ライムンド・シルヴァ・ククルーシア 3
それなりに整備されている道でも、馬車が悪ければひどく揺れる。
適当に放り込まれた姿勢ではうまく受け身も取れないから、ニヤニヤしている乗客は無視して舌打ちをしながら姿勢を正す。なんだこのクッション、ペラッペラじゃないか。
座り心地の悪さに苛立ちを募らせながら、向かいに座らされているラミラ嬢がおろおろとこちらと乗客とを見比べているのを一瞥する。何を考えてノコノコと馬車に乗り込んだのかは知らないが、行動には責任が伴うということをしっかり叩き込むように父を通して家庭教師に伝えようと決意する。
「なんだぁ?不満そうなツラして。王子サマの婚約者の恋人くんは、浮気現場を押さえられてご不満ですかぁ?」
「………………」
よし、殺そう。
不意に目があった男がケタケタ笑いながら告げた言葉に、思わず懐に伸びそうになった手を握りしめた。
この男は一体何を言っているんだ。百歩譲ってたまたますぐ近くにいたからついでに巻き込まれただけというのならまだ良い。それが何だ、恋人?王子の婚約者の恋人?つまり私がこの顔だけのほほん女の恋人だと言いたいのか貴様!
何という侮辱。ここまで愚弄されたのは生まれて初めてだ。
視界の端でラミラ嬢が顔を真っ青にしているのが見えたが、アリシアもレグロもいないこの場所で彼女がどんな顔をしようがどうでも良い。とにかく今はこれ以上余計なことをしないでいてくれたらそれで良い。
(大丈夫だ、相手は格闘訓練を受けたわけでもない一般人、殺さない程度の手加減くらいできる)
こちらを見くびっているのか、一向に拘束する気配が見えないのが腹立たしくもあるが僥倖だ。大丈夫、武器を使わなければ手加減できなくもない。たしかに狭い馬車の中で相手を叩きのめすのは難しいが、まぁうっかりラミラ嬢に怪我をさせてもそれは私ではなくこの男がしたことだと言えば良い。問題ない。
そう判断して改めて男を睨みつけ―――その腕に刻まれた刺青に気がついた。
ぐるりと腕を一周する荊は、下町のゴロツキといった風情の男の腕に刻まれているにしてはやけに上質でそして、上品だ。
(荊は一周。下っ端か。……とはいえ、こいつが教育済みだというのなら話は早い)
荊の刺青の意味はアリシアと婚約を結んだ時に教わった。おそらく私が関わることはないだろうとの前置きで説明されたそれは、言ってしまえば身分証のようなものだ。アリシアの父であるカレアーノ侯爵が管理している裏通りの住人に、文字通り刻み込まれた首輪とも言える。
彼らにも立場の上下というものがあるらしく、上になるほど刺青が豪華になっていくという。カレアーノ侯爵から直接指示を受けたり、報告に出向いたりするのは最上位の者で、その者の腕には鮮やかな薔薇が描かれているそうだ。見たことはないし見る予定もないから詳しくは知らない。
ともあれ、目の前の男の腕にはぐるりと一周、荊の刺青が入れられているから、最悪の場合でもカレアーノ侯爵に救助されるのは確実だ。しかしあくまでそれは最悪の場合。
(婚約者でもない女と共に攫われた上、救助を待つしかできなかったとなれば、カレアーノ侯爵から切り捨てられてしまう)
何もできない木偶の坊は娘の婚約者にふさわしくない、と笑顔で別れを告げられてしまう。
それだけは耐えられない。
だから、虎の威を借るようで情けなくもあるが、贅沢など言っていられない。可能な限り早く、そして穏便にことを終わらせるのだ。
決断してしまえばあとは実行あるのみ。油断しきったように笑っている男の顔を鷲掴んで壁に叩きつけつつ、その足りない頭に刻み込まれているであろう紋章を見せつけるために首にかけていたペンダントを取り出す。馬車の振動に合わせて揺れる紋章が男の目に映ると同時に、ひゅっと息を呑む音が聞こえてきた。
まったく。アリシアの婚約者としての証を初めて見せる相手がこんな男だなんて、腹立たしくて仕方がない。
しっかりと認識したのを確認してから男を突き飛ばして座席に座りなおし、息すら止まっていそうなその意識を呼び戻すために勢いよくその顔の隣に足を振り下ろす。揺れているせいでうっかりその顔を踏みつけたとしても、それは不幸な事故だ。
「ひ……ッ」
「ああ、なんということだ。うっかり耳を潰し損ねてしまった」
「あ、あああああんた、お嬢の……っ!?」
