第3話 還るところ3
体を包むこの違和感は、何だろうか。肌が乾く不快な感触にカチは身じろいだ。なにかが違うと、本能が騒ぎ立てている。
強すぎる光を感じ、カチは目を開いてみた。
音がない――水もない、ここは海ではない。直感的にカチはそう思って、では、どこにいるのだろうかと視線を巡らせた。
「ここは……?」
何かが喉から出て行った。違うのは周囲だけではない、自分の体にも起こっているようだ。カチは意識と行動の大きなズレに吐き気がこみ上げてきて、たまらずに口元を左手で――押さえた。
「何、これは?」
細く、すらりと伸びた長い棒状の腕。丸い手の平からは、細い指が五本突き出している。
何処をどう見ても、これはヒレではない。
なにが起こっているのか、まったくわからなかった。理解が追いついてこないのだ。
カチは仰向けに寝そべったまま、周囲の様子を探るべく、頭を左右に動かした。
視界を眩ませる光は天井から降り注ぎ、真っ白に塗られた壁に反射して、手狭な部屋を照らしていた。
体が沈むようなマットレスが敷かれたベッド。備え付けのサイドボードには、ガラス製の水差しが銀色のトレイの上に置かれている。
しばらく、ベッドのうえで仰向けに寝そべったまま、混乱する思考を宥めようと深呼吸をした。
しかし、早鐘を打つ鼓動は治まりそうにない。
カチは諦め、起き上がろうと寝返りを打ち、手をマットレスに突いたところで驚いた。
体が重いのだ。
力を掛けた腕が、体重を支えきれずに震えているのを、カチは信じられない思いで見つめた。
「……くっ」
歯を食いしばり、柔らかいマットレスから体を引き剥がすように、ゆっくりと上体を持ちあげた。
「ここは、どこ……でしょうか?」
夢を見ているようだった。
真っ新のシーツの上に投げ出した素足と、五本の指を持った両手を、カチは呆然と見つめた。
とくとくと、身体の芯から流れ出る血液の微動は全身を巡っている。見慣れぬ両手。両足も、しかり、だ。
カチは力を込めればすぐに折れてしまいそうな、珊瑚のように細い指を、そっと動かした。握りしめ、開き。開いては、握りしめる。
間違いなく、自分の手だ。
しかし、急激な変化を受け入れることは容易ではない。違和感を抱えたまま、カチは水色の薄い生地から覗く両足を床に下ろし、起き上がるときと同様に、体重を二本の足にゆっくりと掛けていく。
ベットに手を乗せたまま、カチは恐る恐る立ち上がった。
「冷たい」
素足から伝わってくる冷んやりとした床の温度に身震いをし、出口も入口もなければ、継ぎ目すら見あたらない壁をぐるりと見回す。
部屋というよりはむしろ、箱といえる閉鎖的な空間は、目に見えない圧迫感でもって、カチを脅かしている。
床へ引きずり込まれそうな重力にふらつく足にぞっとしながら、カチは光を反射する壁に映り込むものに気づいて視線を向けた。
踝まで達した長い銀色の髪。睫毛で縁取られた黒い瞳を持つ、大きな目。
今にも波に浚われてしまいそうな、頼りない体の線を隠す水色のワンピースを着ている少女が、不安げに眉をひそめて立っていた。
「これは……」
カチは少女に向かって手を伸ばした。
そうすれば、少女も同じように手を伸ばす。だが、光沢のある壁から腕が出てくることはない。
「これが、わたし?」
平面的な自分の姿に、カチは愕然とした。
ふらつく足取りで壁まで歩いて行き、滑らかな壁に鼻先を押しつけて、まじまじと覗き込む。
いくら凝視しようと、角度を変えようと。そこに映り込んでいるのは、シロイルカではない。呆けた顔が、じっと見つめ返してくるばかりだった。
「……うそ」
絞り出した声は、震えていた。
胸中は、不安と焦りで埋め尽くされ、群れから一人はぐれたような焦燥感に襲われた。
二本足で直立に立ち、口から息と『声』を吐き出す生き物などカチは知らない。
しかし、と。頭を振って考える。
本当に知らないのか? そう自身に問いかけて、カチは海の底で聞いた“声”を思い出した。
知らないはずの音なのに、知っているような音……声。いや、言葉か。焦りに追い立てられ、喉が痛みを訴えるほどに渇くのを感じた。
「ちがう、きっと違う。夢じゃない……はず」
美しい仲間たちの歌声を、今もはっきりと思い出すことができる。うねる海の感触も、心の中にしっかりと刻まれていた。
確かにカチは、あの時までシロイルカだった。
「でも……」
目の前にある姿は、確かに自分のものだ。どんなに信じられなくても、事実を前にしては納得せざるをえない。
だからこそ、混乱は深まるのだろう。
海を回遊していたシロイルカだった自分も、こうして今、二本足で重力に捕われている自分も、確かな実感を持って存在しているのは確かだ。どちらが夢であると言い切ることは不可能だろう。
