(二)
「おまたせしました」
鵜堂は急な用事が入って遅れたのであるが、そのことをまず最初に侘びた。
遅れたといってもせいぜい数分のことであったが、その後で色々と社交辞令などのやりとりがあったが、やけに丁寧だなあと久雅堂は思った。
久雅堂は客商売を一応しているので、いろんな人に会ったことがあるが、元柔道家で投資家で建設会社の所長という事前情報から伝わる鵜堂のイメージと違い、随分と腰の低い人だという第一印象を持った。社会的な地位がある人には、人当たりがやけによくて話しやすい場合も多々ある……というようなことは、ある程度の年齢になれば解ることであるが、そこまで彼には経験があるわけではない。
ただ、隣りに座るA先生の恐縮ぶりからみるに、人当たりがいいからって気安く応じるのもよくないな、くらいには空気を読んだ。
久雅堂にしては、まだ頭が回った方である。
そうして最初のやりとりが終わった後で、鵜堂はから「先日の試合動画を見ました」と切り出された。
「試合?」
久雅堂は一瞬、意味が解らず、A先生と顔を見合わせたが、A先生の方は少し渋い顔をしていた。何かしら心当たりがあるらしい。
「あのP選手相手に、よく対応されてましたね」
「ああ、あのスパーの動画ですか」
あくまもでスパーということに久雅堂の中では処理されていたので、試合などと呼ばれるとぴんとこなかった。
あれを見られていたのか――ということは、久雅堂的には別に困るようなことではなかった。配信された分は確認したが、久雅堂が道場の壁に向かってPを投げ、そこに追い打ちをかけようとあるき出したあたりで止まっている。彼のマイナスイメージにはならない。多分。あの後で数人がかりで止められ、すぐに「じゃあここまでにしますか」と矛を収めたのであるが。
ちなみに、Pもたいしたダメージはなかった。
「ちょっと変則なものになりましたけど、まあ普通にスパーですよ。交流試合?みたいな」
「いやいや、総合の選手相手に、あれだけやれるというのはたいしたものですよ」
「ありがとうございます。しかし体重差もありましたし……総合の経験はありますけども、A先生には柔術以外にも、日本拳法のご指導もいただいてますから……」
もっとも久雅堂は、日拳の試合には出たことはない。
基本的に、久雅堂がやり込んでいるのは柔道、次にボクシングと剣道である。その中で、試合をよくやってるのは剣道と柔道で、ボクシングは階級の問題もあって、スパーしかしたことがなかった。空手も同様である。こちらは少しは試合に出たりもしたが。
鵜堂はそういう久雅堂の事情を「ふむふむ」という感じに相槌を打ちつつ聞いていたが。
「実は、頼みたいことがあるんですよ」
と切り出した。
久雅堂は気軽に
「なんでしょう」
と言ったが。
「来週の試合に出てほしい」
そう言われた時は「え」とリアルに声をだしてしまった。
A先生は渋い顔を、さらに額の皺をキツくさせていた。
◆ ◆ ◆
久雅堂は鵜堂が主催している『ファイティング・クランプ』のことを、一応は知っていた。
同じ市内で行われている格闘技の大会である。具体的なことはあまり知らなかったが、いろんな格闘技や武道の道場に通っていると自然に耳に入る。
「いきなりで驚かれているでしょうから、改めて説明しますと」
読者諸兄はすでにご存知のことであるが、鵜堂が運営する『ファイティング・クランプ』は、インディーズな格闘技の興行団体である。世間的には、そういうのは「地下格闘技」と言われている。すでに語ったことではあるが、昔の漫画のようにアンダーグランドとは関係がない。『地下アイドル』の「地下」と同様のニュアンスで使われていると思って、そう間違いはない。
この興行は、鵜堂の運営する商売の中ではさほど規模は大きなものではない。
使い道など特に考えずに市内の廃工場を土地ごと購入した際、残った工場が思っていたよりも風情があったので、そのまま残そうと考え――そして、ここで格闘技興行などをするということを思いついたのである。
格闘技だったのは、鵜堂が市内の武道、格闘技の団体、個人に対して支援をしていたことの延長であったが、だからと言って、支援を受けている者がこぞって参加したかといえばそういうこともなかった。
たいがいの競技者は自分の専門にしている競技の大会に出るものであって、異種格闘技興行など好んでするものでもない。
異種格闘をして最強を証明するとかいうのは、それこそ昔の漫画の話である。
