(三)

 ここでPについてもう少し詳細を語るが、元々、彼は高校では空手部に所属していた。

 さほどたいした実績もない学校で、顧問は大学時代に空手二段にまでなったという国語教師の女性と、別に週二でOBで空手五段という男性コーチがボランティアで指導に来てくれているという、それだけ聞くとなかなか恵まれていそうな環境である。

 ただ、顧問は大学の空手で段持ちと言っても、小さな沖縄空手のサークルでゆるゆると型の反復稽古と分解をするのを大学時代やり通した結果、その流派からお情けとしてもらった(当人談)というようなもので、一応経験者ということで顧問になっているが、さほど熱意はなかった。

 Pが古武道について偏見を持っているのは、この先生と関係がある――ということは特になく、格闘技を続けているうちにぼんやりと身についたもののようだ。

 むしろこの先生とは、高校時代のPはほどほどに仲はよかった。

 ボランティアの男性コーチとも、それなりに上手くやっていた。

 こちらは部が一番強かった頃のレギュラーだったという人物で――それでも県大会でベスト8だったようであるが――卒業後も空手を続けていた。今は自営業をしつつ所属流派の指導員などをしている。

 さすがにコーチは顧問の先生よりは熱心であったが、生徒たちの資質には割と現実的に見切りをつけており、勝てるなら勝てた方がいいが、無茶苦茶な稽古をして身体を壊しては元も子もない、とにかく健康で、真面目でさえいてくれたらいい……くらいの方針で、部活でふざけているのは咎めたが、よその高校と戦って勝つために猛特訓、というようなことはしなかった。

 打撃格闘技は防具をしていてもダメージは残る可能性はあるから、よくケアしなさい、と毎回のように言っていたという。

 このコーチがこのような方針に至るまでには、それなりの背景があるのだが、この物語にはまったく関わってこないし、Pはそういうことをあまり覚えていない。

 なんだか高校の部活は先生が怪我とかしないようにうるさかったなあ、とぼんやりと覚えている程度である。

 彼の部活の記憶は、ほとんどが仲間たちと一緒に楽しくほどほどにバカをしつつ、稽古して、試合で最高3回戦まで行った、などで大方が占められていた。

 その後、大学でMMAを始めたわけであるが。

 そこで出会った仲間とも、高校時代のノリのままで適当に馬鹿をやりつつ、アマチュアのMMAの大会に何度か出て、たまたま相性がよい相手が続いたのか、現在まで試合で負けたことは五戦ほどして一回である。

 もうちょっとしたらプロとして試合に出てもいいかもしれない、と思いつつ、そういう踏ん切りはつかないまま、あるいはつけないまま、高校時代の悪ノリでユーチューバーを始めたところで、今回、試合のオファーを受けたわけである。

 その試合の詳細についてはあとに語るが、とにかくPはほとんど十代のノリの延長で格闘技をやってて、そのまま特に何か反省などすることもなく、今の至っている。

 久雅堂とは別の意味で、惰性で格闘技をやっている若者であった。

 結局、Pはこの後でプロになることもなく、MMAはしばらく続けていたが、大学を卒業して、地元の会社に入社した頃にはいつの間にか辞めていた。

 それから十年の間に結婚と離婚と再婚という、人生の重大イベントを大方済ませてしまったりするのだが……。

 他の二人も似たようなものである。

 久雅堂の人生に修正不可能の影響を与えておきながら、彼らは格闘技や武道とは人生の若い一時期にちょっとやってたというだけで、ほとんどの期間は無縁となっている。

 そしてPたちと久雅堂の人生が交差したのは数日だけであり、以降、関わることは二度となかった。

 


   ◆ ◆ ◆



 お互いがお互い、拳での「挨拶」をしあった後の久雅堂とPは、なんだかジリジリと間合いを詰めたり外したり、少し足をだしかけたり引いたり、どうにも見ている側がもどかしくなる展開が続いた。

