第4話 結末からの後始末。

(一)

『あれは、本当に咄嗟に出た』


 Pはその時のことを、はっきりと覚えていると語っている。

 ただ、覚えてはいても、その前後の思考の理路は曖昧であるらしい。相当に焦っていたのは確かであるし、無理もない話ではある。

 

『リーチ広げるために前蹴り出すことあるけど、そういうのは一瞬も考えなかった』


 Pは正直だった。

 怖かったのだ。

 いきなり歩み足でズカズカと間合いを割ってこられたというのは、MMAではたまに見る状況ではある。

 多くの格闘技はルールがあり、ルールに沿った中でそれなりの対戦のセオリーのようなものが確立されるのが常だ。これはルールがないとされる武術でも同様で、生物が環境に適応していくように、格闘技・武術も使用環境と想定に応じた技が選択されていくものである。例外はない。あらゆる局面に対応できる格闘技などというものは、存在しない。

 いや。

 理論上は存在し得る。

 想像でき得る環境、状況から想定されている技を、あらゆる武術から蒐集していけばいいわけである。

 だが、そんなことができたとして、そんな膨大な技法を一人の人間が習得できるものではない。できたとしても、一つ一つの技の精度を高めるのは至難であることは想像に難くない。身体を動かす技術は対戦する相手の実力にもよるが、生半に使いこなせるものではないのだ。

 そんなわけで、対応技術は年々に増えてはいるものの、多くの格闘技選手はそれらの全てを習得するのではなく、膨大なそれから取捨選択し、戦法を確立し、練度を高めていくわけであるが。

 そのように環境に特化していくと、過剰に適応した結果として、かつては対処できた技を無防備に食らってしまうなどということが起こり得る。ひところ流行ったカーフキックなどがそうで、あそこまででなくとも、全く想定外で不慣れな行動を対戦相手がしただけで、反応が遅れるということはままあることであった。

 MMAの試合で、稀に歩み足でノーガードに間合いを詰めてくる相手にどう対処していいか解らず、攻め手に回ることもできずに下がってしまう――というシチュエーションがあったりするが、それは歩み足でずかずかと接近する相手というのが想定にはないからである……とも考えられる。

 そして先述したが、久雅堂は初見の相手からはリズムが読み難い人間であった。

 当人はそのあたりのことを熟知しているわけでもないのだが、この時の彼は妙な成り行きのままに切迫した空気が嫌で嫌で、とにかく状況を動かしたくて仕方がなかったのだった。


(ここで負けても別にいいや)


 とまではいかなくとも、それに近いくらいに投げやりになっていた。

 そういう思考、精神状態の上での歩み足での接近であった。

 Pからしてみたら、これはあまりにも意味不明で、あまりにも不慣れな状況で、やるべきことを見失ってしまった。


 …………と、あれこれと解説を重ねたが、要はセオリーにない接近を、なんだかよく解らないリズムとタイミングで間合いを割られたせいで、Pは混乱してしまったのである。


「嫌だ」

「負けたくない」

「怖い」

「逃げたくない」

「なんでこんなことに」

 

 羅列するとこんな感じだろうか。他にも諸々と細かいコンビネーションだとかが思考をよぎったのであるが、そこらは言語化できるほどにはっきりしたものではない。

 とにかくこんな感じにごちゃついてまとまりのない思考は、Pにかつて追い詰められた時、もっとも効果があった技を選択させるに至った。至ったというか、なんだかそのようなところに辿り着いた。ついて、しまった。


 Pのそれは、最初は間合いを外した前蹴りに見えた。


 突然の歩み足での接近に、慌てて前蹴りを出して間合いを広げようとした――ように、久雅堂は判断した。

 実際、ライブ配信を見ていた数少ない人間の、大半がそのようにその時は思ったらしい。

 その時――

 久雅堂はその蹴りに対して、まず一歩下がって。

 それから相手の引き足に応じるように前に出た。

 そのままパンチでも。

 と思っていたかどうかは、不明である。

 久雅堂は次の瞬間に、一度引かれた蹴り足が再び上がったのを見たからだ。

 

 その瞬間に、久雅堂の頭の中は真っ白になった。


 それは。



 金的。



 は男子最大の急所だ。特に説明することでもないだろう。

 意図して狙うのは、多くの格闘競技では禁止されている。過激なルールとして知られる最初のUFCですらもそうだ。

 とはいえ、事故でそこに当たらないとは限らないわけで、総合格闘技の試合だと、ファウルカップというそこを専用の防具をつけるものである。スパーでもそうしていた。

 しかし。

 そんなガードはしていても、思い切り直撃されれば効かないわけでもない。

 久雅堂が咄嗟に内股を締めたのは本能的なものであったし、両手で押さえ込むように受けたのも、半ばそれに近いものであったに違いない。

 急所打ちに対して対応できたのは、何も久雅堂の反射神経が格段に優れていたとか、防衛本能が抜きんでいたというようなことではなく、Y先生の薫陶が生きていたということもあるし、なんだかんだといいつつも古流柔術の継承者であるからには、そこは守っとこうという矜持のようなものがあったこと、そして道場破りなんか何してくるか解らないという警戒心も残っていた、ということもある。

