ユーアの楽しいお嬢様教室
第1話
軽やかなベルの音が聞こえ、狭い箱の中でそっと耳をそばだてた。
早朝の静かな住宅地に小さく響いたその音に続いて、ドアの向こうから人が動く気配を感じたから、目的の人物はもう起きているはずだ。もしかしたら起きたばかりという可能性もなくはないけれど。
そんなことを考えながら待つことしばし。出て来るのが遅いなとわたしは少し気になったものの、さすがはカレアーノ家の使用人と言うべきか、お嬢様からの贈り物を極力揺らさずにここまでやって来た彼はベルを鳴らした後も微動だにせず無言で家主が出て来るのを待っている。
ほどなくしてドアが開く音がして、同時に箱がほんのわずかに揺れた。
「このような時間の訪問、失礼いたします。アリシアお嬢様より、ラミラ・アグレダ・ビリェガス様へお手紙と贈り物をお届けに参りました。どうぞご確認ください」
「は、はあ……」
落ち着いた青年の声とともに差し出された箱が、男性の大きな手から少女の小さな手へと移動する。受け取った瞬間にぐらりと大きく揺れたのは、箱の大きさから推測していた重さと違ったからだろうか。
側面に頭を打ち付けたことに顔をしかめながらも、事情を知らない彼女は悪くないからと自分に言い聞かせて文句は言わずに無言で少女―――ラミラ嬢の返事を待つ。「はあ」はただのため息か相槌であって、返事ではない。
…………。
沈黙が続いた。
ちょ……嘘でしょ。手紙を受け取った時の返事すら知らないの!?
愕然とすると同時に冷や汗が浮かんだ気がした。ぬいぐるみに汗腺なんてないから気分だけだけど。
とりあえずこの場を凌がせなければならない。ラミラ嬢の機転に期待するのは良くないことだとこの数十秒で感じた。
(すぐにお手紙の返事を書き上げるのであれば、お茶でも出してあげてください。返事を書くのに時間がかかるなら、お礼を言ってさようならで良いです。お手紙の内容を確認してから返事をしますとお伝えしてください)
「!?」
息を飲む気配がしたと同時に箱がここまでで一番揺れた。少し目が回った。
いや、良いですよ。良いんですよ、驚くくらい。でも殿下の婚約者になるというのなら、多少の腹芸くらいできて欲しいと思ってしまうわたしは強欲なのでしょうか。
ていうか、助言はしたんだからすぐに行動に移せば良いのに。いつまで沈黙しているつもりなんだ。カレアーノ家の使用人に悪評が立ったらどうしてくれる!
(ほら、ぼーっとしないでください!もう、お返事は後で良いですよね。そちらの方に「配達をありがとうございました。お手紙といただいたものについては確認してからまた改めてお返事いたします。まずはお礼をお伝えいただけますか」と言ってあげてください。はい、リピートアフターミー!)
気分としては箱を内側から叩いてやりたいくらいだが、そんなことをして使用人に怪しまれるわけにはいかない。
もどかしい気持ちでやや早口に言い募れば、「え、えっと、は、配達を、ありがとうございました…っ?」と噛み噛みな上にどうしてそこに疑問符を入れるんだと言いたくなるような自信なさそうな口調で言葉が発せられた。もう目も当てられない。
ラミラ嬢……あなたお嬢様にかなり強気に出ていたじゃないですか……もっとしっかりしてください。
突然のことで戸惑っているのはわかる。わかるけれど、これはいただけない。
頭を抱えるわたしの耳に、使用人が辞去の挨拶の後に立ち去る音が届く。足音も控えめかつ一律……素晴らしい。さすがはお嬢様の未来の執事。ああ、お嬢様のお役に立つためにと二人で罵り合いながら学んだ日々が懐かしい。この頃は大抵のことは涼しい顔してこなせるのに、どうにも音楽関係だけは苦手な彼の猛特訓に付き合わされたものだけれど―――と、わたしがそんなどうでもいいことを考えている間も、なぜか玄関先から動かないラミラ嬢。
わたしは別に構わないけど、早朝はまだ冷える季節だ。いつまでも外に立たせて風邪など引かせるわけにはいかない。
(ラミラ様、ひとまず中に入っていただけますか)
声をかければ、一瞬びくりと箱が揺れてから移動を始めた。ラミラ嬢がどのような家に住んでいるのかは知らないが、玄関からどこかの部屋に入るまでがすぐだったから、そこまで大きな家ではないのだろうと思う。
よく考えなくても、ラミラ嬢ご本人が玄関に出てきたし、自分でも庶民と同じと言っていたから、ごく普通の家に住んでいるのだろう。時の魔女の家族構成がどうなっているのかは知らないけれど、使用人を雇わずに済む大きさの家ならそんなに大きくないことだけはわかる。
……殿下の婚約者に決まったというのに、まだ引っ越していないというのが不思議な気もする。王族の婚姻について詳しくはないけれど、少なくともお嬢様は殿下の婚約者と決められたら攫われるように王宮に連れて行かれたから、てっきり王族の婚約者は王宮で生活するものだと思っていた。
あ、でもそういえばライムンド様が以前、養親がどうこうとかおっしゃっていたっけ。お嬢様はすぐに殿下の婚約者となってもさほど問題ない身分だけど、ラミラ嬢はそうじゃないから、養親の元で生活して教育を受けたり何かする必要があるのかもしれない。よくわからないけど。
