20XX年8月 東京・品川 【声】

 ジワジワというセミの鳴き声が、コンクリートの壁と窓ガラスを貫通して部屋の中にまで響いてくる。

 去年の8月もこんな風にセミが鳴いていただろうか、こんなにもセミの声というのは騒々しいものだっただろうかとクモザキ助手は思った。

 持ち帰ってきたコアを机の上に置く。コトリ、と小さな音がする。

 マリィ博士は最期までこのコアを握りしめていたのだと病院の先生は言っていた。

 

 彼女から最後にかけられた言葉は何だっただろう。クモザキ助手は懸命に思い出そうとしたが、結局思い出せなかった。頭の中にもやがかかってしまったように、思考がうまく働かない。

 数ヶ月前とほとんど変わっていないはずの部屋は、どこか現実感がなかった。

 空っぽだ。もうここには何もない。

 自分の体の中まで空っぽになってしまったような感覚に襲われて、クモザキ助手はふらりとよろめいた。反射的に手を伸ばしたのは、マリィ博士の机だった。

 がたん、とやや大きな音がしたが、物が壊れたり怪我をしたりせずに済んだ。

 しかし手をついた拍子に、机の上のキーボードを大きく動かしてしまった。そしてキーボードの下から……見慣れないUSBメモリが出てきたのを、クモザキ助手は夢でも見ているかのようにぼんやりとした気持ちで見つめていた。


 マリィ博士がこんなメモリを使っているところは見たことがなかった。

 そもそもデータをUSBメモリに移すということさえ、滅多にすることではない。

 クモザキ助手は自分の手が震えているのを感じた。

 これは何か、そう、例えば博士が誰かに向けて残したメッセージだとか……。

 いや、そんな馬鹿げた話があるはずがない。これは何の変哲もないただのUSBメモリで、中身もちょっとした音楽や画像のデータが入っているだけだ。

 クモザキ助手の頭の中で様々な彼女自身が議論を交わしていたが、彼女の手はそれらを全て無視して、USBメモリをPCに差し込んでいた。

 持ち主がこの部屋に戻らなくなってからもずっと起動していたPCは、システム音と共に自動的にフォルダを開いた。

 フォルダの中には、ファイルがたった一つだけ保存されていた。ファイル名は数字の羅列だった。

 クモザキ助手はそのファイルをクリックして選択し、……それからたっぷり2分ほど逡巡しゅんじゅんしてから、意を決してエンターキーを押下した。

 音楽メディア再生ソフトが立ち上がり、PCのスピーカーから静かなノイズが流れ始めた。


『さて……あー、今夜は月が綺麗だな。って嘘。ここからじゃ月は見えないみたい』


 クモザキ助手は、全身を電気に打たれたかのようなショックに見舞われた。

 それはマリィ博士の声だった。もう二度と聞けないと思っていた声だった。


         ◆


『えー今日は6月……日。正確には昨日は、かな。が珍しく私に、すごく、ものすごーく甘えてきて、そんでようやく寝静まった後にこれを録音してます』


『さて……困ったな、どういう体で話せばいいんだろう。いくつかパターンが考えられるね』

『その1、さほど時間を経ずにこの音声ファイルがユカリちゃんに見つかって聞かれている場合。ユカリちゃん聞こえてる? 今私が後ろにいるとしたら振り返らない方がいいよ。たぶん笑ってると思うから』

『その2、全然関係ない誰かが聞いてる場合。えー……まあ聞いての通り、全然関係ない話なんで……大したことも話さないので聞かなくても差し支えありません』

『その3、何年も経って、ユカリちゃんがこの研究室からいなくなって、それでふと懐かしくなって私が自分一人でこれを聞いている場合。……あーそれは寂しいな。恥ずかしいし。もしその3だったらすぐに消して。って言うまでもないか』

『その4、私がもうそこにいなくて、ユカリちゃんが一人でこれを聞いている場合』


『……そうだね、その4の体で話そうか。その方がエモいでしょ? なんつって』


『さて、では改めてクモザキくん、元気でやってるかな? 私がどういう理由できみの近くにいなくなったのか、その可能性はいくつかあるだろうから、差し障りのない感じで話すことにしよう』

百日紅サルスベリの花の話を覚えてるかな。二人で渋谷に行った日の、夜の帰り道での話だ。私はよく覚えている。あの時私は少し酔っていて、きみは面倒くさかっただろうに、律儀に私に付き合ってくれたね』

『私は学生の頃に渋谷で働いていたことがあってね、いつもあの花を見るたびに心が慰められていたんだ。そして、いつかそれを誰かに話したいと思っていた。あの花の美しさについて気持ちを共有したいと思っていたんだ。だからきみに話せて嬉しかった。ただの自己満足だけどね』

松濤しょうとう公園の池のベンチに座って、二人で他愛もない話をしていたあの夜のことを、私は今でも鮮明に思い出すよ。あの夜はまるで学生の頃に戻ったみたいに胸が高鳴っていた。本当に楽しかった。あちこち蚊に刺されて散々だったけどね』


『思えば、結構二人で遊びに行くことも多かったねえ。多摩川のバーベキューは覚えてる? まさか肉の脂があんなに燃えるとは思わなかったよ。危なかった。人があんなにたくさんいたのも予想外だったけど、今となってはいい思い出だ』

