第2話 還るところ 2
空と海の境界を示す水平線に、夕日が沈んでゆく。
いかなる時も、穏やかな波は太陽の熱に焦がされるように橙色に染まり、水面の動きに合わせて星のように瞬いている。
浮体ブロックを繋ぎ合わせて造られた、八万三千平方キロの人工浮島――隕石の衝突による津波によって沈んだ日本の一部、北海道とほぼ同じ面積――を飾るビル群のソーラーパネルは、暗くなり始めた街を照らすため、蓄えた電力を島中に送り始めた。
昼でも肌寒い季候の現地球は、夜になれば、吐く息が白くなるほどに冷える。
人工砂を敷き詰められた仮初めの海岸に立っていた真朱(まそお)は、まくっていた袖を下ろした。
光沢のある白い生地に、青と黒のラインがバランス良くプリントされているジャケットは、水族館の飼育員のようで、あまり好きにはなれない。
もちろん、真朱の仕事は飼育員ではない。
国際機関に所属していることを表す、左胸に刺繍されている旧地球と流れ星がデザインされたマークが身分の証拠だ。
真朱の着るジャケットには、波を表す紋様が組み合わされている。海に覆われた世界の中に潜む命を守る、環境保護機関のものだ。
真朱は風に当てられていた頬を軽く撫でた。ざらざらとした感触は潮と、不摂生を強いられる仕事のおかげで伸びてきた髭のせいだろう。早く顔を洗って髭を剃りたいと胸中でぼやきながら、眼前に迫るような近い空を見上げた。
背後には近代的な街並みと、土星の輪のように地球を一周する宇宙ステーションのおぼろげな曲線が広がっている。
宇宙ステーションから一直線に伸び、人工浮島を突き破って地底の岩盤へ突き刺さっている柱は軌道エレベーターだ。人工物だらけの殺風景な社会を象徴するような、無機質な表面に真朱は嘆息した。
この世界に生み出されてしまった、自然とは異なるもの。誇るべき技術の粋も、真朱からすれば異物でしかなかった。
しかし、そんな真朱の胸中ごと、人類が作り出した全ての人工物を嘲笑うかのように、目の前に広がる海原は恐ろしいほどに雄大だった。その存在感には、畏怖を覚えずにはいられない。
変革を通り過ぎた地球は、自然物に満たされ過ぎている。巨大な機械がいくら地球を取り囲もうと、海がその雄大さを失うことはないだろう。
真朱は喉の奥から迫り上がってくる不快感に唾を吐いて、柔らかい砂を踏みしめて歩き出す。
「ノート・リン・ドゥルーツォ・アルビレグム施設長、予定の時刻だ。行動を開始する」
少しクセのついた短い黒髪と、同化しているような黒いヘッドセットに付いているマイクを口元へと引き寄せて報告した。
すると、すぐに甲高い女の声が返ってくる。
『了解。こちらも微弱ではあるけど、脳波を感知しているわ。確かな座標はわからないけれど、おそらく目標は、その近くにいるようね。オルカ・オフショアの予言は大当たり。なにか、ご褒美を考えてあげなくちゃね!』
「反対はしないが、協力もしない。盛り上がるんなら、俺抜きでやってくれよ。俺ははやく仕事を終わらせて、きちんとしたベッドで眠りたいんだよ」
不機嫌たらたらに文句を言って、真朱は凝り固まった背中に手を当てて軽く伸びをする。
「車のシートは柔らかすぎて寝付きがわるい。最悪だ」
『堅ければ堅いで、文句を言うでしょうに! わがままね』
甲高い声が、耳全体を覆うヘッドフォンから叩き付けられる。
「声がでかい。鼓膜が破れたらどうする? 労災なんか出ないんだぞ」
『煩いわね』
文句は数回の咳払いでやり過ごされ、ノートは再び真面目な声になって話を続けた。
『波形からして、一週間前に打ち上げられたシロイルカの記録と同一のもののようね。恐らく、これは……』
「本体か?」
『ええ』
迷いのない肯定の返事に、うんざりと肩をすくめる。真朱はヘッドフォンをコツコツと指で叩きながら、半分が海に消えた太陽を睨み付け、苦々しく舌打ちをした。
「まったく、厄介だ」
『そう? 私は一週間前に擬体が打ち上げられてから、ずっとこの日を楽しみにしていたけれど?』
「不謹慎だな」
『貴方に言われたくないわよ。それよりも、目標の保護を急いで。連星政府の新造艦が完成したのは、あなたも知っているでしょう?」
「ああ、知ってる。新型の思念遮蔽システムを搭載した潜水艦だろ。名前は、確か……イサナだったか」
『高精神汚染深層域まで潜ることができるわ。制限時間付きではあるけど』
