継承

20XX年1月 東京・渋谷 【遺品整理】

 カナザワヨシノは、自宅の離れに運び込まれた大量の荷物を見て、大きなため息をいた。

 梱包されたダンボールが大小合わせて50箱ほど。事務机と椅子が二組。金属製の棚にソファベッド、折りたたみのローテーブル……。

 布団やカーテンなどといったかさばるものや細々こまごまとしたものは業者に処分してもらったにもかかわらず、これだけの量が残ってしまった。


「私としては全部捨てちゃいたいのだけれど……」

「まあまあ、ヨシノ。そう言わないでくれ」

「でも、お父さんだって別に思い出の品なんてないでしょう?」


 少なくともこの中には、と娘のヨシノに指摘されて、カナザワユウトは苦い笑みを浮かべた。


「まあね。でもきっとこの中には、ユカリが大切にしていたものがある。学術的価値のあるものも、きっとね」

「私には分からないわ」


 興味なさそうにヨシノは言って、壁の時計を見た。

 午前11時。あの子はそろそろ来るだろうか。それともお昼ご飯を済ませてから来るなら、午後になるだろうか。


「あまりこういうことは言いたくないけれど」


 そう前置きしてから、ヨシノは陰鬱な調子で切り出した。


「私、あまりお母さんのこと好きじゃなかったわ」

「ヨシノ……」

「だってそうでしょう? 家庭のことは全部お父さんとお祖父じい様に押し付けて、自分は研究のことばっかりで。あの人が家に帰ってくるのって、週に一回あったかどうかじゃない。私、お友達に片親だって誤解されたこともあったのよ」

「それはもう何度も説明してきたことじゃないか」

「理解はできても……納得はできないわ。子供を放っておいてまでやるべき研究ってなに? 私も結婚して子供ができて、やっぱり思ったもの。全部この子のために力を尽くそうって。そう思うのが親でしょう? あの人はどこかおかしかったのよ」

「やめなさい、ヨシノ。ユカリは僕たち家族を愛していた。そして僕も、ユカリを愛している。これは本当のことだ」

「……」


 とても信じられない、とヨシノは思ったが、口には出さなかった。

 父親のユウトが、今でも亡くなった母のことを愛しているとならば、わざわざそれを否定するのは無用ないさかいを引き起こすことにしかならない。


「お父さんも……お母さんのことを愛していたのなら、ちゃんとあの人をいさめるべきだったんじゃないの? お父さんが何も言わずに、全部あの人の自由にさせたりしてたから……まだ若かったのに」

「確かにその通りだ。でも、それはできなかったんだ。そういう約束だった」


 ユウトは妻のユカリと出会った日から今日までの時間を思い出すように、遠い目をしてダンボールの山を見つめた。


 カナザワユカリは、67歳の若さで亡くなった。

 死因は心筋梗塞だったが、大本の原因は過労ではないかということだった。

 五反田の研究所で発見された時、彼女は自分の机に突っ伏して、研究用のコアを両手で握りしめていた。普通なら胸の痛みで苦悶の表情をしていてもおかしくなかったはずだが、その死に顔は不思議と安らかなものだったという。


「その約束って――」


 ヨシノが言いかけた時、ドアを開ける音がして、二人は振り返った。


「ただいま、お母さん。こっちにいるって聞いて……あ、おじいちゃん久しぶりー」

「おかえり。久しぶりって、お正月に会ったばかりじゃないか」

「おかえりなさい、リン。早かったわね」

「おばあちゃんの遺品を整理するって聞いたら居ても立っても居られなくて、急いで来ちゃった」


 黒髪のショートカットに化粧けのない顔、外の寒さのためか鼻の頭が少し赤くなっている。そんな見るからに活発そうな女性が息を弾ませながら部屋に入ってきた。

 今年で大学2年生になる、ヨシノの娘のリンだった。

 リンは母親と祖父と言葉を交わしながらも、視線は既に積まれたダンボールの山へと向いていた。


「急に呼んで悪いわね。大学は大丈夫なの?」

「今日はお休みにしたから平気平気。あ、もちろん単位は大丈夫だからね」

「そう、それならいいのだけれど」

「すごい量だね。開けてみてもいい?」

「ええ、もちろん。そのためにあなたを呼んだのよ」


 見るからにうずうずしている娘に苦笑しながら、ヨシノは言った。


「私たちにはよく分からないけど、大学でコアのお勉強をしているリンなら、いるものといらないものが判別できるかと思って……欲しい物があったら選んで頂戴ね。残ったものは処分してしまうから」


