第4話 還るところ4

(――水の匂いがする)

 何処も同じ作りの通路を走り、カチは鼻孔をくすぐる懐かしい匂いを感じた。気が動転していたことで忘れていた渇きを思い出し、喉が鳴る。

 あまり広くない通路を進み、カチは青い扉の前で立ち止まった。強い、水の匂いは、ここから流れ出ているようだ。

「ここに、いるの?」

 カチには、どうやって先へ進めばいいのかわからない。

 とりあえずカチは、青い扉を右手で触れてみた。足の裏から感じているものと同じ、堅く冷たく、滑らかな感触。

 岩や海底とは相反する無機質さは、気持ちが悪い。

青い扉を睨んでいたカチは、唐突に響く電子音に、驚いて飛び上がった。

 呆然と見開いた目の前で、扉が左右に割れた。奥から、白衣を着た二人組の男が現れる。

「保護管理局のアンピトリテが逃げ出したってねぇ。何をやっているんだか」

「久方ぶりの、使える貴重なサンプルなんだ。もっとしっかり管理してもらわなければ困るな。擬体のほうが駄目になったぶん、なおさら……」

 ノートと同じ、赤い目に金色の瞳を持った二人の男とカチの視線が重なった。

「あ、アンピトリテ? どうして、ここに!」

 しばらく呆然と見つめ合う。先に沈黙を破ったのは二人の内、背が低く太っている男のほうだった。

「ばか、なにをやってる! 捕まえるんだよ!」

 カチは、響く怒声に我を取り戻した。怯え竦む体を無理矢理どうにか動かして、後ずさる。しかし、数歩と歩く間もなく壁に背があたり、すぐに追い詰められてしまった。

 裾の長い白衣を着ているせいなのだろう。妙に細く見える長身の男が、覆い被さるようにカチへと近づいて来るのを、震えながら見ていることしかできない。

「いっ、嫌。来ないでください!」

「おやおや、君は言葉を喋れるんだねぇ。どおりでノート・リン施設長が異様に、はしゃいでいたわけだ」

 太った男は陶酔するような口調で言った。両手でバインダーを抱きしめ、分厚い眼鏡の向こうにある小さな目を細めている。

「こりゃあ、真朱の野郎に欺されたな。素直に擬体を研究調査局に回してきたのは、特異なアンピリトテを囲うためだったのかね」

「ありえるねぇ。しかし、まったくもって腹立たしいことだよね。特例で処分を免れているだけの存在なのに、大きな顔をしてさぁ」

 太った男はつぶらな瞳で、ねっとりと嘗め回すように、怯えるカチの頭から爪先までを観察し始める。

 生理的な嫌悪感を覚え、剥き出しの白い肌に鳥肌が立った。

「ねえねえ。ちょうどいいから、僕達のラボに連れて行こうよ」

「越権行為だぞ」

「バレなきゃ良いんだよ。施設は広いから、どうにだってなるさ」

「見た目によらず、大胆だな。バレたら、クビどころの話じゃないぞ」

 含み笑いを隠そうともせず、太った男は分厚い唇を吊り上げた。

「だから、バレなきゃいいんだよ」

「まったく」

 長身の男は渋ってはみせるものの、だからといって止める気はないようだった。いや、むしろ向けられる琥珀の目は、肯定を示しているように思える。

 カチは身に迫る危機に震え、どうにかして逃れる術はないかと視線を泳がせた。

(あれ……は……?)

