第9話

 子供らしいまだ小さい両手で顔を覆って俯くライムンド様は無言である。


 ひとまずライムンド様が亡くなってからお嬢様がどうなったのかをお伝えしてみたところ、お嬢様のライムンド様への愛が伝わるたびに顔を赤く染め、殿下の執着愛が露わになるたびに顔を青くし……と、大層忙しく顔色が変わっていた。


 正直わたしとしては殿下のお嬢様への執着心が怖すぎる。おそらくお嬢様と殿下が親しく交流したのは先日お屋敷に殿下がやってきたときだけで、それ以外はあったとしても手紙での交流くらいであったはずなのに、どうして婚約者を殺してまで手に入れたいと思うのか。そこまでの執着心には縁がないせいで全く理解ができなくて怖い。そしてたった一回の交流でそこまでの執着心を抱かせてしまうお嬢様の魅力も怖い。


 つまり失礼ではあるが二人とも怖い、と結論づけたところで最たる被害者に向き直る。顔を覆った手の隙間から「はああぁあぁああ」と盛大なため息が溢れているから、少なくとも呼吸ができる程度には復活したようだ。


(閣下、大丈夫でしょうか)

「ああ……ああ、大丈夫だ。すこし、衝撃的だっただけで…」


 少し…?いや、かなり…?とぶつぶつ呟きながらもどうにか顔を上げたライムンド様の顔色は元に戻っている。大丈夫という言葉は強がりもあるだろうが事実でもあったらしい。


「そうか、殿下はそこまでアリシアのことを……そうかぁ…」

(はい。……そこで、その情報も踏まえてお聞きいたします。閣下は今後、どのようになさいますか)


 殿下に命を狙われるという未来を回避したいのならば、お嬢様との婚約を取り消してしまうのが手っ取り早い。

 今ならお嬢様もライムンド様のことを「婚約者になった人」程度にしか認識していないはずなので、お嬢様はほとんど傷つかないと思う。それに幸いなことにまだお二人の婚約は公にされていないから、婚約解消も不名誉な噂にはならないのではないだろうか。


 と、そんなようなことを提案してみたが、ライムンド様の反応は芳しくない。複雑そうに眉間にしわを寄せたまま目を逸らしている。


(閣下?)


 失礼ながら催促するように声をかけると、ちらりと視線をこちらに戻し、すぐにまた逸らしてしまう。どことなく気まずような雰囲気も感じられるような。

 これはもしや。


(閣下……もしや、お嬢様との婚約の取り消しを、されたくないと?)

「……私がアリシアと婚約解消したら、アリシアは別の男と婚約するだろう。そしたら今度はその男が殿下に狙われるだけだ」


 ものすごく言い訳っぽく目を逸らしたまま言われた。


(もしかしたら殿下から婚約の打診をいただけるかもしれません。そうなれば問題はないと思われますが)

「いや、今の時点で殿下とアリシアの婚約はありえない」

(……?)


 はっきりと断言するあたり確信があるのでしょうが、わたしには殿下とお嬢様の婚約にどのような問題があるのかは皆目見当がつかない。貴族間の力関係とかそういったことだろうか。


 首をかしげる私から目を逸らしたまま、「詳しくは説明できないのだが」と言葉を濁したライムンド様はそれ以上の補足をすることなく終わらせてしまった。気にはなるが、貴族間での事情があるのならわたしが口を挟むようなことではない。


 でもそうか、どうして殿下はもっと早くからお嬢様と婚約しようとしなかったのか疑問だったけれど、何かしら事情があってできなかったのか。


(殿下の事情はわたしにはわかりません。……ですが、今の時点ではありえないというだけで、しばらく経てば婚約可能になるということでしょうか。であれば、それまでお嬢様の婚約者が決まらないようにどうにか働きかければ―――)

「っいや、アリシアの婚約者という立場は多くの家が望むものだ。殿下は手を挙げられないが、それ以外の家であれば誰でも……アリシアは、選べる」

(はあ、それは……さすがお嬢様です)


 今の時点で既に妖精も霞む愛らしさを持つお嬢様だ。よく考えなくてもライムンド様以外にも婚約者として立候補してくる人が多いのは当然だった。


 でもそれだとどう頑張っても殿下以外の人物がお嬢様の婚約者として、命を狙われる運命になるのは避けられないということになってしまう。お優しいお嬢様はたとえどんな相手であろうと婚約者が亡くなれば嘆くはずだ。それは良くない。