壁に両手をついて項垂れていたカチは、響いてくる声に顔を上げた。
「予定よりも早く薬の効力が切れたわね」
「存在自体が特殊なんだ、何があったっておかしくはないさ」
真っ白の壁の向こうから、男と女、二人分の声が聞こえてきた。誰かが来たのか。訳もわからない状況から解放されることへの期待が膨れあがる。
しかし。それ以上に、なにが起こるのか、まったく予想のつかない恐怖に、カチは震えた。
心臓は薄い胸を突き破るように強く穿ち、歯の根が震えて虚しい音を響かせる。
「――なに?」
滑らかな壁に張り付くようにして、カチは身を丸めて怯えた。
そんなカチを更に脅かすように、塵一つ付着していない白壁の一角に直線のラインが走った。 定規で引かれたような、一分のズレも許さない直線は、大きな長方形を白一色の壁に描きだす。
そのまま、壁に描かれた長方形部分が迫り上がり、ぷしゅっと潮を吹くような音を立てて、横にスライドした。継ぎ目のない、一個の箱だった部屋に別の空気が流れ込んでくる。
少し甘い匂い。
香水の匂いだろうかと思って、カチは戸惑った。
「香水?」
声に出してみても、何を示す概念なのか、頭の中で繋がらない。スッキリとしないもどかしさが、胸につかえた。
「あら、ごめんなさい。つけすぎた自覚はないのだけれど、気になるのなら先に誤っておくわね」
甘い匂いを纏わせた女が、苦笑を浮かべてそう言った。
「まずは、自己紹介から始めましょう。わたしは、ノート・リン・ドゥルーツォ・アルビレグム」
部屋に入ってきた二人の内、女のほう――ノートが、一歩前に出てきて名乗った。
隣に立つ青年と揃いの、光沢のあるジャケットにタイトな黒いスカートを穿き、ヒールの高い靴のせいで、余計に高く見える背丈に、カチは気圧された。部屋の隅へ、反射的に後ずさる。
カチはいかにも友好的だと示すように微笑むノートを、上目遣いで見上げた。
目の前に立ちはだかる女は、とにかく異質だった。
自分の境遇もいまいち理解が追いついてこないのだが、それ以上にノートの容姿にカチは困惑していた。
高い位置から見下ろしてくる目は、全体的に充血したように赤い。瞳は琥珀色に近い、濁った金色をしていた。
カチは、こんな目をした人間を“知らない”と思った。全ての出来事があやふやな中で、そう断言した自分自身にも困惑していたのだが。
「あなたの身の回りの管理を任された者よ。どうぞ、よろしくね!」
動揺しているカチの様子に気づくことなく、ノートは肩の位置で整えられた群青色の髪を揺らして、勢いよく右手を差し伸べる。
「あ……あの」
差し出される、同じ色の肌をした手に対して、どうしたらいいのか分からなかった。
カチは、ドアの側に立ったままこちらの様子を窺っている、ノートと揃いのジャケットを着ている青年へと視線を向けた。
「まったく」
よほど困った顔をしていたのだろうか。今まで黙っていた青年は、少しクセのついた短い黒髪を書き上げ、溜息まじりに言った。
「空気を読め、ノート」
「なによ、ちゃんと名前を名乗ってから話を始めているじゃないの。なにか悪かったかしら?」
くびれた腰に手を添え、ノートは唇を突き出して振り返った。天井から降り注ぐ人工灯よりも鋭い眼光が逸れ、カチは、ほっと息をついた。
「勢いのまま話を続けるな。あと、声がでかい。鼓膜が破れる」
「なによ、その言いぐさは!」
睨みあう二人の間に、なんともいえない緊張した雰囲気が生まれる。
「自覚が足りなさすぎるんだよ。何度言えば自重できる?」
蚊帳の外にいるカチが萎縮してしまうほど剣呑とした睨み合いは、真朱が先に視線を外したことですぐに収拾がついた。
ノートは不満げに鼻をならすも、すぐにカチに向き直ってにこやかな表情を作って続けた。
「自己紹介が終わってなかったわね。この小生意気な男は、真朱。あなたを思念の海から引き上げた環境保護官であり、外洋活動潜行艇部隊員の一人よ」
「は……はい」
「ああ、もう! 素晴らしいわよ、あなた!」
「え? あ、あの……わたし」
胸の前で両手を組んで、叫び声に近い歓喜の声を発するノートに、カチはただ身を竦ませるより他にできることは何一つなかった。
「救命ポッドで打ちあげられたうえに、安定した意識を持つ個体は運命の三姉妹(ノルニル)以来の事象なの! 私、もう嬉しくて! 生還したアンピリトテ自体少なく……」
「ノート」
放っておけば、そのまま踊り出してしまいそうな勢いではしゃぐノートを諫めるように、真朱の咳払いが入る。
「ともかく、私たち環境保護機関は、あなたの存在を受け入れ、守り通すことを誓うわ。だから、信頼を預けて欲しいの。悪いようにはしないわ」
「しん……らい?」
