20XX年6月 東京・品川 【02:32】
時折パラパラと雨粒が窓を叩く音がアクセントのように響く。どうやら少し風があるらしい。
カチャリ、と扉が開く控えめな音を聞いて、マリィ博士は素早くPCの画面をインターネットブラウザに切り替えた。ニュースサイトが映り、画面の隅に果物の広告が流れていく。天気予報によると明日は晴れるらしい。
「どうしたの? 眠れないのかい?」
開いた扉の後ろからおずおずと顔を出したクモザキ助手に、マリィ博士は静かに声をかけた。
いくら大人顔負けの頭脳を持っているとは言え、クモザキ助手はまだ13歳だ。こんな深夜に起きているのは珍しいことだった。
「……博士、まだ起きてるんですか。早く寝たほうがいいですよ。体壊しますよ」
「私の身を案じてくれるのは嬉しいけど、きみにも同じことが言えそうだ。それとも私が起こしちゃったかな? 大きな物音は立てていないはずだけど……」
こんな時まで大人ぶった態度を崩さないようにしているクモザキ助手が可愛らしくて、マリィ博士はついちょっとした意地悪のような受け答えをしてしまう。
「うー……まだ寝ないんですか?」
しかし、小さく可憐な女の子に上目遣いでそんな風に言われれば、さすがのマリィ博士も、これ以上からかう気にはなれなかった。
「いや、もう寝るよ」
博士はモニターの電源だけ落とすと、メガネを外してソファに向かった。
「……一緒に寝るかい?」
さり気なく、目を合わせないように、辺りを片付けるふりをしながら、独り言のように言う。
クモザキ助手は何も答えずに、ちょこんとソファの端に腰掛けた。
ソファの背もたれを倒して二人が並んで寝転がれるようにしながら、人に懐かない野良猫に餌を差し出す時みたいだな、とマリィ博士は思った。
照明が落ちる。
二人の体が薄い毛布の下に潜り込む。
様々な機材の小さなランプがいくつも
さて、とマリィ博士は思った。
ちらりと隣を見れば、クモザキ助手も同じようにこちらを見ていた。
ニコリと笑いかけると、少女は慌てたように反対側を向いてしまう。
「怖い夢でも見た?」
「夢……ではないんですけど。あたし、時々、すごく夜が怖くなって」
「うん」
暗闇のせいか、時間帯のせいか。普段とは違う子供のような声で、クモザキ助手は少しずつ話し始めた。
「死ぬ時のこと、考えちゃうんです。こう、夜の、心が油断した瞬間に。生命活動が停止したら、肉体はエントロピーに従って秩序を失っていくだけで……それはすごく自然なことで、何も怖いことなんてないはずなのに。でも怖いんです。意識が、記憶が崩壊していくのが。脳の活動が停止して、何も見えなくなる。何も聞こえなくなる。何も感じない……思考することもできない。最初からあたしの自我なんてどこにもなかったみたいに消えてしまうのが……すごく怖い。……あたしはまた一人ぼっちになるんです。いずれ、その時は確実に来るんです。未来は確定していて、ゆっくりとそこに向かって歩いている。一人はいや。すごく不安で、頭の奥が痺れて、とても正気じゃいられないような気持ちになる」
いつの間にか、クモザキ助手はマリィ博士の方を向いて、その目をじっと見つめていた。
どうして欲しいのか。何を求めているのか。口に出さずとも、目は雄弁に物語る。
マリィ博士は、そっと彼女を抱き寄せた。
自分の胸に少女の頭を引き寄せて、トントンと赤子をあやすように、指先で優しく背中を叩く。
ほう、と安心したような吐息を胸元に感じた。
「誰だって、死ぬのは怖いよ。でもそれは正常な脳の働きだからね。仕方がない。できるだけ死を遠ざけて、少しでも長く生という不自然な状態を維持しようっていう、言ってみれば悪あがきみたいなものさ」
「博士も、怖い?」
「んー……どうだろうね。大人になるにつれて少しずつ死に対する感覚は麻痺していくようだけど、
「……そうなの?」
「単純な予測さ。死の間際なら脳が最大限に生を渇望している状態なわけで、それこそ今まで感じたことがないほどに死に対する恐怖心を
「うー……また怖くなってきた……」
「おっと、ごめんごめん。まあ実際どうなるかなんて分からないけどね。ある日道を歩いていたら工事現場の鉄骨が落ちてきて、訳も分からないまま死んでしまうことだってあるだろうし……ああ、また怖がらせちゃったかい?」
マリィ博士の背中に小さな手が回されて、ぎゅっとしがみついてくる。
「まいったね……私はどうも、こういうのが下手でいけない」
マリィ博士はクモザキ助手の頭に自分の
昔は子供が苦手だったはずなのに、今は全くそうは思わない。それでも子供に対してどう接するのが正解なのかを知らないまま、こんな生活をするようになってしまったから、こういう時にうまく落ち着かせてあげられないのがもどかしい。そんな思考がとりとめもなく博士の頭の中を流れていく。
「……じゃあ、あたしのこと、名前で呼んで下さい」
「ん……? なんか急な注文が来たな」
マリィ博士はやや怪訝な表情を浮かべて自分の胸元に目をやったが、小さな可愛らしいつむじが見えるだけで、少女が今どんな顔をしているかは分からなかった。
「名前で呼んで下さい」
胸元で、くぐもった声が催促するように繰り返す。
「よくわからんけど……ユカリ? これでいい?」
「……名前を呼びつつ、もっと強く抱きしめて下さい」
「注文が多いなこのお客さんは……ほれ、ユカリ。いい子だからもう眠りなさい」
「もうしばらく続けて下さい」
「わかったわかった。甘えん坊さんめ」
しばらく博士の腕の中でもぞもぞしていた少女は、意を決したように顔を上げて、まっすぐに博士の目を見た。
「……キスして下さい、マリィ」
「おっとぉ……赤ちゃんかと思っていたらとんだおませさんだよこの娘は……」
「マリィ」
「あー……こういう話があるんだけどね、ユカリ。思春期の少女は同性の友人や教師に対して、時に恋愛感情のようなものを抱くことがあるんだそうだ。おそらく親愛と恋慕の境目があやふやになりやすい年頃なんだな。で、まあ、歳を重ねるにつれて徐々にその線引きがしっかりできるようになっていって……」
「あたし今、そんな話は聞きたくないの」
「んんー……仕方ないなあ」
マリィ博士はそっとクモザキ助手の頬に触れてから、前髪をかき上げて
ほんの少し湿度の高い空気と熱、そして甘い匂いがふわりと漂った。
「ご注文は以上でよろしいですね? お客様」
「むー」
しばらく不満そうに唸っていたクモザキ助手は、それでもさすがに睡魔に抗えなくなってきたのか、やがて静かに寝息を立て始めた。
マリィ博士は彼女を起こさないようにそっとソファから抜け出した。
もう雨の音は聞こえない。
机の上から小さな何かを手に取り、リビングへと抜けてベランダに出てみれば、夜空には微かに星が輝いている。
ふうっと小さく息を吐いた。年甲斐もなくあの娘の情感に
――まあ、それでも構わない。この気持ちもまた人間の中に存在する真実の一つなのだから。
さて、と誰に聞かせるでもなく、マリィ博士は声に出して呟いた。
「今夜は月が綺麗だな」
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