(三)
「ただいまー」と久雅堂は店に入ると口にした。
誰か待つ人間がいるわけではないのだが、とりあえず習慣のようなものであるから言ってみただけである。
パチパチと電器、空調のスイッチを入れると、ゔーんと音が耳に響いた。
久雅堂は入り口の鍵を閉めると、似合いもしないネクタイを緩めながら、トレーニングルームに入る。
そして端にぶら下げてあるウォーターバックの前に立ち、深呼吸する。
ウォーターバックはこの店を開く時、トレーニングルームを作ることを知人の空手家に言ったらもらえたもので、結構古い。それでもちょっと使用する分には問題なく、久雅堂はたまにこれを叩いたり蹴ったりしていた。主にストレスなどが溜まっている時に。
しゅるっとほどいたネクタイを首から外し、マットの上に投げ捨てる。
そしてパンチ、蹴りと繰り出した。コンビネーションとも言えない、適当に、単発に出した突き蹴りを繋げているだけの、お粗末なものだ。それでも80キロを超える重量級の打撃はウォーターバックをどすどすと音を立て、激しく揺らす。
……それが十数秒ほど続き。
やがて。
飽きたのか疲れたのか、久雅堂は一連の動作を終えると、そのままその場に座り込んだ。
「どうしたものかねえ……」
そう、ぼやくにように口にした。
ようにではなかった。
それはただのぼやきだった。
◆ ◆ ◆
『すまないが、試合にでてくれないか』
とA先生は、鵜堂との会見の後、喫茶店に久雅堂を連れて入り、そして言ってから頭を下げた。
『…………意外ですね』
はいともいいえとも言わず、久雅堂はまずそう言った。心底からの言葉でもあった。
A先生が、この手の格闘技興行に対していい感情をもっていないことは薄々察していた。
久雅堂は空気が読めない男であるが、洞察力は人並みにある。
ちょくちょく雑談もするし、食事にもいく仲である。
A先生がどういう考えを持っているのか、ある程度は知ってはいた。
『あまりうちの内々の事情を知らせるつもりはなかったんだが、最近道場の経営が少し芳しくなくてね』
『あー……』
なんとなく、そんな気はしていた。
A先生の道場の衰退は、まず主力選手とも言える十代、二十代の所属選手が相次いで進学、就職などであまりこなくなってしまったところから始まる。
元々A先生は日拳の選手としてそれなりに知られた存在であり、近隣の大学高校の部活動でコーチなどに招かれ、そういう縁で道場にはその部の生徒たちが通うことになり――という経緯で門下生を増やしてきた。
しかし昨今の少子化、他の格闘技団体の進出などを受け、日拳道場は相対的に人気が下がり、部活は日拳でも通うのは総合格闘技だったり、柔術というような生徒が増えた。
それでも最近まで目に見えた衰退はなかったのは、主力の選手たちがここ十年は高い戦績を確保し続けていたからだ。
強い選手がいる道場には、自然と生徒たちが集まる。
遠方からの出稽古の者も結構きていた。
それが。
ここ数年で、現在主力選手たちが相次いで就職、卒業をしてこなくなってしまったのである。
(まだあの子らの就職先が県内だったら、よかったんだけど)
久雅堂も一応はA先生の道場で習い、指導する身である。そのあたりの事情は漏れ伝わっていた。
就職するにしても進学するにしても、毎年ほとんどの人間が県内に留まるものであるのだが、ここ数年はどういうわけか県外にいってしまった。そして悪いことが重なり、A先生が指導しにいった部の戦績も振るわなくなった。
これについては古流柔術にかまけるようになったからだという指摘もあったが、A先生はたまに日拳のあとで顔だすくらいである。それに柔術の指導もさして体力を使わない。むしろ元からあった余暇の一部を柔術に使っているようなもので、日拳関連でのクオリティをさげるようなものではなかった。
(あの子らがこなくなったから、成績が落ちたんだろうな)
優秀な選手、コーチが揃っていると必然と優秀な人物があつまり、そこの道場のレーベルが上がっていく――そういう好循環が、途切れてしまったのだろう。
久雅堂は空気が読めない男であるけれど、主力選手が揃っていた頃と今とでは、なんとなく雰囲気が変わったというのは実感としてあった。
まだ、今はいい。
かつての主力たちは、足は遠ざかったとは言っても道場との繋がりはあるし、彼らの後輩たちが入ってくるだろう。
このサイクルはまだ継続するだろうし、すぐにどうにかなるものでもない。
だが、遠からずその循環も途切れるだろうことは、少子化も進む現状を考えれば間違いないことだった。
(それを考えれば、鵜堂さんからの支援はできるだけ継続させたいんだろうなあ)