 うーむ、と腕を組んで悩むわたしに、ライムンド様は「だから、」と続けた。


「私が、婚約者のままでいる」

(……よろしいのですか?殿下に命を狙われますが)

「いい」


 キッパリと言い切るライムンド様。

 いえ別に、言い切るのは構わないのですが、それだと殺されてしまうことに変わりはないですし……わたし個人では関わりがなかったとはいえ、お嬢様があそこまで愛した方ですから、そう易々と命を安売りしないでいただきたい。


 そう思って、どうにか説得しようとライムンド様を見て、気づいた。


 わずかに赤く染まった頬、気まずそうに逸らされる目、落ち着きなく何度も組み替えられる指。


 ふうん?


(たとえ命を狙われるとしても、お嬢様の婚約者という立場を誰にも譲りたくないと、そういう理解でよろしいですか)

「っ!?」


(なぁるほどなるほどぉ?そうですねぇ、そうでした。お嬢様も閣下のことをこれ以上ないほどに愛しておいででしたが、閣下もそれに勝るとも劣らないほどにお嬢様のことを愛していらっしゃいましたねぇ。そうですかぁ、記憶があるとはいえお嬢様と会話をしたのは今日が初めてだったというのに、すでに婚約者の立場を手放したくないほどですかぁ)


 カーッと一気に赤みを増した顔を気分だけはニヤニヤしながら見つめる。


 わたしは決してライムンド様のことが嫌いではない。お嬢様のことを愛して大切にしてくださっていた方なのだから、嫌うわけがない。

 だから記憶の中では婚約当初あまりお嬢様に関心を示していなかったライムンド様が、記憶に引き摺られてなのか現時点で既にお嬢様にメロメロであったとしても、全く不愉快ではない。


 ただ少し、畏れ多いことではあるが―――面白いだけで。


(そうですよねぇ、お嬢様と相思相愛だった記憶があるわけですから、お嬢様が他の男性の手を取るなんて耐えられませんよねぇ。ええ、ええ、良いと思います)

「……っべ、別に、記憶に引き摺られているわけでは、」


 つい調子に乗ってからかうように言葉を重ねてしまったら、顔を火照らせたライムンド様がモゴモゴと口の中で呟くように何か反論してきた。わたしにはっきり聞かせるつもりはなかったのかもしれないが、しっかり聞こえましたとも。


(記憶に引き摺られているわけでは?)

「く、食いつくな!」

(わたしはお嬢様を幸せにすることを至高の喜びとしておりますので、お嬢様が喜びそうな話は無視できません。さ、続きをお願いいたします。「記憶に引き摺られているわけでは」?)

「―――っ!」


 いじめすぎたかもしれない。

 もし記憶の中と同じ使用人の立場であればここまで突っ込んでぐいぐい尋ねることはできないし、今も本当にいつ首が飛ぶかとヒヤヒヤしているけれど、でもわたしはぬいぐるみ。お嬢様が大事にしているぬいぐるみ。


 お嬢様を愛するライムンド様が、わたしを傷つけられるわけがない。


 安全が保障されているということがわかっているからこそ、つい楽しくなって揶揄ってしまったがこの辺りが潮時だろう。肩を竦めて追及の手を緩めた。


(失礼いたしました。まさか初顔合わせ時点から閣下がお嬢様のことを気にかけていらっしゃったとは露とも知らず)

「…っ君は本当に、良い性格をしていたんだな」

(お褒めに与り光栄にございます。……さて、では話を戻しますが、閣下はお嬢様との婚約の継続をご希望されていると。そうすると何度も申し上げましたように、殿下に命を狙われ続けることになります。暗殺者も一人ではないでしょう)


 話を最初に戻せば、まだわずかに頬に赤みが残るものの表情は真面目なものにして大きく頷いた。


「ああ、私も死にたいわけではない。だから、考えたのだが……殿下にアリシアのことを早い段階で諦めてもらうのが手っ取り早いのではないだろうか」

(それができたら苦労はしません)

「即答しないでくれ…」


 相手はたった一度の邂逅でお嬢様に執念深い思いを抱いたようなお方だ。そうやすやすと諦めるとは到底思えない。


「それは、そうかもしれないが。だが考えてみてくれ。この記憶によると私は最初の頃アリシアにあまり関心がないように見せ……いや、なくて、政略上の相手として対応していただろう」

(ええ、そうでした)