箱の中で一人首を傾げていると、不意に視界が明るくなった。はっとして顔をあげれば、苦虫を噛み潰したような表情で見下ろしてくるラミラ嬢と目があう。
「うわあ……」
令嬢が出してはならない声が漏れていますよぉ。
正直な反応に内心苦笑しつつ、よいしょと箱の中から這い出る。お嬢様からお預かりしているお手紙が皺にならないように気をつけないといけないから少しもたついてしまったけれど、転がることなく無事に外に出て周囲を確認した。
人のお宅をジロジロ見るのは失礼だが、どういう生活をしているのかを大雑把にでもいいから知ることを優先するから、罪悪感とかは遠くに放り投げておく。
使用人の気配はないけれど綺麗に整った室内。大きな家具やカーテンなどは質素だけれど落ち着いた上品なデザインで、ほどほどに裕福な一般家庭という感じ。建国祭で悪趣味なドレスを着ていたから、ドレスを仕立てる程度の余裕はあるんだろうと思っていたから、そこまで予想外ではない。
予想外だったのは、クッションやクロス、それから小物などのここ数年に購入したと思われる物だ。
なにあれ……。
極彩色のクッション。上に置いたものを腐敗させそうな禍々しい模様のテーブルクロス。呪術の触媒にでも使うのですかと聞きたくなるような気持ち悪い人形。
童話に出てくる悪い魔女の持ち物と思えば違和感はないけれど、お嬢様と同年代の幼い少女の持ち物と言われると持ち主の正気を疑う。なにあれ。
つい無言で室内を確認してしまったわたしの脳裏に、ライムンド様の言葉がよぎった。そういえば、殿下に趣味の悪い服を贈ったとかなんとか聞いたような。
あの時は深く考えなかったけれど、なるほど。ラミラ嬢は少々常人とは異なるセンスをお持ちのようだ。
こういう、持ち物の好みを変えさせるのは難しいんですよねぇ……。まぁ、好きなものは好きなままでいていただいて構いませんが、一般的に好まれるものを覚えていただく必要があるのかぁ……可能であれば殿下の好みを叩き込みたいところなのですがねぇ……。
考えていた教育プランに追加と変更を行いつつ、なんとも言えない表情でこちらを見下ろしていたラミラ嬢に向き直る。さて、後回しにしてしまったけれど、お嬢様のお手紙を渡さなければ。
(改めまして、昨日ぶりでございます。アリシアお嬢様よりお手紙をお預かりして参りましたので、ご確認とお返事をよろしくお願いいたします)
ぬいぐるみの体でできる限りの丁寧さを持って手紙を差し出す。心の中では少々扱いをぞんざいにしてしまっているとは言え、ラミラ嬢は殿下の婚約者。一介の侍女(今はぬいぐるみ)であるわたしよりずっと高い地位をお持ちだし、何よりわたしが手にしているのはお嬢様からお預かりしたお手紙だ。丁寧に扱わないなんて万死に値する。
「……あ、ありがとう…」
受け取った手紙を早速開いたラミラ嬢は、読み始めた当初こそ緊張したように顔が強張っていたものの、次第に落ち着いた表情に変わっていった。
お嬢様がお手紙になんとお書きになったのかは聞いている。ラミラ嬢からの手紙に対して好意的な言葉を返したものだ。面会の要望についても快く了承し、日時の候補をいくつか上げていたはず。ちなみに日時については最短でも一週間後となっているのだが、これはわたしのお願いを聞いていただいた結果だ。
「え……」
思わず漏れたというような呻き声に意識を戻してラミラ嬢を見上げる。ちょうどラミラ嬢もこちらを見たところらしく、バッチリと目があった。すごく嫌そうなその表情に、どうやら追伸まで読んだらしいと察する。
そう、どうしてわたしがお嬢様の元を離れて今ここにいるのか。それはわたし自身がお嬢様にお願いしたからに他ならない。
『追伸
ユーアがどうしても事前にお話ししたいことがあると言うので手紙を預けました。ご迷惑をおかけしないようにとは言い含めてありますが、何かありましたらお会いした時に教えてください。
それでは、お会いできる日を楽しみにしております。』
お嬢様にご迷惑をおかけするなんてそんなことあり得ませんよ!と全力で主張したい。
わたしはただ、この令嬢としての基礎がまるでなっていないラミラ嬢に、殿下の婚約者……はちょっとわたしには荷が重いので、せめて一般的な貴族令嬢としての振る舞いや知識を叩き込もうと思っているだけだ。
もちろんお嬢様と交流することで大抵の人は我が身を振り返って改めていくものなのだけれど、ラミラ嬢には前科があるからあまり信用ができない。もちろん、かつてのラミラ嬢の振る舞いは養親の家庭に問題があったと承知の上である。だけどそのおかしな知識も所持した状態だから、お嬢様という最高のお手本を見てもきちんと改められないのではないかという疑念が拭えないのだ。
そう、だから、わたしが来た。
ラミラ嬢にせめて最低限の常識を叩き込み、お嬢様に見苦しいものをお見せしないために。
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