 片っ端からダンボールを開封して中を漁っていたリンは、母親の言葉に目を見開いて、「処分するなんてとんでもない!」と言いたげな表情をした。そして1秒後には実際にそう言った。


「これ、すごいよ! もうちょっと詳しく調べてみないと分からないけど、ここまで突っ込んだ研究は大学の研究室でも見たことないかも! どうしよっかな……古いPCはHDDだけ抜いて……紙の資料はどうしよう、全部データ化したいけど量がすごいしなあ……」

「全部持っていったらどうだい?」


 孫娘のはしゃぐ姿をニコニコと見つめていたユウトは、軽い調子でそう言った。

 ヨシノは父親に非難めいた視線を送ったが、それを聞いたリンは瞳を輝かせた。


「おじいちゃん、いいの!?」

「ちょっとお父さん……いくらなんでもリンのマンションには入り切らないわよ」

「リンの部屋の隣は、確か空室にしてあっただろう? そこを資料室にすればいい。どうかな、リン?」

「それ、すごく助かる! おじいちゃんありがと! 今年の誕生日プレゼントの代わりでもいいよ!」

「ふふ、誕生日プレゼントはきちんと用意するから安心しなさい。さて、それじゃあ僕はさっそく連絡してくるとしよう……」


 ヨシノは自分の頭の上を通り越してポンポンと物事を決められたために、少し不満そうな表情で、退室するユウトを見送った。

 それでも手っ取り早くこの大量の荷物が片付くのなら文句は言えない。彼女もその程度の合理的思考くらいは持ち合わせていた。


「リン、この後は皆でお昼ごはんを食べに行きましょうか。何か希望はある?」

「うんー……」


 じっと紙の資料を見つめながら生返事をする娘を見て、ヨシノの胸の中にほんの少しの不安がぎった。

 研究に没頭するあまり家族をかえりみず、そのせいで早逝した母のことを連想してしまったからだ。


「リン、それはマンションに運んでからゆっくり読めばいいでしょう?」


 リンは母親の声が硬い響きを帯び始めたことを察して顔を上げると、にっこりと完璧な笑顔を作った。


「そうだね、ごめん。ちょっと夢中になっちゃった。あーお腹すいたなー。中華かフレンチでー、こってりしたやつが食べたい気分かなー」

「……ランチなら中華の方がいいかしらね。お父さんにも聞いてみましょう」


 安堵したような声でヨシノは応じる。成人しても娘はまだまだ子供のままだ、と無意識のうちに再確認していることに、彼女は気付いていない。そうやって不穏な想像をなかったことにする。

 そしてリンもまた、母親の心の内では恐らくそのようなやり取りがあったのだろうと推測していた。

 母は祖母を嫌っていた。だから娘である自分が祖母のようになることを恐れている。なんて分かりやすい人なのだろう。ちょっと母の望む理想の娘を演じてやれば、全ては円満に収まる……。

 リンはこれまでもそうやって、自分の望む人生を勝ち取ってきた。だからこれからも自分の望みを諦めるつもりは一切ない。

 ちらりと見ただけでも、祖母の研究には心惹かれるものがあった。家族をないがしろにしてまで、人生の大半を賭けてまで取り組んだ研究に、何もないはずがない。

 この無邪気な好奇心が彼女自身の人生を大きく変えることになるのだが、この時のリンはまだ、自分が手を付けようとしているものは、ほんの暇つぶし程度のものだと思っていた。

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