(ニ)
久雅堂とPの対戦の配信は、実際のところそんなに話題にはならなかった。
元々、Pがそれほど知名度が高い配信者ということもなかったわけで、配信されたものは即座に消されてしまったというのもあって、動画を見た一部の人間は「なんか変な試合だった」とは巨大掲示板のスレでちょっと書きこんだがりもしたが、どちらも無名の人間であることから、さほど盛り上がることもなく流れていってしまったのである。
要するに、毎日のように何処かで起きている配信者のトラブルの一つ――みたいな扱いで終わったわけだ。
せいぜいがところ、PのTwitterのフォロワーがざわついたくらいで、それも直に収まった。
最初にお互いが挨拶代わりにマスにパンチを繰り出したというあたりから、それぞれ本気ではなかっただろうと見做された……ということもある。
久雅堂がPを追い詰めるつもりがあれば、騙し討ちのような無断配信やら諸々をまとめて訴えることもできたわけであるが、久雅堂は基本的に面倒くさがりである。お互いに遺恨を残さない形に収めることができればそれでよかったし、戦いを思い返しても自分のマイナスになるようなことは特になく、動画の取り消しを求めたものの、そのデータ自体は手元に残しておいた。
(アマチュアとはいえ、MMA選手相手によくやりあえたな)
そんなことをデータを見返すたびに思ったりもしたが、空手歴含めても久雅堂より格闘技歴も短く、30キロ近い体重差があるというPを相手に「やりあえた」というのは、何か自慢になるわけでもない。
もしかしたらPがそのうちに有名になったりしたら、こういう動画も「お宝」になるかもなあ……などとぼんやりと思いつつ、とりあえずこの件はこれでいいやと思って、久雅堂の中ではこの事件は終わったのだった。
久雅堂にしたらここまでの話であったが、Pはそういうわけにもいかなかった。
そもそもPはどうしてこの町に来たのか?
地下格闘の試合に参加するためである。
地下格闘――
そう聞いて、暗黒街の人間や一部の政治家などが観戦することができる、アンダーグラウンドの格闘技を想起してしまう人たちが一定数いるのは仕方ない。
そういうのは20世紀の劇画などで醸成されたイメージである。
現代における地下格闘とは、メディア露出の少ないインディーズの格闘団体の興行のこと――と思って、だいたい間違いない。
このあたりの細かい事情を説明しても、物語の流れを阻害するだけなので極力省きたいのであるが、最低限は語らなければならないことはあるわけで、もうしばしお付き合い願いたい。
格闘技ブームが過去のものになって久しいと言われつつも、いつの頃からか地下格闘と言われるインディーズ団体での試合興行が各地で行われるようになっていた。
その背景には、MMAがスポーツ格闘として日本に定着したということがまず上げられるが、その他にも、ある程度の社会的な地位を持つ人間に、かつての格闘技ブームを直撃していた世代がなったということも無視できないと思われる。
日本における格闘技ブームは戦後だけでも何度かの波が生じているわけであるが、もっとも激しかったのは90年代前半頃のそれだ。
このあたりの詳細を、この物語では今更解説しない。
読者諸兄の大半には既知のことであるに違いなく、あまり面白い話でもないからである。
それでも少しは触れなくてはならないのであるが――
限りなくノールールに近い格闘技大会UFC、そこで登場した海外に伝わっていた知られざる柔術の末裔グレイシー柔術の登場、四百戦不敗を謳われた男の登場……だとか、漫画みたいなことが一年のうちに起き、日本の格闘技界の地図が大きく書き換えられることになったあの時代の話は、21世紀も20年以上経過した現在で語ったところで、どれほどの熱量が伝わるものだろうか。
とにかくあの時代はバブル経済の余波も残っていたというのもあるし、第二次ベビーブーマー世代が十代だった最後の頃でもある。
日本という国に住む人間の放つエネルギーの総量が、最も激しかった頃でもあったかもしれない。
だから、その時のブームは、起こるべくして起きたものと言える。
その世代の多感な十代だった人間が、90年代の格闘技ブームを牽引してきた。
それもさすがに、数十年と続くものではなかったが。
しかしその時代から「熱」を保ち続けていた人間も、間違いなく多くいるのだ。