 いや。


「なんか、空気おかしくないか?」

「あー、なんかヤバいかも……」


 とPと同行した二人が囁き合う。

 先程の久雅堂のジャブの後、道場の空気がどんどん剣呑になっていくのが解る。

 大丈夫なんだろうか、とこの二人は思ったが、だからと言ってここで配信を止めるという選択肢は浮かばなかった。後に彼らが証言するところによると、場の空気のようなものにのまれていたという。

 この二人について、特に区別する必要もないので仮称もつけなくても十分であろう。

 ただ、どちらかが先にこのあたりで久雅堂を指差して言ったらしい言葉がある。配信ではどちらが言ったのか、くぐもっていて解りにくく、二人ともこの時のやりとりは覚えていないのだが、彼らのうちのどちらかはこう言ったのだ。


『なあ、あいつの身体、ない?』


 あいつとは久雅堂のことであろう。

 そして、あつい――厚いの意であると推測される。

 

 ここで少し解説をすると、久雅堂の身長は178センチで、Pは175センチ。傍から見ると背丈はほとんど変わらない。

 だが、体重はPは65キロのフェザー級に対して、久雅堂はこの時、90キロを超えていてた。ヘビー級である。

 あらゆる格闘技において、体重というのは重要な要素である。

 特に打撃格闘技の世界では、階級が一つあがるだけで威力が段違いであるというのが常識だ。

 20キロを超える体格差のマッチメイクなどというものは、ないでもないが普通はしない。

 相撲では10キロ、20キロの体重差はよくあることではあるが、あそこらは特別例外としておきたいところである。

 ではなぜ彼らが久雅堂の体格について、今更そんなことを言っているのかといえば、彼らが最初に見た時の久雅堂はダブついた身体の線を隠す服を着ていたというのと、今は柔道着に着替えているので身体の厚みがわかりにくかったというのがある。

 スパーを始める前にも、久雅堂は自分の体重を言わなかったし、Pも確認しなかった。

 より正確には、久雅堂はPの自己申告を聞いた後で「いいのかな。自分、結構体重ありますよ」といったのに対して、Pは「あー、問題ないっすよ」と軽く流しただけであるが。

 この時は久雅堂も打撃ありとしてもそんなに強く当てるつもりもなかったし、日拳の先輩やジムのプロボクサーの人たちともそれくらいの体格差でガチ目のスパーしているから、別に問題ないかと思っていたようである。

 一方、Pの方も相手は柔道ベースなんだから、打撃といってもたいしたことないだろうと舐めていたからそのようなやりとりで済ませていたからで、久雅堂がボクシングの本格的なテクニックを持っているというのが解った現在、非情に問題があるマッチメイクとなってしまっていた。

 後にPが語ったところによると、彼もまた、この時点で自分の見通しがかなり甘かったことを痛感していた。


(あたったらヤバくないか?)


 というようなことを思っていたという。 

 素人でガタいがいいだけの人間なら、少々体格の差があってもどうとでも対処できる自信がPにはあった。

 極端なことをいえば、顔面ワンパンいれただけで素人の七割は戦意を失う。

 不良漫画みたいに殴り合いができる素人なんて、そうそういるものではない。

 しかし、相手が本格的な打撃スパーの経験があるというのなら、話が全然違う。

 久雅堂がちょっと打撃ができる程度の柔道家、というのならば恐るに足らずとでんと構えていられたが、さっきのようなジャブだとかワンツーを見せられた後では、そんな風にはいられない。

 本格的に打撃をしてくるとなると、体重差がもろに響いてくる。

 投げ技だって、Pも一通りの稽古はしてきたのでまったくできないわけではないのだが、柔道家相手に通じるものかとなると自信がない。というか、ボクシングもやれる柔道家という時点で、久雅堂をただの柔道家と見做すのは無理があった。

 どんなことをしてくるか解らない。


(この床で変な叩きつけられ方をしたら――)


