20XX年2月 東京・品川 【兆し】
JR五反田駅の西口を出て目黒川を渡り、細い横道をしばらく進んだところにある小さな貸しビルの一区画が、彼女たちの住居兼研究室だった。
雑多に並ぶ研究機材やPCの群れ。その中に埋もれるようにしてマリィ博士のベッド兼ソファが一つ。彼女の本来の寝室はクモザキ助手が使っている。
クモザキユカリは今年13歳になるが、学校には通っていない。学力という意味において彼女のそれは既に大学生のレベルを超えており、本人もまた研究に時間を費やすことを強く希望しているためだ。
良識のある大人ならば、それでも義務教育の間くらいは無理矢理にでも学校へ通わせようとしただろう。なにしろ学校で学べるのはテキストに書かれた知識だけではない。同い年の大勢の友人と共に過ごせる時間というものは、人生において驚くほど貴重なものだということが、歳を重ねるほどに実感として分かってくるからだ。
しかし幼い天才少女を引き取ったマリィ博士は、そうは考えなかった。
博士にとって最も耐え難いことは己の意思に反する行為を強要されることで、それが例え長い目で見れば親切な行いだったとしても、その瞬間に感じた苦痛が消えてなくなるわけではない。
能力に見合った仕事があり、それをやりたいと感じている者がいるならば、それは今やらせるべきであって、「それより今しかできないことが転がっているよ」などと親切心で目の前のおもちゃを取り上げるような行為は、彼女にとっては純然たる悪でしかないのだった。
そんな風に、自分を普通の子供としてではなく、特別な能力を持って生まれたクモザキユカリという一人の人間として扱ってくれるマリィ博士のことを、彼女は密かに敬愛していた。
その日は明け方に雪がちらつくかもしれないという前日の天気予報を裏切って、昼前にはすっかりきれいな晴れ間が広がっていた。
研究室の高い位置にある窓から降り注ぐ日差しとエアコンの暖気が相まって、部屋の中にはゆったりと心地よい空気が漂っている。
黙々とPCに向かっていたクモザキ助手は、作業が一区切りついたところで、ふと部屋の反対側にいるマリィ博士の方に顔を向けた。
「博士、何遊んでるんですか」
見ればマリィ博士は、無数のコードに繋がれた黒い大きなカゴのようなものを頭に被り、椅子の背もたれに体を預けたまま微動だにせずにいる。
さては寝ているなと当たりをつけたクモザキ助手は椅子から立ち上がり、そっとマリィ博士の背後に立つと、ポンポンと肩を叩いた。
「わっ」
びくり、と肩を揺らしてから、マリィ博士はゆっくりとした動きで頭の装置を外すと、恨みがましいような目つきでクモザキ助手を見た。
「びっくりするじゃないか」
「寝てたでしょ、博士」
「寝てないよ」
「あたしが声かけたの聞こえてました?」
「聞こえてたよ」
「じゃあ返事くらいしてくださいよ……で、それは何なんですか?」
大きな黒い帽子みたいな装置をクモザキ助手がビッと指差すと、マリィ博士は少しバツが悪そうな顔でへらりと笑った。
「これは……脳波とかそういう感じのを電気信号に変換して……出力するやつだよ」
「うんうん、そうでしょうね。
「いやーなんちゅうか……新しいアプローチをね」
「それ、繋がってる先、コアですよね。どういうことです?」
装置から伸びるコードは全て、机の上の小さなケースに接続されている。クモザキ助手が指摘した通り、ケースの中にはコアが一つ格納されていた。
「君も知っての通り、コアは外部からの刺激によって一部の分子構造を変化させる性質があるだろう? それを利用してプログラミングみたいなことができないかと考えたのが……」
「インドの何とかって教授でしたよね。発想自体は面白いと思いましたけど……まさかとは思いますが、博士、自分の脳波でコアを書き換えるつもりですか?」
「……面白そうじゃろ?」
「あのですね……それ、完全に博士の研究とは無関係ですよね? 回り回ってエネルギーを取り出す装置に変換できる算段でもついたんですか? それなら脳波なんて
「あー待った待った! 正論は結構だ。行き詰まった時のちょっとした息抜きくらいさあ、いいじゃんかよー」
ぶー、と口を尖らせるマリィ博士を、クモザキ助手は呆れたような顔で見つめた。
「それなら最初から正直にそう言って下さい。……別にあたしだって、怒ってるわけじゃないんですよ? 息抜きは大切だと思いますし……でも、何か新しいことを始めるなら、まず助手であるあたしに一言くらいあってもいいじゃないですか……」
「おや? なんだ、
「やーめーて。頭を撫でないで下さい」
クモザキ助手は子猫のように博士の手から逃れると、乱れた髪を手ぐしで整える。ぶつぶつと文句を言っているが、それほど怒っているようには見えない。
そんな彼女の様子を見たマリィ博士は口元に笑みを浮かべつつも、どこか遠いところを見るような目をした。
「人間のニューロンの回路網をコアで再現できたらさ、面白いと思わないか?」
冗談めかして発せられたはずの言葉は、どこか異質な感覚を伴って、室内の空気を震わせた。
「なんつって」
「……もー、フィクションの読みすぎですよ博士。それに、そういうことをしたいなら普通にコンピュータを使えばいいじゃないですか。コアでやる必要がありません」
「それを言っちゃったら、世界中でコアを研究してる人たちの八割は研究の意味がなくなっちゃうよ。CPUとして使うにしても、メモリとして使うにしても、今あるもので十分だからねえ」
「まあ、その性能を更に高められたらいいなってことでしょうけど。……でも今更ですけど、CPUとメモリの機能を同時に持つ物質っていうのも意味が分からないですね。しかもどこから来てるのか不明な電力が常に供給されてるとか」
「まさにオーパーツだあね」
一瞬だけ流れた不穏な空気が跡形もなく払拭されたことにそっと胸を撫で下ろしたクモザキ助手は、以前から話してみたかった話題を博士に振ってみることにした。
「……博士はコアのことをどう思いますか?」
「どうとは?」
「本当にただのオーパーツだと思いますか? 今よりずっと発展していた超古代文明的なものが実際にあったと……」
「どうだろうねー。まずこいつの出現の仕方が科学じゃ説明できないんだ。今やこの世界は再び混沌の中に迷い込んでしまっていて……霊魂や奇跡や超能力、そういった失われていた神秘の
「未来ですか……」
もじもじと指先を動かしている助手を見て、何か話したいことがあるのだろうと察した博士は、優しく声をかけた。
「君はどう思うんだい?」
「あたしは、その……変に思われるかもしれませんけど、このコアは我々に何かを期待しているような気がするんです。これをうまく使って見せろ、みたいな……そういう意思みたいなものを、初めてコアを見た時からずっと感じていて」
コアの意思、なんてものはいかにもオカルトくさい。そういったフィクションを好んで視聴するわけでもないクモザキ助手が、なぜこのような奇妙な感覚を覚えてしまうのか。それは彼女にとって靴の中に入り込んだ小石のように気になることだった。
「意思か。コアの、あるいはコアを作った何者かの意思ね。いいじゃない」
「……笑われるかと思いました」
「笑うものか。もしかしたらこいつは我々に魔法を教えてくれるツールなのかもしれないんだぜ?」
「それ、いいですね。魔法。火に水に電気……生活費が浮きそうですね」
「まったく、夢があるんだかないんだか」
博士の優しい
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