 久雅堂は、最初のスーパーマンパンチのことを忘れていなかった。

 それでもなお。

 打たれた瞬間は「まさか」と思ったし。

 受けた瞬間でさえ「マジか」と思っていた。

 だから、続けて繰り出されたPのラッシュにかろうじて腕をあげて受けることができたのは、かなり上出来の部類だったとは言えた。

 そうなのだ。

 思わず金的蹴りを仕掛けたPは、打った瞬間こそは久雅堂同様、素人のように頭が真っ白になったものの、そこから一呼吸のブランクから、目の前のがら空きの頭に向かって打ち下ろしのフックをぶちこんでいた。

 久雅堂が受けられたのは、その一呼吸のおかげである。

 かろうじてであるが、それを腕をあげて撥ねながら、続けて打たれたPの拳を頭を振って回避し、ミドルの蹴りを足をあげて受け、損ね――


 あとは、サンドバッグのようだった。

 

 久雅堂の受けがまともにできたのは最初の一秒か二秒のことでしかなかった。

 ボクシングや空手の経験があったので、相手のラッシュに対してどうにか腕を動かし、足をあげてどうにかしようと反応はできたが、ほとんど受けになっていたか怪しいものだった。

 五秒以上立ち続けられたのは、階級差があったことと、P自身が打ちながら腰が引けていったことに起因する。

 混乱状態ではあったが、自分はとんでもないことをやってしまったのでは、という罪悪感とも言えない、小さな小さな引け目のようなものが生じたというがある。

 Pはあちらこちらで、合気道家だの中国武術家だのという伝統武術家を揶揄するような真似をしてきた。

 そのことについては負い目はない。

 インチキ武術などで生計をたてているという、そういう武道や格闘技をバカにしているのが許せなかったので、そういうことをやっていたのである。

 だが、今は違う。

 明確なルールがあったわけではない、という言い訳はできる。できるが、それをいえば、スパーという名目で始めておいてこんな急所狙いだとかそういうことをするのが、すでに言い訳が効かない状況であった。

 この時のPは、自分が引きどころを間違えたということを自覚していたし、その上で自分がどういうふうに立ち回ればいいのかも解らず、ただ腰が引けつつも誰も止めようとしないので、とりあえずとばかりに腕を振り回して、足を上げていて蹴り込んでいただけである。

 久雅堂は。


 怒っていた。


 金的は完全に狙っていたものだというのはさすがに解った。その後のラッシュにも不思議なことにこの時の久雅堂は混乱してなかった。

 ただただ頭に血が昇ってきていた。

 久雅堂は決してメンタルが強い方ではない。空気が読めないので先輩たちをイラつかせも平然としていることはあったが、それだって別に狙ってそのようにしたわけでもないし、怒っていることを表明すれば恐縮して謝りもする。決して闘争心がある方でもない。体格がよいし柔道経験も長いので、少々叩かれたり投げられたりしても大したダメージになりにくいのがあって、試合に出るのにもさほど躊躇がない。

 しかし緊張しないでもないし、予想外のことが起きれば混乱する。

 いつもなら。

 いつもなら、頭が混乱して、戦意も維持できずに降参してしまっていただろう。

 だが、この時はPも普通ではなかったが、久雅堂も普通ではなかった。

 試合であからさまに反則行為を狙われたのが初めてで、それ故に生じた怒りは当人にもよく解らないままにボルテージを高めた。

 久雅堂は今までの人生で、これほどまでの怒りを高めることはなかった。

 ここまで冷静さを欠いたこともなかった。

 Pの腰の入ってない打撃に気づきもしていない。

 ただただ殴られ続けていることで、とにかく感情のゲージを貯めていった。


(殺す)


 そう思った時には前に出ていた。

 この時、Pが久雅堂の拳をまともに食らったのは、それはタイミング的にダメージが入るようなものではなかったことで油断していたというのと、かつて味わったことがない種類の技だったからだろう。

