恋と呼ぶにはまだ早い

藤咲 沙久

クレーム電話は突然に




 メールか、電話か。迷っている時間はない。受話器をとって電話帳を開いたものの、怒られるんじゃないかと思うと声が少し震えた。

駒沢こまざわです! お忙しいところすみません、緊急と判断しお電話しました!」





 街の小さなガス屋に勤めてから来月で二年目になる。

 業界独特のルール、社内独特のルール、いろんなものが少しずつ身に付いてきたように思う。伝言ひとつのために電話連絡をして後からきつく注意されることも無くなった。

 ウチの会社では通常、外回りをしている営業マンやサービス担当へ事務員から電話をかけることは少ない。ガス栓の閉開栓中、営業中、修理中、移動中。どの場合でも邪魔をしてしまうことが多く、それをひどく嫌がられてしまうからだ。

(そのくせ、メールしても気付かないことがあるなんてちょっと理不尽ですけども)

 急ぎかどうか、本人しかわからない。内容によっては電話しなかったことを責められることさえある。どんな手段で伝えるかは失敗に失敗を重ねた経験で考えるしかなかった。

「駒沢さん、私ちょっと今日電話応対無理だわ。本社に送る資料作るの15時までなの、悪いけど後は頼んだから」

「あ、はい、わかりました。大丈夫です、出ます」

 ぐったりとした声音の先輩へ向き直る間にも外線が鳴る。春先は進学や入社に合わせた転宅が多く、ガスの開け閉めだけでも申し込みが殺到する毎日だ。数名しかいない事務員が他の業務をこなしながら捌ける件数ではない、と常々感じていた。

「お電話ありがとうございます、ガスサービスショップの──」

金子かねこさんに来てほしいの。いるでしょ」

「駒沢で……あの、営業の金子ですか?」

 完全に挨拶を遮られたが負けじと聞き返す。しゃがれてはいるが女性の声だった。50代といったところか。

 営業課チームリーダーの金子さんはお客様のファンも多い。とはいえ、社内ではさして関わりを持たない私にとって、ほとんど名前しか知らないような人だった。

「金子さんは一人しかいないじゃない。私あんたみたいな新人ぽい子より長い付き合いなんだからそれくらい知ってるわよ。金子さんに来て欲しいの、呼んで」

 苛立ちを隠さない声が捲し立ててくる。ああ、ハズレを引いたのだと気づいた。きっとこの人はいつも通りの応対が通じない相手なのだ。

 空いている右手だけで素早くキーボードを叩き電話番号から顧客検索をする。住所自体は会社から近いが、金子さんが今日まわっている地域とは離れているようだ。過去の記録には、やはりと言うべきか「訪問、金子氏のみしか受け付けず。対応注意」と残されていた。文字を追うのに数秒意識を向けてる間に、また耳元でぎゃんと吠えられる。

「ちょっと、聞いてるの? 早くしてよ!」

「失礼いたしました。お客様、金子はただいま外回りに出ておりますので折り返しお電話をさせて頂きます。ですのでお名前とご住所、ご連絡先を……」

「そんなの、私からって言えば金子さんならすぐわかるからいいでしょ!」

 お得意様面、ここに際まれり。どちらのワタシ様でございましょうか。

(……なんて感心している場合ではありませんね)

 実際はどこの誰かすでにわかってはいるのだが、個人情報うんぬんもあり、店側が勝手に調べた名前をこちらから相手に伝えることは出来ない。自ら名乗ってもらわねばどうしようもないというのに、中々手強い相手だった。

「……だから、近藤こんどうよ! それくらいわかりなさいよ!」

 この一言を引き出すのに五分は粘った気がする。もうこれ以上は無理だと限界を感じた。まだ続けるのなら店まで乗り込んできかねない勢いだ。

 通常の訪問受け付けならば住所を聞き出すまで戦わねばならないが、今回は電話の折り返し。なんとか名前を名乗ってもらったという事実だけで乗りきるしかない。

「では近藤様。先程もお伝えしましたが金子は外出中ですのでお時間がかかる可能性もございますが、よろしいで」

「早くしろって言ってんのよ!! わかったわね!」

 ガチャン! と派手な音を立てて、急に通話が切れた。大きな声を出されたことで竦み上がった体が徐々に弛緩していく。少し、恐かった。

 金子さんにこのとこを伝えて、早く荷を降ろしたい。そんな気持ちで一杯でメール用の社内携帯を手に取る。事務員全員で共有してる一台だ、占領するわけにいかないので打つなら急がねばならない。

「今の、近藤さんでしょ。あの人金子さんを出せの一点張りだからねー、遅くなるとまた掛けてくるよ。怒鳴り込んできたこともあるくらい」

 締め切り前の書類に埋もれた先輩がこちらを向かずに言う。その横顔にはお気の毒様、と書かれているように見えた。

「えっと、あの、そしたら電話の方が……?」

「どうかなー、嫌がられてもやだしねぇ」

 先輩は曖昧に返したきり、忙しいと言いたげに荒々しくキーボードに指を走らせた。そちらから話しかけてきたというのに、もう喋るなとでも言われたような壁を感じた。

 助けを求めて反対側に座る先輩を見る。いつも指導してくれる彼女は、運悪く電話応対中だった。

(考えて。思い出して。どうしたらいい、どれが正しい)

 金子さんは電話すると怒る人だった?

 メールしてすぐに気づいてくれる人だった?

 待たせたらクレームになる?

 内容を教えてもらえなかったけど本当に至急?

 そもそも何の話をしたいか聞けなかったことを怒られる?

 一瞬で駆け巡る思考、その激しさにわずかな吐き気を感じた。でもここで固まるわけにはいかない。動け、動け、考え続けねば。

 意味もなく瞬きを多めに繰り返していたら、ふと思い立った。慌ててマウスを掴みシステムを開く。今日入っている各自の訪問予定一覧だ。金子さんのページに目を遠し、私は受話器を手に取った。

「駒沢です! お忙しいところすみません、緊急と判断しお電話しました!」





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