 ウレタンマットは敷いてあるし、床材がほどほどに撓んでいる仕掛けがあるようなので、変なコケ方をしない限りは問題ないとは思うのであるが。

 いずれ油断できるものではない。

 昔の総合格闘技ならば体重差がかなりあってもひっくり返せた例はあるし、今でもそのような話はないでもないのだが、およそ20キロは差があるだろう相手に対してそれは可能なのか。

 最適解としては「古武術の先生なのに、そんなボクシングできるとかズルいですよー」などと冗談めかしていって、スパーを中断させるなどすればよかったのだが、空気がそれを許さなかった。


(そういうダッセーことできるかよ)


 何せ今は配信中なのだ。

 そして久雅堂に対して、最初に舐めた態度で舐めた行為を仕掛けたのは自分であるという自覚もある。

 久雅堂が最初のあれを快く思わなかったのは明白で、さっきのボクシングはそれに対する返礼だというのも重々承知していた。

 

(向こうだって、ただで済ませるつもりはない……)


 そう思っていたのであるが。



   ◆ ◆ ◆



(とりあえずやり返せた)

 

 しかし――久雅堂はその後のことを考えてなかった。


 バカにされたからバカにし返した――程度の行いであり、いざやったらやったでなんだか少しすっきりしてしまった。

 あくまでも少しだけで、まだまだもやっとしたものはあったのだが、とりあえずちょっとでも溜飲を下げることができたので、久雅堂は嬉しくなってしまった。

 この後はどうしようかと、呑気に思った。後のことを考えるのが途中で面倒くさくなるのは、久雅堂の悪癖である。直前まで「あー、そういうつもりなの」と道場破り的な相手に対してただで返すつもりはない、みたいに盛り上がっていたのに、ちょっと気が晴れたらどうでもよくなってしまっていた。

 そもそもあまり腹をたてることがない久雅堂は、いざ腹が立った時の自分がどういうことをするのかの経験則があまりない。自分の怒りをどう表現したらいいのか解らない……と言った方が正確だろうか。

 とりあえず、やり返した後のことはまったく何も考えてない久雅堂は、改めてPを観察する。

 元ヤンの格闘家なんてのは珍しくないが、多分Pはその類だろうと見当をつける。格闘技関係を渡り歩いてたら、地方都市でも色んな人間に出会うのだ。その手の相手は序列をつけたがる傾向が強い、気がする。体育会系っぽい。そして一度順位を定めたら、下とみなした人間が自分に対して反抗するのを異常に嫌う。

 ……あくまでも、久雅堂の観測範囲の問題である。

 Pはどうかというと、そのような傾向はなくもないが、そこまで極端ではない。

 プライドを傷つけられたのは確かで、生配信をしているということを意識していなかったら、怒りのままに思い切り殴りかかってきたかもしれないが、どちらにとっても幸運なことに、そうはならなかった。

 とにかく今更Pを観察しだした久雅堂であるが、彼が漫画にでてくるような武道の達人ならばPの格闘技履歴を見切ったかもしれないが、残念ながら久雅堂はそういう達人ではない。基本、柔道を中心にちまちま複数武道をやりこんでいるというだけの、浅い格闘技ヲタでしかない。あと漫画とかアニメ、ラノベも読む。

 そんな人間なので、Pの身体をじっくりと見たところで読み取れる情報量など、本当にたかが知れていた。


(体重は向こうの申告だと65キロとか言ってたか。多分、それは間違いない。身長はこっちより少し下くらい? 何の格闘技がベースになってるのか解んないけど、古流柔術やりたいって言ってたから、柔術ベースなのかな? あー、けど打撃系っぽい体つきのような気もするし……)


 体重などの数字については、あちこちの道場を出入りして様々な選手の身体を見ているので、さすがにそんなに誤差はないが、格闘技経験などは久雅堂の推論でしかなく、実際のところはかなり違っている。