「安心すると良い、私はこれでも心が広い方なんだ。先ほどの妄言は聞き流してやろう。……だが二度はない。何も欠けることなく明日を迎えたいのなら、余計な口を聞かないように気をつけるんだな」
今すぐ馬車から顔だけ外に出して顔面擦り下ろしてやりたいところを我慢してやっているんだ感謝しろ。
ガクガクガクガクと馬車の振動にも負けずに元気よく頭を上下させる姿に満足して、耳の端を踏みつけていた足を浮かせる。慌てて御者台の方に身を乗り出して何やら合図を送っているのを見張っていれば、顔を青くしたままのラミラ嬢が両手で口を押さえて目を見開いているのに気がついた。
目が合えばびくりと体を震わせて縮こまる。何をそんなに怯えているのか知らないが、静かにしてくれているのならば問題はない、とひとまず放置して窓から外の様子を伺う。
道には従僕がつけた色玉から滴る色水が道標を残しているし、何よりこの界隈はカレアーノ家の教育が行き届いている面々の縄張りだ。大人しくしていれば、こいつらの方から丁寧に家に帰してもらえるはずだ。
が、厄介なことになる気が、しなくもない。
(さっきこの男は「王子様の婚約者の恋人」と言っていた。そういう認識……あるいはそういう認識にさせるためにこんなことをしたのならば、ただ普通に家に帰るだけでは不十分だ)
くだらないことだが、巻き込まれてしまったからには最善を尽くさなければならない。
自身の婚約者と友人にあらぬ噂が立つなど、私の可愛い婚約者が望むことではないのだから。
***
連れ去られた時とは正反対におどおどと縮こまっている男に促されるまま馬車を降りれば、前回と今回の二度、婚約が成立したからとカレアーノ侯爵に連れられて来たことがある場所だった。古びて角が崩れている煉瓦造りの壁、全体的に薄汚れて埃っぽい空気。いかにも裏通りという風情の道を男たちの案内に従って奥へと進めば、周囲よりもひと回り大きな建物の前に数人の男たちが待ち構えていた。遠目に確認すれば全員の腕に荊の刺青があることが見て取れる。
こいつらは小遣い稼ぎの仕事を見る目もないのかと心の中で愚痴をこぼしながら、訝しげにしながらも警戒を忘れずに身構えている男たちが口を開くのに合わせて、先ほど馬車の中でも見せたペンダントを掲げてみせた。
「おいディー、お前なんで拘束してねぇんだよ。女はともかく、男の方は適当に縛っとけっつったろ」
「ほう、私を拘束すると。なかなか笑えない冗談だな」
「ああ?ガキが何言って………っ!?そ、は、はああ!?なんっでお前がお嬢の印持って……っ」
「ちょ、ルー、やばいって!こい、この人、お嬢の婚約者だ!」
「な……っ何でそんなの拾ってきてんだよおおおおおおおおおお!?」
俄かに騒がしくなった通りを覗き込むように、裏通りの住人らしき面々がそこかしこから顔を覗かせている気配を感じる。見られると困るか、目撃者は多い方が良いか、どちらだろうと考えていれば、後ろから袖を軽く引かれた。
振り向けば、少しばかり顔色が戻ったラミラ嬢が落ち着かなさそうに視線を彷徨わせている。
「ね、ねぇ、ここはどこなの?あの人たち、あなたの知り合い?」
「知り合いではありませんが、彼らは私のことを知っているべき存在ですね。……まぁそれは良い。そんなことより、彼らのことを知らないくせに、なぜノコノコとついてきたのですか。見知らぬ相手について行ってはいけないというのは幼い子供でも身につけている常識だと認識しておりますが、ラミラ嬢はその程度の常識も持ち合わせていらっしゃらないと」
「ち、ちが……っくないけど、違うわよ!ほら、御者の彼に渡された手紙!これを見なさい!」
ぐいぐいと押し付けられたそれは、ここに来るまでの間に握りしめられていたのだろう、上質な紙がもったいないほどに握りつぶされているが、文字を読むのに支障はない。
責任の押し付け合いから殴り合いに発展しそうな男たちを一応意識の端に引っ掛けておいて、渡された手紙を開く。内容は王子の婚約者であるラミラ嬢を茶会に招待したいと、ただそれだけのよくある手紙だ。娘たちを紹介したいと書かれているのも、将来の王太子妃、王妃の友人という立場を得るための常套手段だから、取り立てておかしなものではない。
しかし渡された手段が明らかにおかしい。それに、あの時ラミラ嬢は手紙の内容を見る前に馬車に乗り込んでいた。ということは、内容が重要なのではなく。
「オルテガ伯爵家、か」
紋章だけでは思い出せなかったその家名を呟く。