「俺のフリッパー並の高遮蔽率だな」
緩やかな水面をじっと見つめて、真朱は口笛を吹いた。
「まあ、二人乗りの小型艇と比べるようなものでもないか」
『ともかく。それを狙って、旧人類解放同盟の活動が過激になっているの』
「俺たちの目標も狙われているかもしれない、と?」
『可能性は、なきにしもあらず、よ。もちろん、機密情報の管理は徹底させているから、大丈夫と保証してあげられる。それでも、用心に越したことはないでしょ』
「備えあれば、憂いなし。備品には、おあつらえの面倒な仕事というわけか」
真朱は肩をすくめ、海岸線に立つ。寄せて返す波が、編み上げのブーツの表面を濡らす。耐水処理はされているが、濡れるのはあまり気持ちの良いものではない。
『反応が近くなったわ。真朱、もうすぐ現れるわよ!』
子供のようにはしゃぐノートに、真朱は苦笑を漏らす。
「わかっている。くそ寒いのに、二日前から、ここに張ってるんだ。お望み通りに、連れて帰ってやるさ」
緩やかな波のうねりの中に僅かな変化を見て取って、真朱は身構えた。
「なんだ? でかいぞ?」
海鳥のいない海岸に、雷鳴のような轟音が響き渡る。
波を押し上げ、弾き飛ばし、深い海の底から勢いよく迫り上がってきたのは、銀色が美しい、長方形の箱だった。
窓もなく、装飾もまったくない箱は、飛び出してきた勢いのまま一回転した。まるで、海上を跳ねるクジラのようだ。
橙色の太陽光を、のっペりとした表面に反射させながら、箱は柔らかい人工砂へと沈んでいった。
『どうしたの真朱! まさか、同盟の妨害に?』
「……そう興奮するなよ、慌てることはない。ついでに言えば、情報管理もしっかりしているようだな」
『どういう意味よ!』
「問題ないってことだよ。目標は予定通りに到着した……救命ポッドらしきものに乗ってな」
『なんですって!』
音割れするほどの甲高い声に、真朱はヘッドフォンを摘んで遠ざける。あまりの大声に、冗談ではなく本当に鼓膜が破れてしまいそうだ。
『本当に? 本当に、救命ポッドに乗って地上に現れたのね!』
「嘘を言って、舌を抜かれたくはないからな。誓って、見たままを報告する」
真朱は耳を擦りながら、大きな箱へと歩み寄った。
「小型の救命ポッドだ。救難信号および、生体反応も確認。窓がないから中を確認することはできないが、今日、この海岸に打ちあげられてくる予定の個体であることに間違いはないだろう」
自分の背丈ほどもある巨大な箱をまじまじと見つめた。箱の底についている、推進装置であろうスクリューがなければ、まるで棺のようだと真朱は思った。
材質を確かめるために、真朱は右手の手袋を剥ぎ取った。
右手は、ぞっとするように冷たくガラスのように滑らかな感触を捉えた。
打ち上げられたばかりとあって、まだ表面は、しっとりと濡れている。
沈みつつある夕日に雫が光る様子は美しかった。その中に人が入っていると知っていなければ、部屋に持って帰りたいくらいだ。
「救命ポットで打ち上げられるとは、珍しいな。まあいい、これから回収作業に入る。救命ポッドのまま移送するから、受け入れの準備をしておいてくれ」
『任せておいて』
真朱はポッドから離れて手袋をはめ直した。
タイヤのない車、地上すれすれを浮いて走行するエアカーに待機していた仲間へ、手を上げて合図を送る。
なにかと大がかりな作業を行う環境保護機関の公用車は、荷台にクレーンを搭載した大型車がほとんどだ。真朱が二日間ずっと寝台代わりにしていたエアカーも例に漏れない。前列に四人の大人が仲良く座れるほどの広さがある。
『慎重にね』
「了解。減給されちゃ、たまらないからな」
細かい砂を巻上げ、救命ポッドに横付けされたエアカーから、同環境保護官の屈強な男が降りてくる。その保護官に、真朱は作業を始めるようにと促した。
『眠り姫のご到着を、首を長くして待っているわ』
「期待を裏切られなきゃいいがね」
クレーンから伸ばされるワイヤーで手早く固定されてゆく救命ポッドを見つめながら、真朱は肩をすくめた。
気分が優れないのは、濃厚な潮の匂いに中てられているせいだろう。
漠然とした不安を押しのけ、真朱は眩い光を放つビル群を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます