苗字しか知らなかった先輩→


***




 疲れた。今日はその一言に尽きる。

「そして自分の仕事が終わらない……」

 電話、電話、電話だ。とにかくお客様からの電話ラッシュだった。15時までとの宣言はなんだったのか、それ以降も出ようとしない先輩を恨めしく思いながら取り続けた。もちろん私にだって応対以外の事務仕事が山盛りあるというのに、あまりに片寄った分担に最後は泣きそうになった。

 そして終わらないからには帰れないわけで。残るよう命じられた以外の居残りは残業と認めてもらえないのが当社なわけで。すっかり遅くなって気が滅入ってきたので、駐車場まで気分転換に出てきていた。

(五分だけ死のう……)

 目立たないように、隅っこでしゃがみこむ。すぐ側の道路を車が飛ばしていく音を聞きながら、今日の出来事を頭の中で振り返った。

 あれで、良かっただろうか。電話口の金子さんは訪問中だったから、口調だけでは内心を読み取れなかった。徐々に増す不安で胸がいっぱいになる。

「……駒沢? おい、どうした気分悪いのか」

 名前を呼ばれ、ほとんど反射的に顔をあげる。仕事を終えて戻ってきたところなのだろう、大きな鞄を抱えた金子さんが目の前にいた。人が近づいてきてたなんてまったく気がついてなかった。

「か、金子さん。いえ、その、残業の合間に休憩を……ええと、お疲れ様です。お帰りなさい」

「おう、お疲れ。うずくまってるからマジでビビった、まだ夜は冷えるんだからホントに風邪ひいちまうぞ」

 事務所に戻るということは、仕事の続きをするということ。そしてやらなければ終わらないのだ。ため息が出そうな気持ちをグッと堪えて、私はゆっくりと立ち上がった。

 金子さんに今日のことを聞きたくて一瞬足を止めたけれど、何を言っていいかわからず諦めた。

「そうだ駒沢」

 そんな私を金子さんが呼び止めた。知らず、肩が跳ねる。

「近藤さんの件。あれ電話くれたのって、誰か先輩に言われたのか? それとも自分で考えた?」

「……すみません、掛けてしまって」

 恐る恐る視線をあげる。でも金子さんは怒っているような表情をしておらず、むしろ私の答えを辛抱強く待つみたいに優しくこちらを見ていた。

 正直なところ、予想外の反応に戸惑う。金子さんは何を知りたいのだろうか。責任の在処?

「あの……聞ける状況では、なくてですね」

「自分で考えたのか」

「今しかない、と思ったんです。見積中はさけたくて、でも訪問案件は挟めそうで、ともかくそれを伝えて行けるかどうか判断してもらわねばなりません。そしたら、時間がないのではとなって」

 言葉がうまくまとまらずとっ散らかってしまい、そのことでさらに焦ってしまう。電話応対ならそこそこ冷静になれるというのに、どうしてこれほど話すのが下手なのか。

「大丈夫だから、落ち着け駒沢」

 少しだけ深呼吸をした。金子さんは待ってくれている。

 心細い気持ちでいっぱいになりつつ、私は数時間前の出来事を振り返るように頭の中で反芻しながらもう一度口を開いた。



 本当は、手がすいたら折り返しお電話をしてくださいとメールだけするつもりだった。そうすればいいと習ったし、そうしてきた。

 でも今回の相手はひどく短気で、怒鳴り込んでくるかもと先輩は言う。いつもと同じではない。

(でも確か、今日の訪問案件は)

 急いでシステムを開く。金子さんの午後の予定は機器の配達が二件と大型商材の提案と見積、過去販売先への定期訪問が三件、警報器の取り替えが一件だった。件数はさほど多くもないが、時間のかかる内容が含まれている。今はちょうど配達案件のデータに“出動中”のアイコンが表示されていた。

「今ここにいるということは……たぶん次は見積」

 回る順番はこちらでわからないので、現在の訪問先と残りの訪問先の地域を結んで推理するしかない。それぞれの住所を見て、もし追加で訪問を捩じ込むなら……そしてそれを伝えるに適したタイミングは、手段は……。



「だから、比較的妨げになりにくい配達中のうちに、早く伝えるために電話をかけて、もし行けるならいってもらって、駄目でもそれを連絡してもらえるようにですね」

「だいたいわかった、困らせてすまん。ちゃんと電話で連絡してくれて助かった」

「それで……え? 本当ですか?」

 聞き返す声がわずかに引っくり返ってしまったようで、金子さんがくすりと笑った。怒られるかと思っていたのに真逆の言葉をかけられ処理が追い付かない。

 いったいどうして、と目だけで問う私に答えるように金子さんは続けた。

「ほら、ウチはそんなんで掛けてくるな! みたいに怒る人の方が多いだろ? 確かにメールでいいような内容の時もあるけど、お陰で事務員が萎縮しちゃってな。今では無難だからって全部メール、掛けてくるのは新庄しんじょうくらいなもんだ。見るのが遅れてヤバいこともあった」

 近藤さんはまさに放置厳禁即対応必須! と人差し指を立てられる。ややうんざりした様子を見るに、気に入られてしまった金子さんは度々苦労をしているのだろうと察せられた。

「いつも大変な方……なんですね?」

「大変も大変。あの後すぐに連絡入れて訪問時間の調整したから何とかなったんだけどな。営業してる最中に、それも手がつけられなくなるほどおかんむりになってから報告されでもしたら商談どころじゃない」

 コンロの点きが悪い気がする、給湯器の音が大きい気がする、果ては部屋の電球が切れた時まで金子さんを呼びつけるそうだ。対応注意とは読んだが、これは予想以上に面倒くさい人だったらしい。事が大きくならず本当に良かった。

「だから、駒沢が急ぎだって電話くれて助かったんだ。でも正直珍しいだろ、どうやって判断したのかと思ってさ」

「そ、そういうことでしたか……」

 ホッとして緊張が緩んだのか、先程まで気にならなかった夜風が急に冷えて感じた。少し長居をしすぎたのかもしれない。

「わかってスッキリした。一人でそんだけ考えたなんて、お前がんばったな。ありがとう」

「んぇ……」

 驚きすぎて、おかしな返事しか出来なかった。返事にもなっていなかった気もする。なんだそれ、とまた金子さんは笑うと、荷物を抱え直してさっさと屋内に入っていってしまった。あっけなく向けられた背中を見送って、力が抜けていく。

 電話をかけたのが正しかったことだけでない。それを自分で判断できたという過程を褒められた。自分の部下でもない、私はただの事務員なのに。そんなことを気にかけてくれるのか。

(金子さんは……すごい人、かも)

 苗字しか知らなかった先輩が、尊敬する先輩に変わった春のこと。これは私たちの苗字論争開戦のずっと前。そして賑わいつつもどこか明るさの足りない打ち上げの、少し前の出来事だった。

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