はこの景色を見せるために最上階をあてがったのではないかとさえ思えてくる。マユ教授もこの美しさに感じ入っているのだろうか……。


「……そういう……ことだったんですね……」

「……えっ?」


 ぽつりと聞こえたその声は、まるで普段のマユ教授とは別人の声のようで、思わずリンは聞き返してしまった。


「あの……マユ教授……?」


 返事はない。

 沈みゆく赤い光が彼女のふわふわとした髪を透かし、燃えている。

 リンは急に胸騒ぎを覚えた。

 目の前にいるこの人は一体誰だろう? いつからここにいるのだろうか?

 おかしな問いだということは分かっていた。しかし、それはあまりにもしっくりと来る問いでもあった。

 くるりと何の前触れもなく彼女が振り返った。

 ほんの一瞬、逆光によって、その表情は見えなくなっていた。

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