第3話

 腕と足を動かせるようになりました。

 頭が大きいせいか、若干足取りが覚束ないものの、二足歩行が可能です。




 誰もいない部屋の中で、両腕と両足をちょいちょいと動かしてみる。ぬいぐるみの単純構造は肩から先、股関節から先に関節がない形状であるため、腕や足を曲げるというのがやや難しかったが、肘や膝があるものとして想像しながら動かし続ければそれなりに動かせるようになってきた。試しに定位置である棚の中で屈伸運動をしてみれば、短い足でもそれらしい動きをすることができたから、まぁまぁ意のままに動かせるようになったと言えるだろう。


 これまた何がきっかけで動けるようになったのかはわからないが、自由に動けるのであれば細かいことは気にしない。そんなことより問題は、いつシアの目の前で動いてみせるかだ。


 そんなのいつでも良いだろうって?

 そんなわけがない。


 想像してみれば良い。自分が毎日のように話しかけていたぬいぐるみが唐突に動き出したらどうするか。わたしならまず間違いなく悲鳴のちに暖炉にポイッだ。あるいは窓からポイッ。

 心優しいシアならいきなりポイッとすることはないだろうが、悲鳴をあげるであろうことは想像に難くない。もちろん悲鳴をあげるシアも可愛いだろうが、可愛いシアに恐怖を与えるくらいなら自ら暖炉に飛び込む方がマシだ。


(怖がって二度と話しかけてくれなくなったらわたしは死ぬ。精神的に死ぬ)


 だからいつ動いてみせるかは非常に重要なのだ。

 一番良いのはシアが興奮状態にあるときだろうか。何かに大喜びしているときなら、その興奮とわたしが動いた衝撃とが一緒になって、一周回って冷静になる可能性がある。例に出すのはこの上なく不本意だが、先日の殿下訪問後のような興奮状態であれば、わたしが動いたことに驚きはしても平時よりは受け入れやすいと思われる。


 あるいは逆に、激しく落ち込んでいるときはどうだろうか。この上なく落ち込んでいるときに頭を撫でるだとか慰めるように動いてみせれば、その驚きによって落ち込みの原因を一時的に忘れられるかもしれない。


(でも、その場合は落ち込むという状況に陥らないといけないのよね)


 シアの顔を思い浮かべてみる。ほわほわと幸せそうに微笑んでいた。可愛い。


(いや、そうじゃなくて)


 落ち込む状況というと、何だろうか。言っては何だが、家族に恵まれ容姿に恵まれ、金銭的にも余裕があり、周囲にいるのは優しい人ばかりという環境で、とんでもなく落ち込む要因はそうそうない気がする。


 もちろん、マナー教師に怒られただとか、庭で転んで花壇の花を潰してしまったとか、そういった小さな失敗のたびにしょんぼりはしていたけれど、頭が真っ白になるほど衝撃を受けるとかそういうことはない。まぁ基本的にずっと家にいてあまり変化のない生活だから致し方ない面もあるだろう。

 しかしそうなると、ちょうど良いきっかけを待っていたらいつまでたってもシアの目の前で動くことができなくなってしまう。


(これはいっそ諦めて普通に動いてみるべき…?)


 結局は考えるだけ無駄ということだろうか。

 誰もいないのを良いことに、棚から足を出してブラブラさせてみる。そうしてふと思い立って下を覗き込んでみた。


 わたしはシアが自分で取り出せるように低い位置に置かれているが、ぬいぐるみであるわたし自身が床から今のこの位置に戻れるかと言われると微妙かもしれない。頑張ればよじ登れなくもないかもしれないが、いまいち自分の大きさを把握できていないから、万が一手足の長さが足りなくて元の位置に戻れなかったら大変だ。


(あ、でも落ちたふりして床に寝転がっていれば問題ないかも)


 不安定な姿勢で置かれていたから、ちょっとした衝撃で落ちてしまったんですよと勘違いさせられないだろうか。


(無理があるかしら。それに、間違っても使用人の責任にされると困るわ…でもなぁ、暇だからなぁ…)


 部屋の中だけでも良いからうろうろしたいという欲求があるのだ。

 シアの前で動くことについては一旦置いておくことにして、誰にも見られない状況で動くことについて考えよう。ぬいぐるみ生活が長くなってきて慣れてきはしたけれど、やはり毎日ずっと座りっぱなしというのは飽きてくる。それにシアがいるときならシアを見ているだけで楽しいし、話しかけてくれたりもするから退屈にはならないけれど、シアがいないと暇で暇で仕方がない。

 欲を言えば、食事をしたいし読書もしたい。自分で情報収集にも行きたい。


(流石に食事と情報収集は難しいでしょうけど)


 せめて読書がしたいなあ、と自分が座っているのとは別の棚に並べられた本を眺める。シアが読める本が集められているその本棚には、絵本や簡単な物語の本が並んでいる。数はそこまで多くないものの、読書好きらしいシアの様子を見る限り、これからもじわじわ蔵書数は増えていくと思われるから、暇をつぶすには最適なのではないかと思う。


 なお、ぬいぐるみのくせに文字が読めるのかと思われるかもしれないが、問題なく文字を読むことはできる。シアが時々わたしを抱きかかえて読み聞かせをしてくれたから、というわけではなく、単純に文字を知っているからだ。記憶にはないが、このぬいぐるみの姿になる前に文字の読み書きは習得済みなのだろう。


(わたしがどういう経緯でぬいぐるみになったのかも気になるけれど、とりあえずは今の暇な状態をどうにかしたいな)


 自分のことなのだからもっと真剣に悩むべきなのかもしれないが、現状、わかっていることはぬいぐるみになっていることと、ぬいぐるみになる前の記憶が皆無であること、言語やその他の日常的な知識と記憶に関しては問題なく残っていることだけ。そして残っている知識をいくらさらっても、ぬいぐるみになった原因や方法、人間に戻る方法はわからない。何も情報や知識を追加することができない状況でこれ以上考えるのは無意味だし、無駄なことをするくらいなら時間を潰す方法を考える方が有意義だ。


(一番有意義なのはシアのことを考えることだけど)


 それは無意識にずっとしているから改めて言うほどのことではない。


(やっぱり読書かなぁ。どうにかして戻って来られたら…)


 再度、棚の下を覗き込む。気が遠くなるほど床が遠いというわけではないし、頑張ればなんとかなる気がしてきた。


 こういうことは思い切りが大切だと自分に言い聞かせ、いけそうだと思った瞬間に棚から飛び降りてみた。ぶらぶらと揺らしていた足を振って、その勢いで体を棚から出せば想像していたよりあっさりと床に着地することができた。残念ながら、ぬいぐるみらしく頭が大きいせいでバランスが取れず、軽やかな着地とはならなかったが。


 ポテ、と棚から落ちた勢いのまま倒れた体に四苦八苦しつつ頭を持ち上げ、ゆっくりと立ち上がる。振り向いて棚を見上げれば、思っていたよりも低い位置に座っていた段があることがわかった。これなら問題なく元の位置に戻ることができそうだ。


(それじゃあ早速)


 小躍りするような気分で本棚に向かう。シアにも取り出しやすいように低い段に並べられた本もあるが、いくら幼児とはいえ人間であるシアにとって取り出しやすい高さは、ぬいぐるみであるわたしには高すぎる。だから最近シアが読んでいるような絵本だとか物語だとかには手が出せないが、一番下の段に収められた本ならば問題なく取り出すことができそうだ。


 一番下の段はシアがあまり読まない本をまとめているらしいから、いったいどのような本なのかわたしもわからないが、とりあえず今はなんでも良い…と本と本棚の隙間に手を突っ込んで引っ掛け、ゆっくりと一冊の本を取り出してみる。


(世界の魔生物百選)


 図鑑だった。



***



 なぜか「知っている」と忘れた記憶が刺激される図鑑を前に、わたしは渋い表情で固まった。ぬいぐるみの表情が変化しているかはわからないが、気分としては思い切り口を歪めているつもりだ。


 知っている。わたしはこの図鑑に関して、何かを知っている。忘れているけれど、この図鑑にまつわる何かがあったはずだ。


 忘れたのが楽しい記憶なのか不愉快極まりない記憶なのかよくわからないが、とりあえず非常にモヤモヤすることだけは確かだ。この図鑑を見ているだけで妙に落ち着かないし、諸手を挙げて歓迎したい気持ちと全力で殴りたい気持ちが同居していて無意識に拳を握ってしまう。


 とはいえ、図鑑そのものには罪はない。傷つけないようにゆっくりと図鑑を床に置き、重たい表紙を持ち上げれば、やはり記憶に引っかかる署名が現れる。


(ヴィンセント・ククルーシア。知らない名前、だけど…ヴィンセント…ククルーシア……ククルーシア?)


 記憶に引っかかっているのは家名のようだ。

 ククルーシア。これまでこの部屋では出たことがない名である。


(図鑑の作者として署名が入っているということは、このヴィンセントという人は学者よね。学者…というと、庶民であることも多いと思うけれど…)


 基本的に、学者になるのは貴族をパトロンに持つ庶民が多い。もちろん貴族にも学者になる人がいないわけではないが、この図鑑のように魔生物を研究対象としているのはほぼ庶民だと考えて間違いない。というのも、魔生物の生態についてなどを研究する場合はフィールドワークが必要になるが、社交に領地経営に忙しい貴族ではフィールドワークに行く時間が確保できないからだ。


 とはいっても、社交を無視して己の趣味に邁進する貴族が皆無というわけではない。家族の理解さえ得られれば、お財布…もとい、パトロンは実の家族だから気心は知れているし、なんだったら領地を与えられてそこの収益を丸々研究に当てても良いなんて太っ腹なことを言ってもらえる可能性だって有り得る。


(あとは優秀だけど跡を継がせたくない弟に兄が資金を出して研究させているとかね…まぁ色々あるけど)


 なんにせよ、仮にこのヴィンセント・ククルーシアなる人物がシアに関わるとしたら、庶民であると考えるよりも貴族であると考えた方が可能性は高い。


(ただのお金持ちかもと思っていたけれど、こんな幼くして殿下と顔合わせをするってなると、裕福な商人と考えるよりそれなりに地位の高い貴族だと考えた方がしっくりくるもの)


 貴族の生活は民の支えがあってこそではあるが、そうほいほいと貴族のお嬢様が民と関わることはない。


(…まぁ、今はこれ以上考えても無意味よね)


 今後、ククルーシアという名前が出てこないか十分に気をつけておこう、と心に刻み、さてとばかりに図鑑に向き直る。無駄に作者名に気を取られてしまったが、当初の目的は本を読んで暇つぶしをすることだ。図鑑、それも魔生物図鑑がどれくらい面白いものなのかは未知数だが、なかなかの厚みがあるのだからしばらくは暇を潰せるだろう。

 そんな期待を込めて、1ページ目を捲るべく手を伸ばした。


(……うそでしょ)


 ぬいぐるみのフカフカさらさらの手は、紙の上を滑るだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る