 お嬢様が頻繁にお手紙を出されたり、お茶会ついでにライムンド様がお勉強されているのを隣でニコニコと見つめつつ一緒にお勉強したり、休日に一緒に遠乗りに行けるように乗馬を練習されたりと、それはそれは涙ぐましいお嬢様の努力の末、ようやく相思相愛に漕ぎ着けたのであって、そうなるまで、ライムンド様からお嬢様へのアプローチは一切なかった。


 その代わりというか反動でというか、相思相愛になった後は激甘だったけれど。

 記憶の中の自分を振り返っているのか、恥ずかしさを隠すように眉間に皺を寄せたしかめっ面のライムンド様は腕を組んで一つ頷いた。


「きっとその最初の対応が問題だったんだ。私がアリシアに素っ気なくしていたから…殿下に自分が付け入る隙があると思わせてしまったのだろう。だから、今回は最初から、全力でアリシアを口説こうと思う」


 真面目に馬鹿なことを言っているように聞こえるのはわたしだけだろうか。


(……よろしいのではないでしょうか)

「ああ!」


 自信満々で晴れやかな表情になったのは大変喜ばしいですが、どうにもこの方、少しずれているような気がしないでもない。考えてみれば、ライムンド様がお嬢様に事あるごとに渡していた贈り物も、そこはかとなく微妙なものだったような…。まあそんな少しばかり残念感漂うライムンド様のこともお嬢様は愛していらっしゃいましたし、問題はないはず。


 そんなことより、殿下からの暗殺阻止計画についてだ。ライムンド様の作戦だけではどう考えても心もとないから、他の手も打っておくべきだろう。


 殿下がお嬢様に抱いた執着心から殺意が芽生える前にお嬢様を与えてしまおう作戦はライムンド様に拒否されたから、それ以外の方法。…となると、執着心を別の相手に移す、とか?


(殿下の、婚約者になり得る方はいらっしゃらないのでしょうか?)


 目を逸らす作戦である。

 お嬢様に向けられているその異常な執着心を、誰か別の方に向けていただければ誰も不幸にならないのではないだろうか。殿下の執着心を向けられる相手がかわいそう?大丈夫、殿下は愛情というか性格は歪んでいるかもしれないけれど、言い換えればものすごく一途な方だ。相手を選べば相思相愛も夢じゃない。


 なかなか良い案だと思ったのだが、ライムンド様の反応は芳しくない。先ほどおっしゃっていたお嬢様と殿下は婚約ができないというのと何か関係があるのだろうか。


(もちろん、国同士の関係などもあるでしょうけれど…)

「いや、今のところ近隣諸国とは良好な関係を築けているから他国の姫君との政略結婚という話は出ていない。……が、少々厄介な相手から婚約を打診されては、いる」

(?それならば、その方との婚約に乗り気になるように誘導できれば良いのでは?)

「ああ……それが、できれば一番良いとは、思うな…」


 歯切れの悪い回答のお手本のようだ。

 気まずいというよりは困ったように顔をしかめているライムンド様に首をかしげる。殿下…つまり王家がすっぱりはっきりと断れないなんて、一体どんな厄介な相手なのか。


(閣下は、その方にお会いしたことがありますか?)

「城で殿下と鍛錬をしていた時に、何度か」

(どのような方でしたか?容姿や性格は?)

「そ、そうだな……容姿は、その、派手……いや、それなりに美し、かった。性格については私が直接会話をしたわけではないから、はっきりとは」

(ぼんやりとでも良いですから、印象をお願いします)

「印象……?中級から下級の貴族令嬢に多い性格、だろうか」

(中級から下級、ですか)


 上級の中でもかなり上に位置するお嬢様にお仕えしていたわたしが、お嬢様のおつかいやらで関わるのはやっぱり上級貴族の方が多かった。しかし、そういった家では中級から下級の令嬢が礼儀見習いをしていたから、全く関わりがないというわけでもない。


 かつてわたしが言葉を交わしたことのある中級貴族令嬢を思い出す。普通に礼儀正しくて優しい方だった。


 首を捻るわたしがうまく想像できていないことを察したのだろう、ぐっと唇を歪めたライムンド様がものすごく言いづらそうに補足した。


「行儀見習いとして雇うのも拒否されるほど、我儘で高慢で高飛車な令嬢というものが、この世には存在するんだ…」

(なんと)


 それは……恐ろしいことだ。

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