20XX年1月 神奈川・横浜 【ひかれ合うもの】

 リンの通う大学の一号館のロビーには、大きな窓がある。

 幅4.5メートル、高さは約7メートル。上部にはステンドグラスのような装飾が施されており、この窓のためだけに一号館は4階までが吹き抜けとなっている。

 天気の良い日はロビーの床に色鮮やかな光が神秘的な模様を描き、ここを通る人の目を楽しませてくれる。

 大正時代に作られたというこの意匠いしょうは、戦時中の火災によって焼失した後に復元されたものだという。窓の前に巡らされた背の低い柵の端に、そのような説明書きのパネルが掲示されている。

 柵の前には背もたれのない緑色のソファと丸いテーブルが数組置かれていて、学生たちのちょっとした憩いの場となっていた。


 リンは薄曇りの日差しを浴びながらソファに腰掛けていた。

 窓の外に広がるのは立入禁止になっている植物園の一部で、よく手入れされた緑の葉や、季節によっては色とりどりの花が目を和ませる。時折珍しい鳥が訪れるらしいという噂もあったが、リンにはあまり興味がなかった。


「……どう思う?」


 リンは未開封の缶コーヒーを手の中でもてあそびながら、目の前の男に尋ねた。


「正直なところ、荒唐無稽って感じだな。リンから見せられたんじゃなかったら、昼飯の後には忘れてるかも」


 タブレット端末をリンに返しながら、その男……ヨツヤケンヂは軽い声で言った。

 ケンヂはリンより一つ上の学年で、昨年二人はたまたま同じ講義を取っていた。

 背が高くがっちりとした体型の割に爽やかな顔立ちをしているケンヂを、あらいい男じゃないと思いながらなんとなく目で追っていたリンだったが、ある日ケンヂの方から声をかけられて、なんとなく恋人のような関係になったのだった。


「ま、普通は信じられないよね」

「いやいや信じるよ。リンが検証したなら間違いないだろ」

「アンタねえ、そんな簡単に……あたしの検証が正しいか間違っているかなんて……いや、いいや。相変わらず研究者らしくないよね、ケンヂは」

「まあまだ学生だし」

「そうだね。そうだった」


 リンは恋人のこういう子供っぽいところが嫌いではなかったが、この時だけは自分の声にとげが混じってしまうのを止められなかった。

 自分で思っている以上に、自分は祖母の研究とその人生に対して深く感情移入しているらしい。その事実に、リンは内心で驚いていた。


「それよりさあ、なんか食いにいかない? 午後の講義まで時間あるでしょ。この間スゲーうまい和食の店教えてもらってさあ……」


 ケンヂはそんなリンの微妙な不機嫌さを感じ取って話題を変えた。

 相手の声や表情などから感情を推測して最適な行動を取るというケンヂの特技を、初めのうちリンは魔法のように感じていた。

 自分が心地良いと思える言葉を欲しいタイミングでくれる。こうしてくれたら嬉しいと思える行動を取ってくれる。この人はなんて素晴らしいのだろうと思っていた。

 しかし最近は少しだけ、それが薄っぺらく見えるような気がしていた。

 そして今このタイミングで発せられた彼の言葉に、リンの中でわだかまっていたその不信感のようなものが、グンと心の閾値しきいちを超えた。


 (「それより」ってなに? この研究に対して他に質問とか、ツッコミとか、議論とか、何もないわけ? あたしがわざわざ自宅から持ってきたデータをアンタに見せた理由を少しも考えないの? 一緒に話し合いたかったのに。あたし一人の検証じゃ不安だったのに。どうして分かってくれないの?)


 リンは己の内側で渦巻く言葉を抑え込むために、ほんの数秒、時間を要した。


「あら~、カナザワさん、それはなにかしら~?」


 そして、その一瞬の間を縫うようにして、突然ほわほわとした声がリンの背後から降り注いできた。


「あ……マユ教授」


 リンはその声を聞いて、咄嗟にタブレット端末を手で隠してしまった。

 振り返ると予想通り、ふんわりとした髪と大きな胸が特徴的な女性……マユ教授がいつもの穏やかな笑顔で立っていた。


「うふふ、隠したわね~。やっぱり何かイイコトのお話、してたんでしょう~?」

「いやーちょっとリンのおばあさんの研究を見せてもらってただけで……」


 リンは急にケンヂのすねを蹴り上げてやりたい衝動に駆られた。

 自分でも何故か分からないが、この研究をあまり多くの他人に知らたくないという気持ちがあった。


「おばあさまの研究……? ああ、そういえばカナザワさんのおばあさまは、コアの研究をなさっていたわね~」

「えっ……」


 リンは突然頭を殴られたようなショックを感じた。

 マユ教授の研究室に入ったのは昨年のことで、プライベートな話などほとんどしたことはなかったはずだ。


「ど、どうしてそれを知ってるんですか……?」

「あら~、コアの研究者の間では、ちょっとした有名人なのよ~。お孫さんは知らなかったのかしら~?」

「全然知りませんでした……」

「そうだったのね~。でも、この度はご愁傷さまでしたね~。とても残念だわ~」

「いえ……」


 考えてみれば、50年間もコアの研究だけを続けていたのであれば、その道の人たちにはそれなりに知られていても当然なのかもしれない、とリンは思った。どういう意味で有名だったのかは、ちょっと考えたくないが……。


