07.柏木、会社辞めるってよ
翌朝、俺はスマホのアラームで目が覚めた。
ソファーで寝ていたことを思い出し、起き上がって体を伸ばしてみた。
うーん。これで2日間連続、スーツを着たまま寝てたことになる。
…シャワーでも浴びるか。
俺は着ているものを脱いで、シャワーを浴びに風呂場に向かった。
途中洗面台で自分の姿を見て
「うぉっ」
と、叫んでしまった。
自分の身体がやけに引き締まっているのだ。
シックスパックに割れた腹筋。なんだこの上腕二頭筋は。
顔も幾分若返っている。
昨日より幾分身体がなじんでいるような気がして、所作で物を壊すということもない。
無意識にコントロール出来ているようだ。
俺はシャワーを浴びてすっきりし、再び寝室に戻りパンツをはいた。
シャワーを浴びながら、考えたのだが…
このまま会社に行くと少しやばいかもしれない。
見た目がかなり若返っている。
それでも行くしかないか。
俺は時計を腕につけて、昨日まで着ていたスーツを改めて着た。
うん。汚れも皺も一切ないな。
さて、会社に出かけるか。
俺はビジネスバッグの中に昨日もらったタブレットを放り込み、玄関に向かった。
外に出てみると昨日とは打って変わって体の調子がすこぶるいい。
歩くことも、電車に乗ることもスムーズにできている。
それに疲れがない。
いつもなら満員電車で、朝の通勤だけで疲れを感じてたのに。
今日の俺は無事に出勤することができた。
タイムカードを押し、自分の机に座ると早速事務作業に入った。
最近抜け殻のようになっていたので、仕事も他のスタッフが肩代わりしてくれていたので、処理する作業はそう多くない。
しかし、その肩代わりしてもらっていた書類をよく見るといくつか抜けやフォローしておかなきゃいけないことに気づいた。
俺はそれらの書類をもって課長のデスクに向かった。
「おはようございます、課長」
「あぁ、おはよう柏木君。どうだね、そろそろ調子は戻ったかね。」
「はい、おかげさまで。先週ようやく離婚に関する諸々の調停が無事終了しました。」
「そうかそうか。まぁ、長い人生いろいろあるわな。気を落とさずに頑張って。」
「ありがとうございます。ついては私が担当していた物件なのですが…。」
「おぅ。そのことはもう既にほかの社員に振り分けているんで心配しないでいいよ。今更君のところに戻しても、先方も対処に困るだろう。」
課長は少し視線を外しながら、そう答えた。
『マスター、失礼します。現在、マスターの思考に直接話しかけております。マスターからの指示も同じく思考していただければ、私に伝わりますので、声に出して指示をする必要はございません。』
いきなり頭の中に話しかけられたので少しびっくりしたが、何とか表情に出さずに済んだ。課長が目をそらしていたのもあって気づかれていないのだろう。
『先ほどそこの課長と話されていた内容ですが、実はこの課長主導ですでにマスターに地方への転勤、つまり左遷の人事異動が出されている模様です。』
俺は愕然とした。
確かにここ半年はお荷物だったろうが、それまでは課の中でもトップの成績を残していたはずだ。それでもやはり左遷になるか…。
世知辛いが仕方ないんだろうな。
俺はため息が出そうになりながらも課長と話を続けた。
「そうですか。精算及び決算書類を整理確認しましたところ、いくつかまずい点が出ているようなので、各担当者に課長からご指示願えませんでしょうか。」
俺は物件ごとに付箋をつけて、どこがまずいのか、どうすればいいのかを書き込んである書類を課長に渡した。
「お…おぅ。各担当者に渡しておく。ところで少し君について話があるんだが…。」
「はい、なんでしょうか。」
「実は鹿児島の支店で支店長補佐として、君に白羽の矢が立ったのだよ。人事異動を受けてくれないか?鹿児島はいいぞ。空気もきれいだし、のんびりしているし、君のリハビリにもちょうどいいだろう。」
課長はにこやかに俺に話しかけた。
桜島の粉塵がいつも舞っている土地の空気がきれい?
