青の住人
濱野 十子
第1話 還るところ 1
深い青が広がる海は様々な音に侵食され、緩やかなうねりと反比例して慌ただしく、ひどく賑やかだった。
海中を泳ぎまわるヒレを持った哺乳類、クジラやイルカたちの歌声は甲高く、重厚に何処までも広がっていく。幾億ともしれぬ魚たちの群れが蹴り上げる水音は、河のせせらぎを連想させる儚さを響かせていた。
それらの音に負けじと、急速な変化を続ける海底は燃えたぎる炎のような泡を吐き出し、獣の咆吼を思わせる唸り声を響かせていた。
地球が水の星と謳われた由縁でもある、かつて世界の約七十パーセントを占めていた母なる海は現在、全ての大陸を飲み込み、異常なまでの包容力を世界に誇示している。
言葉のとおり、水の星と化した、地球ならぬ“水球”の主な生活圏である海には、音だけではなく、様々なものが存在している。
かつて、大陸を我が物顔で支配していた人類が築きあげた、巨大な建造物の残骸も、その一つだ。
巨大な隕石の衝突から引き起こされた、世界規模の大地震による大陸破壊。
それに伴って、海底の地形も大幅に変化し、深い海の底に眠っていたメタン・ハイドレート層の不安定化により大気中に大量のメタンが放出され、地球温暖化は一気に加速し、大地を容赦なく灼いた。
世界。とりわけ人類社会は、再起不能なまでの打撃を被った。
輝かしい歴史は、温暖化が引き起こした超規模のハリケーンによって薙ぎ倒され、大津波によって無数の命と共に為す術もなく海に飲み込まれて、消えた。
深さを増した海に飲み込まれた過去の栄光のほとんどは、メタンを吐き出しながら移動を続ける海の底へと、今もなおゆっくりと喰われ続けている。それはまるで、傍若無人に振る舞っていた人類への見せしめのようでもある。
塵が積もり、柔らかそうな海底から突き出している、くすんだ橙色と白い鉄骨で組まれた尖塔も、そんな文明の憐れな墓標のひとつだ。
大災厄のときの衝撃により、所々が歪み、へこんでいる尖塔の表面には、グロテスクなフジツボが鱗のようにびっしりと張り付き、イソギンチャクが気怠げに揺れていた。
長い間に浸食されていった塗装はめくり上げられ、ごわついた錆さえ浮かんでいる。大気に触れ、日の光に照らされていたときの美しさは微塵も残ってはいなかった。
その尖塔……かつては東京タワーと呼ばれた遺物の周囲で、深い海の底からぼんやりと光るように浮きだつ、眩い閃光が翻る。
シロイルカだ。
クジラ目ハクジラ亜目イッカク科の、シロイルカ属に属する生物。クジラとイルカの境界は曖昧で、大きさを基準として分類されている。体長五メートルほどのシロイルカは、その名に反してクジラに分類される生き物だ。
ずんぐりと、丸みをおびた体躯には背びれがない。冷えた海水の中で過ごすために分厚くつくられた青白い皮膚は、濃い海の中では光り輝くように美しい。
他種族に比べて遙かに柔らかい脂肪層がつくりだす、絶えず微笑んでいるような愛らしい姿をしたシロイルカたちは、十二頭からなる群れを構成して騒々しい海を泳いでいた。
その群れの中の一頭、周りを取り囲む成体とは一回りほど小さい体躯のシロイルカであるカチは、群れから一人飛び出て、今さっき通り過ぎたばかりの、固着生物の巣となり果てた東京タワーの周囲をぐるりと回った。
カチは、頭部のほぼ中央にある、丸くこぶのように突き出た脂肪組織メロンから、海のカナリアとも呼ばれる、自慢の美しい高音の声を仲間たちに向かって響かせた。
黙々と先を急ぐ仲間たちは、うねる海水を掻き分けて伝わるカチの声に泳ぎを止めた。同じように額から声を震わせ、否と応える。
若いゆえに好奇心が強いカチとは違い、大人の分別を持つシロイルカたちは、本能に書き込まれた旅を続けるほうが重要らしい。
カチは不満げに下顎を突き出して、首を左右に振った。自然物で形作られた景色の中に忽然と存在する異物は、長い旅に飽きてしまっていた気持ちを引きつけてやまない。
もっと見ていたいと、更にカチは東京タワーの周囲を泳ぎ回った。だが、大人たちは子供心のぬけない行動を馬鹿にするように、無視して泳ぎ始めてしまった。
霧に飲まれるように徐々に消えてゆく群れの姿に、カチはうろたえた。はぐれてしまってはたまらないと、尾びれで海水を蹴る。
それでも名残惜しさを消しきれないカチは、小さな黒い瞳で、頂上の針だけが真っ直ぐと突き立つ東京タワーを見下ろし、動きを止めた。こぽっと小さな音を立てて背中から空気が零れる。