「それで~、ヨツヤくんには見せたのに、私には見せてくれないのかしら~? 先生悲しいわ~」


 よよよ、とマユ教授はわざとらしい泣き真似をするが、リンはそれを見ても不思議とうんざりした気持ちにはならず、むしろとても可愛らしいと感じた。

 彼女はそのルックスも手伝って男子学生には結構受けが良く、非公認のファンクラブもあったりするくらいだ。

 同性から見ればその喋り方や仕草にはイラッと来そうなものだが……不思議と彼女に関するそういった陰口を、リンは聞いたことがなかった。


「いえ……その、教授にお見せするほどのものじゃないっていうか……そんな大したものじゃないんで……」

「カナザワさん、おばあさまの研究をそんな風に言ってはいけないわ~」

「あ……」


 リンは、かあっと自分の顔が熱くなるのを感じた。

 祖母の研究を尊いものだと考えていながら、荒唐無稽と言われるようなこの研究を他人に知られることを、心のどこかで恥ずかしいと思っていたのだ。

 それでも誰かとこの気持ちを共有したくて、恋人なら自分が望んでいた言葉をくれるのではないかと勝手に期待して、そして勝手に失望していた。

 そんな自分の心こそが恥ずべきものだったと……マユ教授の真剣な表情とその言葉で、理解させられてしまった。


「……すみません、その通りですね。どうぞ」

「あら……いいの~?」

「コアに関する研究ですから。それは抜粋した一部ですけど、マユ教授にも見てもらった方が良いと思います」

「ありがとう、カナザワさん。読ませてもらうわ~」


 リンはマユ教授にタブレット端末を渡すと、ケンヂに向かって「ごめん」と小さく謝った。ケンヂはおどけたような笑顔で「なんのこと?」と答えた。


 リンの隣のソファに腰掛けて、タブレット端末に指を滑らせていたマユ教授は、しばらくしてから顔を上げて、ほんの少し左上を見上げるような仕草をした。


「どうでした?」


 リンが尋ねると、マユ教授はにっこりと笑ってタブレット端末をリンに返した。


「ありがとう、とっても興味深かったわ~。これはぜひ検証してみたいわね~」


 それが社交辞令的な返答ではないことを、マユ教授の研究室に所属している学生たちなら全員が知っていた。

 彼女が「こうしたい」と言う時は、大抵の場合、それを実行に移してしまう。


「じゃあ今度、祖母が使っていた専用の機材を研究室に運びましょうか。ちょっと大きいですけど……」

「そういうことなら、運ぶのは俺に任せてくれよ」


 ケンヂは今度こそ間違えずにリンの気持ちを汲めたようだった。

 頼りがいのある恋人の言葉に、リンは自然と笑顔になった。


「それって、カナザワさんのご実家にあるの~? ちょっと大変じゃない~?」

「いえ、あたしが祖母の研究資料なんかを全部引き継いで、今はまとめてマンションに置いてあるんです。だからそんなに大変じゃないですよ」

「あらあら~」


 マユ教授は人差し指を頬に当てて少し顔を傾け、何かを考えるような仕草をした。

 この人は時々、突飛な行動を取ることがある。そしてその前兆がこの仕草であることを既に知っていたリンは、反射的に頭の中で身構えた。


「それじゃあ今日、カナザワさんのお宅にお邪魔してもいいかしら~?」

「えっ、いえ、その」

「ダメかしら~? 私、一刻も早く検証してみたいのだけれど~」

「えーと……午後の講義があるので、その後なら」


 ここまでグイグイ来るマユ教授は珍しい。恐らく何を言っても無駄だろうと悟り、リンは早々に観念した。


「嬉しいわ~。ありがとうね、カナザワさん」


 リンの返事を聞いたマユ教授は感激したようにリンの手を自分の両手で包み込んで、普段学生たちに見せることのないような、パアッと特別に輝く笑顔を向けた。

 自分が男子学生じゃなくて良かった、もしそうだったなら、非公認ファンクラブの会員が一人増えていたところだ、とリンは思った。

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