俺は少しあきれた。
この会社はこんな俺にも優しくていい会社だと思っていたんだが。どうやら俺の思い違いのようだった。
『マスター。この課長はどうやらマスターの営業成績が気に入らなかったようで、子飼いの部下たちといつも酒を飲んでは「柏木が邪魔だ」と管を巻いていたようです。マスターの営業成績が良すぎて、課長の座を脅かしていたようですね。それが半年前のことをきっかけにみるみる成績が落ちたので、仕事を奪って根回しをしていたようです。』
そうか。そういうことか。でも仕方ないな。もとはといえば俺の所為だもんな。
『そこでマスター。この機会にいっそ退職されてはどうでしょうか?今のマスターには資産がありますので、それを運用する形で会社を興されるのも一手だと考えます。』
『え?あの金100tとかいうの?あれって本当のことなの?金100tって言われても実感がなくて…。それっていくらぐらいの資産になるの?』
『現時点でgあたり6,800円相当が相場ですので100×1000×1000で100,000,000gとなりますので、ざっくりとですが680,000,000,000円(6千8百億円)ほどになります。もっとも手数料などが差し引かれますのでおおよそ6千5百億ぐらいですね。』
俺はブッと吹き出してしまった。
「どうかしたのかね?鹿児島転勤、受けてくれるかね?」
俺は怪訝そうにする課長は置いておいて思考での話を続けた。
『それって自由に使えるお金ってこと?』
『そうです。具体的な運用方法はまたご相談になりますが、ほぼ6千5百億円がご使用になれます。』
「柏木君!」
課長が催促しだした。
俺は一つため息をつき上を見上げた。
それから視線を課長に戻し
「申し訳御座いません、課長。その転勤には承諾しかねます。」
「会社の決定事項だぞ。それを蹴るということは首になる覚悟があるということだろうな?」
「はい。むしろ本日中に辞表を提出いたしますので、退職の手続きをお願いいたします。お世話になりました。」
これを聞いた課長はもとより、朝から課長と話している俺を見守っていた早瀬やほかの社員も息をのんだ。
「え?退職?」
「はい。やめさせていただきます。辞表はすぐに提出いたします。いくらか残っている有給休暇を消化させてもらい、今月末の退職ということでお願いします。本日は辞表を提出したら、帰宅させていただきます。」
「そ…そうか。いや、残念だが、仕方ない。栄転ではあったのだが、やる気がないのなら無理だしな。そうか退職か。残念だな。」
いやいや、課長。それだけにやにやしながら言っても、説得力ないよ。
俺は自分の席に戻り、辞表を作成しだした。
すると、早瀬が近寄ってきて
「おい、努(つとむ)。お前退職するって本気か?今ならまだ課長にとりなしてやるぞ。」
早瀬は焦りながら俺にそう言ってきた。
「いや、大丈夫だ。この辞表を提出したら、俺は会社を出ていくよ。」
俺はパソコンで打ち出した辞表をプリントアウトし、署名捺印のうえで、課長に提出した。
自分の席に戻り早瀬に
「いろいろとあいさつしなきゃいけないところもあるんで、お世話になったところにあいさつに行ってくるよ。また、夜にでもどっかで会おう。」
「お…おぅ。気をつけてな。」
早瀬は俺の勢いにのまれたように返事を返した。
課長は俺の辞表を受け取ってすぐに人事部へ駈け込んでいた。
よっぽど俺が退職するのがうれしいんだろうな。
俺は自分のカバンを持ち、私物をまとめ段ボールに放り込み、それを抱えて会社を後にした。
会社から出てすぐに人目につかない場所を探し、タブレット経由で私物の段ボールは自分の部屋に転送してもらった。
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