鵜堂もどういういう理由があってこの『ファイティング・クランプ』を開催することにしたのか、その本当のところは解らない。
最初に開催された時は、彼が支援していた柔術団体のコーチをしていた選手と、隣県の出身の総合格闘家との試合などが行われた。
試合はほどほどに盛り上がり、興行はとりあえず赤字にはならず、まず成功といってもよいものとなった。
だからといって、続けて二回、三回と頻繁に行われたわけではない。
まず、出場選手を確保するのが難しかったというのがあった。
勿論、レベルを問わず集めれば問題なかっただろうが、最初に出た選手たちがなまじにレベルが高い柔術家だったりしたものだから、あんまり色物めいた選手を出すわけにもいかなくなっていた。
……運営側が、勝手に自分たちのハードルを上げただけであるが。
特段に目が超えた観客が集まるわけでもないのだし、イベントステージとして使用している場所なのだから、無理に格闘技の大会を開けなくたって別にいいわけで……。
そのあたりの塩梅を、運営側がわかっていなかった。
先述したが、鵜堂が支援している団体で、積極的にこの手のイベントに参加してくれたところはほとんどなかった。アマチュアのSTの大会などに出場歴があるようなブラジリアン柔術、総合格闘技の選手などは参加してくれていたが、それほど多くいたわけでもない。
結果として、招待選手が多めになってしまったのは必然だっただろう。
近隣の地下格闘に打診などして選手を募り、なんだかんだと三回、四回と『ファイティング・クランプ』は行われた。
五回目も、六回目もあった。
それなりに盛況ではあったが、どんどん地元の団体とは関係が疎遠になっている感触はあって、それではいけないと思ったらしい。
支援している団体であるA先生や、他に合気柔術の団体に所属する人間にも声をかけたりするようになった。もっとも、このあたりには鵜堂はあまり関与していない。あくまでも運営スタッフの行動である。それで出場する選手が実際に増えたわけではないが……。
そうこうするうちに、記念べき十回目で、Pが招待され、そうして直前の配信で失態を見せてしまったのだった。
「細かいルールはこちらにまとめてありますが」
「あ、はい」
鵜堂に差し出されて、つい久雅堂は受け取ってしまったが、どう答えたものかと考えあぐねていた。
事情はとりあえず解った。
Pのやらかしはさておいて、そのPと互角以上に見えた久雅堂に試合の代理を頼むというのは自然な流れではあるように思う。
しかしそれにしたって、来週というのはいくらなんでも早すぎる。
調整なんてろくにできたものではない。
そもそもからして、Pを相手にしての戦いは体重差があってこそのものであると久雅堂は考えている。
20キロもの体重差があって、互いに打撃の攻防ができるのならば、あとは重い方が有利になるのが道理で、そういうのを考えずにああいう真似をしてきたPが迂闊すぎるのだ。
久雅堂はこの時点で、Pがあちこちの伝統武術の人間をからかう動画などを配信している人間だということは、知らない。
Pはいつものように振る舞ってて問題ないと思っていたが、久雅堂のような普通に格闘技経験がある古武道経験者はままいるわけで、いろんな意味で運が良かったといえるだろう。
とまあ、そのあたりの事情はさておいて、とにかくあまりにも急すぎるということは久雅堂も思った。考えを変えてくれないものかと交渉したが、鵜堂は「いやあ、他にあてもなくてね」とやんわりと、しかしまったく意見を変える気配を見せなかった。
「別に勝たなくてもいいわけですよ」
あくまでもイベントであり、エキシビションマッチのようなものだから――
「無理をいうわけですから、こちらからも些少ですがファイトマネーは出しますよ」
「そう言われましても……」
久雅堂はどうしたものかと思ってA先生を見たが、渋い顔をして黙り込んでしまっていた。
(どうしたんだろう?)
と思ったが、ここでそれを聞かない程度には、久雅堂だって空気は読める。
「とりあえず、いますぐには答えられないので、一度持ち帰ってもよろしいですか?」
と無難にいったが、鵜堂は喜色を満面に浮かべながら「期日的に2日以内に返事がいただけると嬉しい」と言って、それからもうひとつの封筒を出した。
「こちらが、試合相手の資料です」
「あ、はい」
受け取ってしまった久雅堂であったが、
「
「
書類を見ていくと、格闘技歴に「八極門」と書かれていた。
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