『一度だけプールにも行ったっけ。最初きみは子供っぽいなんて言ってたけど、すぐに泳ぐのに夢中になっていた。売店で頼んだ月見うどんをとても美味しそうに食べていたね。きっとたくさん泳いで汗をかいて塩分が不足していたから、ことさらに美味しく感じたんだろう。別の日に外食した時に、月見うどんを頼んで期待はずれの顔をしていたきみのことを思い出すと、とても微笑ましい気持ちになるよ』


『なんだろうね、こうして一人で話していて思い出すのは、どれもきみと一緒に過ごした時間のことばかりだ』


(ためらうような息遣い。遠くに車の音が聞こえる)


『あー……ここから先は、もしもその1のパターンだった場合、後ろで聞いている私、わかってるね。今すぐ止めてくれたまえ。いいかな? いいね?』


(少しの間)


『もしもきみを引き取らない可能性の世界があったとしたら、私は一体どんなことを感じながら生きているのか、想像することもできない』

『私はきみという助手を得て初めて、マリィ博士という本当の姿を形作ることができたような気がする』

『クモザキユカリくん。私と一緒にいてくれてありがとう』

『……結構恥ずかしいなこれ』


(深呼吸する音)


『きっと、私は……』

『いや、きっとじゃない。曖昧あいまいなことを言うな。ちゃんとしろマリィ。やり直し』

『…………』

『私は、きみを愛している』

『この言葉がどういう意味か、きみの好きなように解釈してもらって構わない』


(長い沈黙。車の通り過ぎる音。遠くで微かに救急車のサイレンが鳴っている)


『ユカリ、きみが大人になる日が待ち遠しいよ』

『きみはきっと美しい女性になる。一緒にお酒を飲めたら嬉しいんだけど……まあ、そこは体質とかあるからね……それに、その3やその4の未来の可能性もあるか』

『未来っていうのは、起こり得る可能性の一つだ。残酷なものからハッピーなものまで、上げていけばキリがない』

『未来は、決して輝かしいものだけではない。それは今という時間の延長線上にある、当たり前の今日だからだ』

『きみがこれを聞いている未来は、きみにとって幸福な時間になっているかな』

『私は今も、これから先も、ずっときみの幸福を願っている。例えどんな未来がきみのもとに訪れていようとも。どうか、それを忘れないで』

『それじゃあ……』

『そろそろ私も寝よう。きみが作ってくれる朝食、いつも楽しみにしてるんだ』


         ◆


 クモザキ助手は、いつの間にか自分が床に座り込んでいることに気が付いた。

 ふらふらと立ち上がると、音声ファイルをもう一度頭から再生して、それを2回繰り返し、その後になぜ自分は立ち尽くしているのかと思い、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。持ち主が席を外している時に何度かこっそりと座ったことのある、ふんわりとしたクッションが敷かれた、マリィ博士の椅子に。

 そうして初めて、自分が馬鹿みたいに涙を流していることに気が付いた。

 喉が締め付けられるように痛くて、顔中が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていて、不格好な嗚咽おえつがいつまでも止まらないことに気が付いた。

 喪失感が脳を内側から焦がし、二度と戻らぬ時間に手を伸ばそうとする衝動が体の中で暴れ回っていることに気が付いた。


「……マリィ博士」


 自分のものではないような、ひどい声が聞こえた。

 それでも、一度声を出してしまえば、後はもう、止められなかった。


「博士……! マリィ博士……! どうして死んでしまったんですか……どうして! 私を置いて……!」


「ユカリ」


 クモザキ助手は息を呑んだ。

 今、自分を呼ぶ声が聞こえなかっただろうか?

 音声ファイルは停止したままだ。

 振り返るのが怖かった。

 もしも振り返って、そこに声の理由がなに一つとして見当たらなかったとしたら。

 今のは単なる幻聴で、最愛の人を失ったショックで脳が誤作動を起こしたに過ぎないと、証明されてしまうような気がして。


「ユカリ」


 ……まただ! 確かに聞こえた! 幻聴なんかじゃない!

 クモザキ助手はゆっくりと振り返った。

 そこには自分の机があって、その上には、コアが置かれていた。

 自分がこの手で受け取って、病院から持ち帰ってきたコアだ。

 マリィ博士が自分の脳波を送ろうとした日からずっと持ち歩いていた、彼女が最期まで手放さなかった、あのコアだ。

 クモザキ助手は瞬きも忘れてそれを凝視していたが、しかし、それ以上コアが言葉を発することはなかった。

 コアが言葉を発するなんて、そもそもがあり得ない話だ。

 自ら振動して、音声を再生したというのか? ではその振動を伝える機構は誰がどうやって構築した?

 クモザキ助手の脳内では極めて常識的な議論が交わされていたが、彼女自身はそんなことはどうでもいいと思っていた。

 彼女の意識のほとんどを占めていたのは、かつてマリィ博士が言っていた言葉についてだった。


「ニューロンの回路網を……コアに……」


 ひょっとしてマリィ博士は、本気でそれをやろうとしていたのではないか?

 願いによってコアを書き換える方法を見出してから、彼女は頻繁にコアに触れていたように思う。あの時からずっと、それを願っていたのだとしたら。


「博士……そこにいるんですか……?」


 絶望の淵に沈んでいたクモザキ助手の瞳に、再び強い光が宿った。

 椅子から立ち上がってふらふらと部屋を横切り、机の上のコアを手に取る。

 固く冷たいはずのそれは、今は心なしか温かいような気がした。


「そういうことだったんですね……」


 何もかもが失われた訳ではなかった。

 残されたものが確かにあった。

 それはたった一つの希望であり――


「それなら、マリィ博士。私があなたを」


 ――あるいは、呪いでもあったのかもしれない。

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