第29話

 耳元の声は少し息の荒い友紀だった。あれからどれほど時間が経ったのだろう。どれくらいの時間をこの場でへたりこんでいたのだろう。


「大丈夫……、悪かった、先に、帰って」


 トイレをなんとか流しながら息も絶え絶えに、ボクはなんとか文面に起こしたかった言葉を伝える。そこでようやく吐きすぎて喉が掠れていることに気付いた。母さんがトイレで寝た次の日のような声だ。


「すぐ追いかけたんだけど見失っちゃってさ。今家だよね? 多分近くにいるっぽいんだけど、とりあえず住所言えそう?」


「住所、えと、」


 友紀に促されるまま住所を伝えると、すぐにインターホンが耳元と家の中で鳴った。壁伝いに玄関へ向かい、ぐちゃぐちゃの顔のまま扉を開けると、汗だくの友紀がそこに立っていた。ギターを背負ったまま、ボクを追いかけてきたというのか……?


「よかった、マンション合ってた……。ごめん、急に押しかけて。家の人、大丈夫?」


 耳元と生の声が交差する。友紀が電話を切ると、無機質な電子音が耳元で響いた。随分と冷静さが戻ってきたボクは、それでも目の前にいる友紀の存在が信じられなかった。


「なんで、え?」


「小泉クン、まじで陸上とかしてないの? 走るの早すぎてほんっとーに疲れた……。急に倒れたと思ったらダッシュで帰るとか、皆心配してたよ?」


「ん、ごめん……」


「とりあえず平気そうでよかった、かな?」


 玄関先でへらりと笑う友紀を、とりあえず中へ招き入れた。夏真っ盛りの今。駅からここまで無意識化で走ってきたわけでもなく、ボクを追いかけてきてくれた友紀を帰す勇気はなかった。

 リビングに通し、ボクは洗面台へ直行する。生ぬるい水道水で顔を洗って口をゆすぐと、頭の中も一緒にすっきりとし、それでいてまた罪悪感に苛まれた。

 部屋に戻ると友紀はきょろきょろとリビング周りで辺りを見渡していた。エアコンのスイッチを入れて、キッチンへ入る。


「ごめん、適当に座って。今お茶出すから」


「いやいや、お構いなく。なんか小泉クン家って感じするよね、リビングにも本棚あるんだ」


 ギターをダイニングテーブルに立てかけると、ボクの席に座った。ボクは作り置きされている麦茶を差し出す。ボクも母さんの席に座り、モーター音だけがリビングに響く。


「葵チャン、かなり反省してたよ」


「いや、あれはボクが悪い。あんなことで動揺するなんて思わなかったんだ。きっと怖かったと思う。目元であんな、手が飛んでくるなんて」


「あの眼鏡になんかあんの?」


 真っ黒な友紀の目がボクを覗く。友紀は普通だ。ボクが過剰なだけなんだ。涼が言っていたように、ボクの目が少し違うからってそれを否定するような連中ではないと頭ではわかっているのに、それをボクの心がまだ容認できていないのだ。


「ちょっと、いろいろ」


「ふぅん……。色?」


「涼といい友紀といい、よく気付くよな」


 お茶を口に含み、飲み下した友紀はグラスと机に置くと、かなり真剣な表情で口を開いた。


「最初から気付いてたよ。多分メンバー皆も、葵チャンも」


 涼が気付いていたのは、涼が鋭いからだと思っていた。それでも確かにあんなもので完璧に誤魔化せているのなら、ボクはきっとずっと前なんて見えていない。

 少なくとも高校に入ってからは、確かに何も言われなくなった。からかわれないし、揶揄されることもない。一人だけの世界に逃げていたのは、他でもないボクだった。


「聞かないのか?」


「何を?」


 ボクは一口も口を付けず、水滴が濡らす机を凝視しつつもちらりと友紀を盗み見ると、薄く口元に微笑みを浮かべた。


「ああなった理由」


「なにがあったのかしらないけど、あそこまで取り乱すほどいろいろあったんでしょ? 十七年間も生きてたらそりゃいろいろあるじゃん。俺だっていろいろあったからバンドしてるわけなんだし。別に何があったなんて無理に話さなくていいけどさ。葵チャンには連絡しておいてあげなよ。じゃ、無事も確認したし帰るかな」


 空になったグラスを置いた。ここで帰せば、きっと後悔する。なんの根拠もないものだけれど、ここで帰してしまえばボクはきっとまた一人の世界に逆戻りしてしまうような、そんな漠然とした直感がよぎった。


「ちょ、ちょっと待って」


 急いで席を立ち、机の脚に足をぶつける。大きな音が響き、強打した腿をさする。それを見た友紀はぷ、と吹き出して大笑いを響かせる。


「ぃってぇ……」


 髪の隙間から友紀が腹を抱えている様子がくっきりと見える。


「はははっ! 何してんの小泉クン! あっはははは!」


 別れが惜しくて、今こうしている時間がもっとあればと思うほど、この気持ちが寂しさだと自覚せざるを得なかった。ボクにもこの感情を持つときが来るなんて。

 抱いた直感は、この寂しさに気付かないまま勝手に気まずさを感じて、一人に戻っていくことを予感したというのだろうか。それほどこの色づいた世界に、もう未練ができたということなのだろうか。


 しばらくして落ち着いてきた友紀は目元を拭いながら、何? と改めて聞いた。ボクはその問いにパソコンのセットアップがわからないと適当な理由をつけた。

 にぃっと笑った友紀は、一応家に連絡しておくとスマホをいじり、ボクは新しい麦茶を注ぐ。そのまま部屋へ案内し、一応モニターとキーボード、マウスだけを取り出して机の上に放置されている状態のパソコンを見て、これは大変だなぁとギターを机に立てかけた。

 勝手にいじっていいとは言ったものの、手慣れた様子で配線をいじくりまわしてやっと電源を入れる。付属品のマウスとキーボードを使って初期設定をこなしていく。


「ここネット通ってるの?」


「工事はまだ。確か二週間後? だったかな」


「じゃあまた設定に来るよ。どうせわかんないでしょ」


「家にパソコンが導入されたの、初めてだからな。ボクじゃ何が何やら」


「そりゃいいね」


 友紀はデスクチェアに座り、パソコンを凝視していた。どんどん設定されていくパソコンの画面を眺める。何が設定されているのかさっぱりだけど、こうして眺めているのも悪くない。いうなれば完成されていくパズルを見る感覚だった。

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