走り書きのような雑な署名を睨むように見つめながら、なるほどと声には出さずにひとりごちた。
(かつて世話になった家からの手紙だったから、特に警戒もせずに招きに応じようとしたと。…………この女がここまで愚かだったとは)
はああああ、と堪えきれなかったため息が溢れ出た。
「だ、だって、街中までわたくしを探して手紙を渡すなんて、よほど急いでいるのだと思ったのよ。ご当主が倒れたとか、令嬢たちが暴れているとか」
「なるほど、つまりラミラ嬢は、まだ一度も会ったことがない相手からの理由もわからない呼び出しの方が、この国の王太子との約束よりも重要であると、そうおっしゃりたいわけですか。ほー……なるほど?」
「うっ」
頭痛がする。
前回世話になった家からの手紙だから警戒しなかったというのは百歩………一万歩くらい譲って良いとしても、手紙を受け取ってすぐに馬車に乗り込むなど、言い訳もできないほどの愚行だ。なんせ、王子、侯爵令嬢、侯爵子息との外出中だ。常識的に考えて、社交界でも王宮でも大した力を持っていない伯爵をこの三人よりも優先するなんて、有り得ないだろう。
そもそも前回あの家の面々から非常識を常識と教えられておきながら、どうして今回も関わりを持とうとするのかが解せない。当主夫妻も娘たちも揃って贅沢にしか興味がないような小物と関わる利点とは一体何だ。全くわからん。
肩を丸めて目線を落としたラミラ嬢にもう一つため息をこぼしたところで、殴り合いもひと段落ついた男たちが恐る恐る声をかけてきた。
「あ〜っと、えー、坊ちゃん?すんませんが、ちょっと俺たちについて来てくれませんかね。ここじゃそのぉ……人目につきますんで」
「今ここにある馬車で元の場所に返してくれたらそれで済む話だと思うが」
「ぅいや!それはちょっとまずいってかできないってゆーか!あーほら、この馬車ボロいんでさっき急いで走らせたら車輪が限界になっちまったんすよ!だから、こっから歩きになっちまうけど、別の馬車が置いてあるとこに案内するんで!」
「その馬車をここに持って来てくれたら良いのではないか」
「あああああいやあの、そう!そっちのお嬢さんに見せたいモンがあって!それはちょっとその場から動かせないから来てもらうしかねぇんす!」
「そうか、まぁそれは私には関係のない話だからな。どうでもいい」
「うわああああああああああああ!ちょ、お、王子サマの婚約者のお嬢サン!お願いっすからついて来てくだせぇ!」
「へっ?わ、わたくし?」
唐突に話を振られて目を見開いたラミラ嬢が、戸惑いをあらわにその場にいる全員に視線を向ける。実際には、助けを求めるようにこちらを見たと思ったら、顔を引きつらせて視線を彷徨わせ始めたというのが正しい。なぜだ、余計なことを言うなと視線の圧を強くしただけだというのに。
見た目通り押しに弱いと見て取ったのか、平伏せんばかりだった目の前の男がラミラ嬢へと向き直り、じわじわにじり寄りながら言葉を重ね始めた。
「ほんっと、すぐ済みますんで!さっき渡した手紙の差出人から、お嬢サンにって預かったものがあるんすよ、それを渡すだけ!や、受け取ってもらわなくても、見るだけでも良いっす。だからほんと、ちょっとだけ俺たちについて来てください!」
「え、ええ……?」
あっ、こら。
戸惑いの声だとはわかるけれど、今その反応は良くないというのに。
「ありがとうございます!ささ、こっちっす」
「えっ?あ、ちょっとっ」
予想通り、押し負けた上にあっさりと接近を許したかと思えば、そのまま腕を掴まれてされるがままに男について歩き出す。あの女には学習能力というものがないのだろうか。
外出着とはいえ裏通りの住人よりは動き難い服装のラミラ嬢に配慮してか、早すぎない小走りでどこかへ向かう男たちに舌打ちを一つ。何人かが先行している様子を見るに、もう少し上の立場の者に相談しに行くのかもしれない。
(ということは、これから向かうのはそいつがいる場所か)
どうせラミラ嬢に見せたいものがあるだとか言っていたのは嘘だろうし、そこまで行けば帰る手段も手に入るだろう。ついでに、後始末についても手配したいところだ。
現状、カレアーノ家の人間ではない私の命令がどこまで通るかはわからないが。
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