 照明が絞られた薄暗い室内に、なにか、ぼんやりと光るものが置かれていることに気づいた。

 ――見てはいけない。

 防衛本能が警鐘を鳴らす。だが、気づいてしまったものは、どうにもできない。カチは唇を噛みしめ、長身の男の陰から覗くようにして、部屋を見た。

「――!」

 引きつった悲鳴が喉から迫り上がる。強張った体は更に引きつり、膝が震えた。

 銀色の台に乗せられた、ガラスケースに押し込められている、とても大きな物体。もはや原型を止めてはいないが、カチは「それ」が何であるのか、分かった。

 ……分かってしまったのだ。

「あれ……あれは……」

 恐ろしかった。ただ、ひたすらカチは恐怖し、震えた。

「あれ? ああ、まだなにも聞いてないのか。あれは君の――」

「何をやってる、お前ら!」

 割り込んでくる怒声に、太った男のたるんだ頬の皮が波打って震えた。

「真朱!」

 良く磨かれた床にブーツの踵を勢いよく叩きつけ、怒気を露わに駆けてきたのは真朱だった。

 長身の男の注意が逸れた隙を突き、カチはワンピースの裾を翻して、通路の更に奥へと向かって逃げた。

(嫌だ……嫌だ! もう、嫌!)

 目尻に痛みを感じ、カチは泣いていることを自覚する。

(帰りたい、海に。群れのところに帰りたい!)

ガラスケースに放置された、かつてシロイルカだった青白い存在。

 胸をざわつかせる恐怖が、カチを走らせる。

「待て! 興奮しているのはわかる。だが、落ち着け!」

 振り向けば、唖然としている白衣の男たちを押しのけ、真朱が追いかけてきていた。

 生まれて初めて歩いたと言っても過言ではない、おぼつかない足取りのカチには、どう甘く見ても勝算はないだろう。

「我々は……いや、少なくとも俺は、お前に危害を加えることはしない。絶対にだ!」

「来ないで、来ないでくださいっ!」

 揺らいだ空間が生み出す、目に見えない強大な波が、カチの叫びと共に真朱へと襲いかかった。均整の取れた力強い細身の体を、軽々と吹き飛ばす。

「私は、海に帰るんです!」

 真朱は頭から床に叩きつけられ、悲鳴もなくころがってゆく。

 そんな真朱を気にする余裕も一切なく、カチは必死になって駆ける。

 何処に行けば良いのか、あてなどまったくない。しかし、走らずにはいられなかった。

「帰して、私を……海に!」

 瞳から流れ出した涙が口に入った。郷愁を抉り出すような塩辛さにカチは咽びながら、眼前に迫る壁に愕然とした。

「進めない!」

 息を切らし、足を止める。どっと押し寄せてくる疲労感に喘ぎながら、カチは壁へと手を伸ばした。

『こっちへくるといい、カチ。始めよう』

「誰?」

 脳裏に響いてくる声に、カチの肩が震える。

 ――チン。

 妙に拍子抜けする、軽薄なベル音が鳴った。

 それと同時に、目の前に立ちはだかっていた壁が左右に割れ、小さな空間がカチの前に現れる。

「待てと言っているだろうが!」

 追ってくる真朱の怒声にカチは追い立てられ、エレベーターのゴンドラへと飛び込んだ。

 扉が締まり、ゴンドラが動き出す。

 不意に襲いかかってくる奇妙な浮遊感にバランスを崩したカチは、床に座り込んでしまった。そのまま動くこともできず、扉の上の光るパネルを見上げる。

「どこに……向かっているの?」

 床に押し潰されそうな圧迫感に両手をついて耐えながら、密閉されたゴンドラの内部を浮ついた目で見回すも、不安を解消できるようなものは、何一つない。閉じこめられていた部屋と同じような壁があるばかりだ。

 がくんとゴンドラが揺れ、小さなベル音が鳴った。

 反射的に顔を持ち上げれば、カチの動きに合わせたように、さっと扉が開いた。

 停止したままのゴンドラの中でゆっくりと立ち上がり、カチはちりちりと痛む腫れぼったい目尻を擦る。

「ここは……海?」

 鼻腔をくすぐる潮の匂い。カチはエレベーターを降りた。潮の香りが強くなる。

 辿り着いた階は、部屋というよりは、通路と言ったが良いのかもしれない。

 中央が吹き抜けになっていて、四方から下を眺められるようになっている。カチは鼻腔をくすぐる匂いに惹かれるまま、落下防止の手すりに向かって歩いていった。

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