 Pの通っていた総合格闘技のジムは、元々はキック専門だったが、近年になってそこをベースに組技のコースもいれて総合格闘技へり門戸を開いたというところだ。

 高校の時に競技空手専門だったPは、キックのような打撃をベースに、柔術やレスリングのトレーニングを積んでフィジカルをつけたのだった。

 久雅堂の見立ては、そういうわけであんまりあてになっていない。

 体つきからぼんやりと打撃系のような気がする……程度のことは解るが、柔術をやりたいという風なことを言っていた先入観から、柔術ベースなのではないかと考えてしまうあたり、色んな意味で詰めが甘い。

 すでに何度も述べているが、久雅堂は基本的にあまり頭がよくないのだった。


(さて、どうしたものか……)


 相手が何をしてくるかは解からない。

 そういうときは、迂闊に間合いに入るものではない。

 普段のガチスパーでは、そんなことを気にしたりはしないのだが。


(なんだか、空気が悪い)


 久雅堂は頭はよくなかったし、空気を読むのも苦手であったが。

 対峙している相手が緊張しているか、真剣かなのかくらいは解っていた。

 

(これはガチで当てにくるな)


 その程度の判断はつくのだった。


(ま、MMAそれなりやりこんでいる人間なんだから、こっちも思い切りやってもいいよな)

 

 久雅堂は、ある意味で楽観していた。

 体重差があると危険だなあとは理解していたが、ボクシングや日拳、空手のスパーの経験で、自分の打撃などクリーンヒットでもしなければたいしたダメージになったりはしない。

 相手がやりこんでいる人間ならば、問題ないだろう。

 こちらは逆に、カウンターなどくらわないように注意しないといけないが。

 

 久雅堂は頭はよくなかったし、ぶっちゃけた話、バカだったが、目の前で真剣になっている相手に対して油断するような、そんな類のバカではなかった。


 やるだけやる。



   ◆ ◆ ◆


  

 さて。

 ここまで読んでいただいた賢明なる読者諸兄にはご了承いただけていることだろうが、この時点で、二人がガチスパーという名の立合いを続ける理由などというものは、実はない。

 Pは今までの経緯と空気から、勝手に久雅堂が自分をただですますはずがないと決めつけているし、久雅堂はほとんど気が済んでいるのにも関わらず、相手が剣呑な空気になっていることから、もうこのまま続けるしかないなーと軽く覚悟を決めている。

 どちらかが「ここまでにしとく?」と話を振れば、それで終わらせられたことだ。

 しかし残念ながら、このスパーはここでは終わらない。

 このままでは終われない。

 いや。


 もう少しして、終わってしまうのだ。



   ◆ ◆ ◆


  

(ボクシングができる相手に、顔面パンチでワンチャン狙うってのは無理だな)


 Pはそんなことを考えつつ、頭の中で改めて戦術を組み立てていた。こういう状態で焦るのは駄目だ、クレバーでいろと自分に言い聞かせている。

 重ね重ね言うが、一番冷静な態度は、さっさと理由をつけてスパーを中断してしまうことなのであるが、そのことに彼は気づいてない。

 目の前の久雅堂をどう倒すかということに思考がシフトしてしまっていた。もはやバカにするだとか、からかうだとか、そういうことができる相手ではないということは十分以上に解っているのだから、最初の目的は果たせないのは明白だ。

 ……そういう判断がつくくらいなら、そもそもからしてこんなことを仕掛けたりしないだろう。

 そういうわけで、Pは冷静なつもりで冷静でなく、とにかく久雅堂をどうやって倒すのかということに集中していた。集中しているつもりりになっていた。実際のところはパニクっているだけである。

 このことは、P自身がずっと後に認めていたことだった。


『だからと言って、あれはやっちゃいけないことだった』


 誓って最初からそれを狙っていたわけではない、という言い訳をしつつも、Pは自分の行いを反省していたものである。

 しかし実際のところ、それを事故と言い張ろうと思えばできなくもなかった。

 配信された動画を見ていた数少ない人間の、そのほとんどは故意だと思わなかったのは確かである。

 

 彼がやったのは。


 突然、久雅堂が両拳を上げたままで、歩み足になって間合いを詰めてきた。

 Pは。

 踏み出してから、前蹴りを。


 金的へ。



 

 

 

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