 何せ久雅堂は、その時、踏み込みと同時に胸元にあった手を縦拳に二つ揃えてPの胸元に入り込むように踏み込み、押し飛ばしただけなのである。

 体当たりなのである。

 しかもこれは剣道のそれだ。

 久雅堂が剣道の試合にたまに出た時、鍔迫り合いなどで膠着状態になつてからの仕切り直しに仕掛け、相手を跳ね飛ばして間合いを空けるためによくするものだった。


『剣道とは体当たりだ』


 と久雅堂に指導していた先生がそんなことを言って教えてくれたのだが、真正面から相手にぶちかますのは、得意技でもあった。

 それをこの場で使ったのは、打撃をねじ込むのもタックルで組討に持ち込むのも嫌だったからだが、体格に任せて相手を飛ばして崩し、遠間から打つ――というのは、久雅堂の試合における勝ちパターンの一つでもあった。

 久雅堂は空手の試合などでも似たようなことをしたが、タイミング的に相手の意表をつくようで、他の選手が同様のことをした場合は不明であるが、久雅堂のそれはよく決まった。

 大会では一度使えばすぐ警戒されて、そう何度も通用しない戦法であるが。

 この時はまさかの展開にPも跳ね飛ばされ、ウレタンマットの上に転がされた。

 腰が引けていたというのは当然あるが、元より体重差がある。30キロものそれは本来ミスマッチもいいところだ。Pは総合格闘技に転向してから基礎連も増やしているので、体幹はかなり強い部類に入るが、そのような諸々の諸事情もあって、当人も驚くほどにあっさりと転がってしまった。

 

 その後の展開は、悪夢を見ていたようだと、Pの仲間たちは証言している。


 ここからは何がなんだか解らなかったと、配信を見ていた数少ない視聴者は口を揃えて言っていた。


 Pは転んだ後で即座に両足を上げた。パウンドに持ち込まれないための基本的な防衛反応だったが、視界の中に久雅堂がいなくなっているのに混乱した。


 すぐさま顔を振ったが、久雅堂の姿は見えなかった。


 そこでとっさに立ち上がったPであったが、立ち上がって体勢を整える直前に、左手を握られ、その瞬間、背筋をゾクリとした冷たいものが走った――と、後に述べている。


 久雅堂はPが倒れた瞬間、そこから反時計回りに大きくカーブを描きつつ接近していったのである。

 どうしてそのようなことをしたのかというと、経験的に真正面から近寄っていくと反撃を喰らい易いからという以上の理由はなかった。本当になかった。倒れたPの視界から消えていたのは、本当にたまたま、その時にはPの死角にまで回り込めていたからで、そこまで上手いこといくとは考えていない。

 ただ、倒れた相手に正面から行かず、横から回り込みなさいというのはY先生を始めとする、柔道教室の基本的な指導ではあった。なんで倒れた相手への対処などを教えてくれたのかといえば、彼らが元警官だったからという以上のことではなく、久雅堂のその時の動きは、重ねてだが本当にたまたまその教えをなぞったにすぎない。

 Pの腕を両手で取り、一瞬だが前に崩せたのは合気柔術で教わった技だが、これも上手くいったとは言い難い。

 すぐにバランスをとったPを。


 自身の重心を動かしながら、さらに崩した。


 それは、久雅堂が柔道に応用が効くかも? 

 などと考えてちょっと工夫した、現場で覚えたケーシングを切るためのコツであったが。

 いつもの久雅堂は、そこから腕を挟み込むようにして体重をかけて脇固めなどに移動するが、この時の久雅堂はそうしなかった。

 

 そのまま壁に向けてぶん投げた。


 ハンマー投げに似ていた。


 配信動画を見ていた人間全員が述べているが、一瞬だが、本当にPの足が床から浮いていたと語っている。

 P自身はよく覚えていない。

 覚えていないが、気づけば道場の壁が目の前にあり、それどころではなかったと語っている。


「正直言えば、そんなに凄い衝撃があったってわけでもなかったッスね」


 壁には投げられてあたった時のことも考えて、適当に緩衝材などが貼られている。無防備に首がどうにかなるような角度で叩き込まれたりしなければ、そんなに痛くなったり死ぬほどのようなものではない。

 Pのその時に味わった物理的な衝撃は大したことはなかったが、あまりの展開に戦意を失うには十分だった。

 

 何せ振り向けば、久雅堂がのしのしと早足に駆け寄ってきていたのだ。

 

 彼を気遣ってる様子などは欠片もない。

 久雅堂の右足が浮いたのが、他人事のように思えた。


 それでも両手を上げて受けて。

 腕は跳ね飛ばされた。

 容赦も呵責もない蹴りだった。 

 この時初めて、Pは体重差のある打撃の恐ろしさに恐怖した。

 

 その後の久雅堂の攻撃は続かなかった。


 Pの二人の仲間が、久雅堂を後ろから羽交い締めして取り押さえていたからであるが。



 これが、Pによる『久雅堂』道場破り事件の顛末である。




 

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