一歩、一歩と近づいてくるノートを牽制するように見つめ、カチはどうするべきなのか迷っていた。見ず知らずの人間にいきなり信頼しろと言われたところで、自分の存在すらあやふやなカチには、判断を下す余裕はまったくない。
黙って、おとなしくしているカチの様子を肯定と受け取ったのか、ノートは両手を広げて、ためらうことなく歩み寄ってくる。
「さあ、覚えているのなら、聞かせて頂戴。あなたの名前を!」
「――っ?」
カチは、びくりと肩を震わせた。
狭い部屋にがんがん反響するノートの大きな声に驚いたわけではない。もっと別の場所から強い感情が流れ込んでくるのを感じ、舌が痺れるような渇きと、腹の底が裏返ような恐怖を感じたのだ。
「どうしたのかしら?」
「どうしたもなにも、怯えているのがわからないのかよ。だから、あんたは――」
真朱の声を押しのけるように、電子音が響いた。
カチが驚いて音のほうに視線を向けると、壁の一部が先ほどのドアと同じようにスライドし、受話器が迫り出す。
「ラボから?」
気怠げな調子から一転して緊張をはらませた声になった真朱は、液晶ディスプレイに映し出された文字を見て、表情までをも強張らせた。
どうしたのかと聞くまでもなく、部屋には不穏な空気が漂い始めていた。
(なんだろう)
妙に苦しくなる息に、カチは胸元に手を当てた。
「あなた、大丈夫?」
掛けられるノートの声に、カチは何一つ応えることができなかった。脈は速くなり、血管が切れてしまいそうに全身が痛い。
自分の身になにが起こっているのか、見当もつかない。いや、そもそも、この痛みは自分の痛みなのだろうかとさえ、疑った。
「ノート、ラボで保管していた擬体が……」
頭痛を感じ、カチは目を閉じた。
眩い光から閉ざされた視界。漆黒であるはずの視野に、浮かび上がってくるぼんやりとした白い影。カチは思わず、小さな悲鳴を上げた。
(これ……これは……)
耳鳴りのような高い音が脳を刺激する。
大きく広がってゆく漆黒のスクリーンに現れたのは、青白い肌を持った海に住まう生き物。
シロイルカの、ぐったりとした姿だった。
「い、いやっ!」
カチは頭の中で鳴り響く高音を捕まえようとでもいうように頭を抱え、叫んだ。
『いや――っ!』
空気が――いや、空間が大きく揺らぎ、波が生み出される……。
「なにっ!」
「絶対反響定位能力(アブソリユート・ロケーシヨン)? くそ、だからって強すぎるだろう!」
目視できない音波の波が、ベッドからシーツとマットレスを剥ぎ取った。
呆然と立ちすくむノートを床へと叩きつけ、愕然とする真朱を壁へとめり込ませる。
「なに……これ?」
訳がわからず、カチは己の両手を見つめた。
体の内から大きなものが外へと流れ出していったのは、感覚的に捉えていた。とはいえ、どうしてこんな事態を引き起こしているのか、核心に迫れるようなことは何一つわからない。
床に突っ伏すノートは、倒れたときに打ち付けたのか、額から血を流している。意識はないようだが、気を失っているだけだろう。
真朱は、あれだけ強く壁に叩き付けられていながらも意識は保っている。しかし、すぐに動くことはできないようだ。床に膝をついて、苦しげに呻いていた。
「わたしが、こんなこと?」
怖かった。震える両手を握りしめ、カチはそのまま口元へと押しつけた。
「こんな……っつ!」
たまらずに目を閉じたカチは、耳鳴りと共に浮かび上がる、シロイルカの姿に閉じた目をすぐに見開いた。
ただの幻ではない。どうしてそう思うのか聞かれても、はっきりと答えることはできなさそうだ。しかし、カチは確かにそう感じていた。
散々な有り様の部屋をぐるりと見回し、素足が一歩、前へと出る。
「まて、何処へ行く気だ!」
「ご、ごめんなさい……わたし!」
動けないでいる真朱の横をすり抜け、カチはもつれる足で部屋から飛び出した。
「行かなくちゃ。どうしてか全然わからないけど、行かなくちゃ!」
純白の人工灯が照らし出す通路を、カチはおぼつかない足取りでありながらも駆けた。
素足のまま、堅い床を蹴って走るのはつらい。だが、今はそんなことを気にしていられるほどの余裕はなかった。
体にまとわりつく重さを振り払うように、激しく腕を動かし、幾度も転びそうになりながら、カチは切れ切れの息で諦めることなく走り続ける。
「道が!」
一直線に伸びる通路の先が、二つに別れているのに気づく。どちらに行けばいいのか迷うカチを誘うように、耳鳴りが響いた。
「こっち、なの?」
左側の道へと視線を向け、戸惑いながらも、耳鳴りを感じる方角を選択して進む。
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