海底をじっと見つめるカチの表情は相変わらず微笑んではいる。だが、漆黒の瞳には、僅かに警戒の色が見て取れた。
カチは気づいたのだ。深いばかりの海の底にひっそりと潜むものを……もしくは、この海に満ちる確かな意志か。
仲間たちの姿が完全に見えなくなっても、動くことができないカチの顔に、白く濁った泡が飛び込んでくる。
一つ二つと、滞留する塵を吹き飛ばして海面へと昇ってゆく泡は、呆然としている間にもどんどん勢いを増していく。カチが危険を感じたときには、既に身動きすら恐ろしいほどの量に囲まれてしまっていた。
カチは泡から逃れようと必死になって胸びれと尾びれをばたつかせた。だが、全ては、もう遅い。
吹き上がる白い泡は、それ自体が意志を持つようだった。逃れようとくねるカチの体を瞬く間に拘束していったのだ。
ずるりと、ものを引きずるような地響きが海水を震わせた。
はっとなって、カチは額から音波を放ち、周囲の状況を探る。下、つまり今の今まで塵の積もっていた場所に大きな空洞が形成されているのが感知できた。
泡に絡め取られながら、カチはぞっとした。自身の体の何倍もあるような東京タワーが丸ごとなくなってしまっているのだ。
ただならぬ恐怖を感じ、カチは仲間たちに助けを求めようと更に声を響かせた。だが反応は全くない。聞こえてくるのは、沸きだつような泡の音ばかりだった。
そうしている間にも、止まることを知らない無数の白い泡は海面へと伸びる柱となった。海水を浸食し、浮力を消去していく。
そうなれば当然、カチはなすすべもなく――悲鳴すらも上げることもできずに深い海の底へと引きずり込まれた。
いや、むしろ“落下していった”と表現すべきなのかもしれない。
東京タワーが埋没したことでうまれた大穴へとさらに落ちていったカチは、黒く濁る水底へと勢いよく引きずり込まれていく。
揺らぐ海面から射し込んでくる太陽光が急速に遠くなり、世界を満たす音さえも掠れ、何もかもが分からなくなってしまう。
ようやく落下が落ち着いたころ、辺りは漆黒に閉ざされていた。とはいえ、もともと視力を頼りにしてないカチには関係がない。
必死になって平静を保ちながら、帰路を探るべく、広い海の中に音波を投げ込む。
いくら海洋生物であるとはいえ、肺呼吸をしている以上は息継ぎが必要だ。
体中の血に溜め込んだ酸素が無くなってしまえば、海を自由に泳ぐシロイルカとはいえ、溺死してしまうだろう。
『……百十一番ポット、システム解除準備中』
深い海の底。崩れ落ちた岩の重たい震動が響く中で、カチは聞いた記憶のない音を感じ取っていた。
それと同時に、放った音の反響の具合で、周囲は洞窟状になっているのがわかった。堅い岩盤で囲まれているようだ。これ以上、崩れることは無いだろう。
カチはとりあえずほっとして、まるでクジラの腹の中のような巨大で閉鎖的なこの空間に、大きな建造物があるのに気づいた。
不可思議な声は、洞窟の半分を満たすほどの建造物の中から響いているようだった。
今まで遭遇した記憶がないほどの存在感に、カチは戸惑いを覚えた。生物でないという事実だけは理解できた。しかし、それ以外のことは、なにもわからない。
『覚醒シークエンス終了』
無感情に響く声に引き寄せられるように、カチは恐怖心を忘れて巨大な……ドーム型の建造物へと近寄っていった。
『おはようございます』
カチの体よりもなお白い壁に分厚い唇の先をつけたのと同時、タイミングを見計らったように投げかけられる音にカチは全身を流れる血に火が灯るような熱を感じた。
まったく聞いたことのない音。それなのに、知っているような錯覚。そう、これは「声」だとカチは思った。覚醒を促す優しい言葉だ、と。
『お目覚めはいかがでしょう? 体調に変わりはないでしょうか。この旅が、あなたの心の癒しになれば幸いです。またのご利用をお待ちしております』
がたん。と、何かが動いた。
閉ざされた海水の中を振動して広がる音が自分の中から響いていることに気づき、カチは悲鳴を上げた。
小さな心臓が激しく脈打ち、長時間の潜水に耐えられるように蓄えられていた酸素が、遂に消失した。
急速に掠れてゆく意識の中で、状況を一切無視した儀礼的な機械音声が告げる。
『それでは、行ってらっしゃいませ。あなたの、世界へ』
消えてゆく意識の中でカチは、祝福と思われる言葉をぼんやりと聞いていた。
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