とはいえ、すぐに返答できることではなく、久雅堂は「一度持ち帰らせてください」とだけ言ってから、一両日中に必ず返答する約束をして帰宅したわけである。
◆ ◆ ◆
「どうしたものかねえ……」
久雅堂は何度も何度もぼやいた。
試合にでなければいけない理由は、ない。
久雅堂はA先生の同門の先輩後輩で、柔術の形の解説などを受けている立場であるが、師弟関係というのも少し違う。強いて言えば日本拳法の指導を多少受けているのではあるが、これだって基本的な動作を最初に習ってからは、たまにA先生の道場に着て稽古に参加するだけの関係でしかない。
肝心の、古流柔術の形の伝授とその解説は最初の数回でほぼ終わってもいるし、極端な話、今から関係を絶っても別に差し支えはないのだ。
しかし、人間関係というのはそういうものではない。
久雅堂は空気が読めない人間ではあったが、己の一時の気分だけでお世話になった相手との関係を断ち切れるような、そこまでドライな人間ではなかった。
A先生が困っているというのは、ちょっと話しただけでも伝わってきてもいた。
空気が読めない久雅堂にも、解った。
今すぐに道場がどうにかなるものではないし、鵜堂だって試合の打診を断ったところで、そう軽々と関係が悪化いるようなこともしないだろう。
ただ、この先どうなるか解らない。
この先のことを考えると、A先生としても鵜堂との関係を維持したいし、できるのならこの試合に出て、より関係を緊密にして、より多くの支援をもらいたいと思っている。
試合に門下生を出せるのなら、そうしただろう。
実際、A先生も久雅堂に話をする前にそう提案したのだという。
『どうしても君に出てほしいと、先方からの要望で……』
(どういう風に興味を持たれたんだか)
久雅堂はしばし考えたが、材料があまりに少なすぎて何も解らなかった。
よく考えなくとも、鵜堂のことなどろくに知らない。
単純に、自分の呼んだ選手を追い詰めた?古流柔術の使い手?……という存在に興味を持ったという、その程度のことかもしれないし。
そもそもからして、深く考える必要だってないことだろう。
決断するのは自分なのだ。
久雅堂は考える。
試合することによるメリットは、何があるのか。
今まで何かの地方ローカルの大会に出たりすることはあったが、地下格闘で戦うのは初めてだ。相手は何戦しているのか知らないが、歴戦の使い手だというからには、多分、勝てないだろう。しかも、使う格闘技が八極拳。中国拳法の神秘を今更信じているわけではないが、ロマンは多少なりとも残っている。地下格闘にでてきて、勝っているからには、生半な使い手ではありえない。
勝てるイメージが湧いてこない。
そもそもからして、八極拳で戦うイメージというのが、うまくまとまらない。
もしかしたら、ただ負けるだけならまだしも、大ダメージを受けて障害が残ってしまうかもしれない。
それは格闘技の試合なら、柔道だろうと空手だろうとつきものではあるのだが……。
(いかんな。メリットが何も浮かばない)
久雅堂は突然に舞い込んだこの話を、できるだけ前向きに考えるようにしていた。
A先生の事情を考えるのならば、引き受ける一択しかないというのもある。
しかし気が乗らない。
どうしても嫌なら仕方ない、というような逃げ道を残されているのが、余計にしんどくもあった。
「ああ、面倒くさい面倒くさい面倒くさい……」
ぼやく。
ぼやきながら立ち上がり、再びウォーターバックを殴り。
蹴る。
無茶苦茶に。
デタラメに叩く。
……一分ほど続けた後で、大きくため息を吐く。
「仕方ないよなあ……」
受けるメリットは、何も浮かばない。やって勝てるイメージも全然わかない。
しかし、引き受けないでいられるほど、薄情でもいられない。
久雅堂は、格闘家としてはとても半端な人間である。気ままに稽古して、自分の参加できる試合に、無理なく参加して、ほどほどに頑張って勝ったり負けたりしていた。何か目標があって、それに向けて頑張っているというわけではない。先日のPとのガチスパーだって、成り行きのままに戦ったまでだ。
だから、こんな舞台をいきなり用意され、しがらみの絡みついたままに戦うというのが、どうにもしんどくて仕方がない。
他人のために戦うなんて、とても面倒くさい。
突き詰めれば、そういうことではあるが。
久雅堂は、ぽすんと、今度は左掌を突き出し、ゆったりと体重を預け。
「やるかあ………」
盛大な溜息と共に、そう決断したのだった。
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