20XX年4月 東京・練馬 【誓い】

 クモザキユカリが地下鉄大江戸線の豊島園駅を出た時にはもう太陽が真上に昇っており、まばゆいばかりの陽光がアスファルトに降り注いでいた。

 向かいのスーパーに入って飲み物を購入してから映画館の方向へ道沿いに歩き、角を左に曲がる。

 通りを歩いている人の数が減っていき、車が走る音も遠ざかっていく。

 静寂が満ちる。


 桜の花が咲き誇る中、聞こえてくるのは鳥の声だけだ。

 嘘みたいにのどかな日和だった。

 立ち並ぶ石の群れを抜けて、ユカリは目当ての墓石の前にたどり着いた。

 平日のためか、それともこの辺りの区画が特別なのか、周りには他に墓参りをしている人は見当たらない。

 来る途中で見かけた販売所の花でも買ってくればよかったかとユカリは考えたが、今は春まっさかりで、これだけ綺麗に桜が咲いているのだから、あの人なら切り花など無粋だと言うだろうと思い直した。

 墓石に目線を合わせるように、かがんで両手を合わせる。

 この行為は今の自分にとってはあまり意味をなさないことだと分かってはいたが、とりあえずポーズとしてやってみる。物事には実際に体験してみなければ分からないことが意外とたくさんあるということを、ユカリは人生の中で学んでいた。


 それからユカリはごそごそとバッグの中を探り、スーパーで買ったカクテルの缶を取り出して、墓石の前に置いた。アルコールを墓石にかけると劣化の原因となると聞いたことがあったので、本当にただ置くだけにしておく。

 そして数十秒ほど待ってから、ユカリはもう一度それを手にとって開封した。この一連の行為の無意味さに、なんだか自分が馬鹿になったみたいだと思った。

 プシュ、という充填されていた窒素や二酸化炭素が漏れる音を合図に、人工的な甘い香料の香りが漂う。

 口をつけて軽くすすった。甘くて、苦い。予想通りの味だ。

 さして美味しいとも思えない飲み物をちびちびと口に運びながら、ユカリは、やはり自分にはアルコールは合わないなと思った。


 20歳の誕生日を迎えた日、ユカリは待ちかねていたように数種類のアルコール飲料を購入してきた。マリィ博士が一緒に飲みたいと言っていた言葉がずっと心の中に引っかかっていたからだ。

 そうして口にした初めてのアルコールの味は、控えめに言っても酷いものだった。

 なんて不味いんだろうと思いながら赤ワイン一本とビールひと缶とチューハイひと缶を空けた結果、ぐにゃぐにゃの芋虫のような有様になりながら、この飲み物は封印しようとユカリは心に決めたのだった。(しかしその後もなんとなく飲みたくなる日があり、その度に若干の後悔を覚えるのだった)


 アルコールは、ある物事と全く無関係な別の物事の間にある敷居を取り払い、斬新で新しいアイデアを発見できるような感覚をもたらしてくれる。それ自体は悪くないと思ったが、同時にそのアイデアを分析するための思考能力が失われてしまうのでは意味がない。

 しらふの時にいくつかアイデアを出しておき、アルコールを摂取してそれらを革新的に融合させ、その結果をメモしておいて後で検証するという方法を思いつき実践してみたこともあったが、結果は思った通りにはならなかった。何よりアルコールが抜け切るまで自分自身が全く使い物にならなくなるのが致命的で、必要とされる時間に対するリターンが割に合わなかったのだ。


 ユカリは、博士はなぜこんなものを好んだのだろうと不思議に思ったが、そういえば彼女がお酒を飲むところを実際にはほとんど見たことがなかったと気が付いた。

 会食の時や、バーベキューの時……研究についてあまり考える必要のない時間を選んでいた。つまり、ユカリの考案したアルコールの飲み方は完全に間違っていたということになる。これは娯楽のために飲むものであって、研究に利用するために飲むものではない。よく考えれば――いや、よく考えずとも常識的に――そんなことは自明だったのに。ユカリは自分の頭の硬さに呆れ返ったのだった。


 ユカリはいったん手の中の缶を地面に置き、屈んだままバッグから半透明のコアを取り出して、両手で包み込んだ。


「ずいぶん遅くなってしまいましたが……ようやく自分の中で心の整理ができて……踏ん切りがついて、ここに来ることができました」


 ユカリは一つ深呼吸をして、軽く周囲を見回した。

 周りには自分以外誰もいない。

 なんとなく一人で喋っているのが気恥ずかしいような気がしたのだ。


「あたしの方は、そこそこ生活が安定してきました。カナザワさんに全面的にバックアップしてもらって、今でも研究を続けています。あの研究室をずっと使わせてもらっているんですよ」


 当初は、研究室を引き払う予定だった。

 マリィ博士の遺言に従ってカナザワ氏がユカリを引き取り、渋谷にある家で一緒に暮らすことになるはずだった。

 しかしユカリはそれを拒んだ。研究を続けることを望んだ。

 そしてカナザワ氏は、ある条件をつけてそれを了承した。

 その条件はユカリにとって本意ではなかったが、しかし長い目で見れば必要なことだろうと思えた。その条件とは――


「あたし、カナザワさんの息子さんと結婚するんですよ。信じられないでしょう? でも、あたしだって最初に博士の秘密を知った時は信じられなかったんだから、これでおあいこですね」


 ユカリはくすりと笑った。

 こんな風に笑えるようになるまでには、本当にたくさんの時間を必要とした。


「博士、どうしてカナザワさんと結婚していたこと、あたしに秘密にしていたんですか? おまけに子供までいたなんて……カナザワさんから聞かされた時は結構ショックだったんですよ。でも、そのおかげであたしは今でも研究を続けられるわけで……それにしても、まさかあなたの子供と結婚することになるなんて。もう、嫉妬すればいいのか、感謝すればいいのか、よくわかりませんよ」


 マリィ博士は学生の頃にカナザワ氏に見初められて結婚した。一子をもうけた後、研究と家庭に対する接し方について意見が衝突し、その後はずっと別居状態で、籍はそのままだったが実際はほとんど離婚しているのと変わらない状態だったらしい。


「……こういうことは、別にわざわざこんなところまで来なくたって、このコアに話しかければいいことだって、分かってはいるんですけど。だってあなたはこのお墓の下にはいなくて、だからきっとこれは、生きている人のためのもので。本当のあなたはコアの中にいる。あたしはそう信じています。それでも……あたしがここに来ようと思ったのは……たぶん、区切りをつけたかったから。誓いを立てたかったから」


 ユカリは強くコアを握りしめた。

 きつく目を閉じ、唇を引き結ぶ。

 そうして絞り出すような声で、宣誓した。


「あの日確かに聞いたあなたの声を、もう一度聞きたい。あたしはそのためだけに、今の研究を続けています。あなたの声を取り戻し、その心を、たましいを、きっとこの世界に蘇らせてみせる。待っていて下さい、マリィ。どれだけ時間がかかるか分からないけれど、そのための布石は用意しています。きっと……いつか必ず……」


 涙はもう、こぼれなかった。

 ユカリの心の中にあるのはただ一点の光。

 たった一つの願いをその胸に抱いて、そのための手段を選ぶことなく、ひたすらに突き進むための強い強い意思だった。

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