インディーズ格闘技興行『ファイティング・クランプ』の主催者も、そんな時代の生き残りの一人だった。
鵜堂明生――という。
団体名まで出してその主催者を匿名にする意味もないので、あえて実名を出すのだが、この鵜堂という男は地元のそれなりの大きな建設会社、『鵜堂建設』の三代目である。
彼はグレイシーが来た頃に十代の高校で、柔道をやっていたという、その頃の日本に何万人といたような格闘技に興味を持ってそれを実行している人間の一人だった。その中で彼が特別だったのは、実家がその当時は今よりもかなり大きな会社だったことと、柔道自体の腕前が一年生にして全国大会に個人戦で出場するほどだった――ということである。
さすがに一年生で全国大会の上位に入るということは難しかったが、それなり以上の戦績を残し、果てはオリンピック出場も夢ではない、くらいのことを周囲には言われていた。
実際には、そうはならなかった。
公共事業緊縮があったのである。
それによって何が生じたのか――業界事情をここで延々と語っても仕方がないので、ここも必要最低限に留めるが、建設土木関係企業は、軒並みにダメージを受けた。致命傷にはならずとも、多くの企業の業績が悪化した。
この後でさらに色々と起きるのであるが、この業種は長らくこの緊縮を端緒にして冬の時代に突入していき、鵜堂家の会社は詳細は省くか、たまたま同業でもそうはない大ダメージとなった。
そんなこんなで鵜堂明生は大学での柔道を断念した。
大学進学するくらいの金はあったが、成功するかどうかも解らない柔道に打ち込むだけの余裕がなくなった。
そういうわけで建設土木の仕事に専念することに決めた彼は、大学でもその方向での勉強に専念することにして、柔道はたまに週一で通う程度の趣味にとどめた。
それから、さらに二十年が過ぎた。
『鵜堂建設』はなんとか激動の時代を生き延びることができたのであるが、それは明生が会社の指導者として奮戦したから――
ということは、実際にはあまり関係がなかった。
資金調達のために始めた株式投資が、奇跡的に上手くいったのだ。
鵜堂明生という人物は、投機に柔道以上の才能を発揮してしまったのである。
才能というか、勘所というべきかもしれない。
とにかく上手くいった。
小さな失敗も幾度となくあったが、トータルでかなりの資産が彼の手元に残った。それは建設会社を経営する必要もなく、人生を三回ほど自由に謳歌できるほどのものであった。そのまま進めていけば、彼は国内屈指の投資家として名を残したかもしれない。
そうはならなかったのであるが。
鵜堂はそれなりの資金を得た段階で、持ち株を手堅い銘柄のものに替えて投機からほとんど手を引いたが、その後に乗り出した事業が地元の武道・格闘技団体への支援であった。
その動機については
「自分の若い頃の挫折を、今の若者に味わってほしくないから」
そう、とある武道の機関誌のインタビューで答えている。
才能ある若者が武道での栄達を求めても、金がないなどの将来の不安によってその道を諦めてしまう――
それは彼の過去に起因するものであったが、そんなことを始めてから十年近く経過して、しかし幸か不幸か、挫折する若者は現れなかった。もっというのなら、武道で生きていくことを選択する若者というのが、まずでてこなかった。才能がある若者がいなかったというわけではないが、そういう人間は柔剣道では指導にきている先生たちの紹介で警察官になったりして、彼の支援の必要はなかったのである。
それはそれである意味喜ばしいことであったが、かつての彼のように将来オリンピック候補を夢見れるようなほどの者はついぞでることもなく、それはそれとして各団体への支援は今も続いてるのだが――
今年になって、彼は新しく格闘技興行団体を発足した。
それが『ファイティング・クランプ』である。
クランプとは、つなぎとめる工具の総称であった。
いかなる思いがあって、そのような名称をつけたのかは誰にも明かさなかったが――
Pがこの街にやってきたのは、鵜堂がPの配信動画を見て興味を持ったからで、この『ファイティング・クランプ』での試合に、Pは招待されていたのだった。
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