(三)
さて。
久雅堂が仕事にも慣れ、柔道にも専念し、恐らく人生の中でも最も充実していたのがその頃であったが、世に永遠はない。
春は過ぎれば夏がくるし、秋にもなって、冬になる。
柔道再開して五年ほど経過した久雅堂は、自宅の納屋を改造して柔道の稽古場を作ろうかな、将来は整復師にもなれたらいいな……などと考えつつ、ぼんやりと将来設計を練り直していたが、新たに転機が訪れた。
会社が倒産したのである。
寝耳に水であった。
最近は仕事減ってるなあなどと思ってはいたのだが、まさか倒産するとは思ってもいなかった。
先輩たちはこれを期に仕事を引退する人、別の会社に移籍する人……などがいたが、久雅堂はとりあえず、失業保険がもらえるうちはしばらく休み、身の振り方を考えようと思った。
武道にもうちょっと気を入れても、良いかとも思っていた。
しかし間が悪かった。あるいは、悪いことは重なるというべきか。
Y先生が突然に亡くなった。
肺炎だった。
冬だったし、八十も過ぎていたので仕方がないといえばそうであるが、突然の死にはさすがに久雅堂も気落ちした。
あと、病床に呼ばれて伝授された巻物と、蔵書を譲ると遺言されてしまい、たいそう混乱してしまった。
何せ久雅堂はその時までY先生が古流柔術の免許持ちだということも知らず、教わっていた技をどう思い返しても、古流っぽいものなど欠片もなかったからである。
……後に久雅堂は知るのだが、彼が免許をもらった流派は、古流柔術とはいっても乱取りと稽古法はほぼ柔道化しており、現在の他の免許皆伝者は県内に何人かいることはいるが、形については名前もろくに覚えてない者ばかりなのだった。
蔵書は大半が趣味で集めていた、歴史関係やノンフィクションなどのとりとめのないものばかりで、さほどに価値がないものだった。
それでも柔道関係の蔵書は充実しており、その幾つかを県立武道館の図書室に寄付したり、整理するために納屋を改造して書庫を作り……
ふと久雅堂は思い立った。
「古書店でも開くか」
……脈絡がない。
脈絡がないので些かの解説を加えると、久雅堂は失業してからどうするのかについて考えた時、できるだけ自営業の類にしようと考えた。
会社の人間関係が煩わしかったというのもある。
元々久雅堂は愛想が良い人間でもなかったし、仕事そのものはなんだかんだとこなしてはいたが、あまり同僚と上手くやれているとは言い難かった。
主に、業務外を軽いヲタ活と武道漬けにしていたせいでもあるが。忘年会くらいしか同僚たちと仕事以外で顔を合わせもしないし、仕事でもほとんど話もしない。
会社が倒産しなければ、自分から辞めていたかもしれない、とは思う。
自分はあまり会社員には向いてないのだろうなあ、とも思う。
そうすると自営業以外には選択肢はないのであるが、正直、あんまり面倒くさいことはしたくなかった。
Y先生の突然の死とともに、どうにも柔道をこのまま続けていくというモチベーションが落ちてしまった。
大会に出て勝ちたいという野望があったわけでもないし。
柔道教室には週イチのペースで通ってはいるが、どうにも身が入らない。
体を鈍らせるのも嫌だし、納屋を改造して道場を建てるというのは既定路線であったが、柔道整復師になるという、もとよりぼんやりとした目標も霞んでしまった。
そんな中でY先生の蔵書の処分なども考えて古書店を往復して、柔道のみならず武道関係の書籍など読んだり、あと先生の残した流派について調べるために郷土史関係の本なども読んでいるうちに、古書店の仕事に興味をもったのである。
もとよりオタクであるので、本に関わる仕事というのは興味があったわけで、古書店にも立ち寄ることは多かった。
曽祖父が骨董商をやっていたということもあり、古物がまだまだ家に残っていたということもある。
久雅堂は古いものが結構好きなのだった。
あと、古書店の仕事というのは、見た目にさほどたいした労力があるようには見えなかった。
接客についても、店舗は開けつつもネット販売をメインにすればさほど問題はないように思えた。
客がこない間は本を販売し、小さな道場を併設して筋トレなり一人稽古をして時間を潰そう。
幸いにも、本はY先生から始末を任されたという蔵書と、自分の溜めていたささやかなヲタ系の漫画などもある。
しばらくはそれらしい顔をして仕事ができるだろう。
そういうわけで、新たに人生の転機を迎えた久雅堂は、貯金を使って納屋を改造した。
シルバー人材センターなどに問い合わせて安くきてもらった大工さんは、それなりにいい腕前だった。
二ヶ月ほどでそれらしく仕上がり、それでも道場についてはコンクリの床に枕木を置いて矢板を渡し、その上にベニヤを貼り、リサイクルショップで安く買った緑のカーペットを敷く――という、手抜きもいいところにとどめた。
ぶっちゃけ予算の問題である。
本棚含めて格安で仕上げてはくれたが、それでも三桁万円近いお金がかかって、貯金の7割が吹っ飛んだのだ。
「とりあえずの運動ができればいいや」
一人で稽古する分には、まあしばらくは問題ないだろう。
枕木を置く幅はわざと広めにしたので、上を歩いていると少したわむ。これは衝撃を吸収しやすくするための工夫である。
さらにカーペット……の上に、稽古の際には一枚が縦横1メートルのウレタンのジョイント式の組み立てマットを敷く。
Y先生や他の先生たちに伺ったのだが、公民館などで稽古する武道では、このようなウレタンマットは重宝するのだとか。
薄いので不安ではあったが、実際に組み立てて受け身などに使ってみると、案外と痛くなかった。
受け身は柔道でもっとも重要な稽古だとY先生も言っていたので、これからも続けるつもりだ。
あとは、自重トレーニングにダンベル、トレーニングチューブ……そして剣道の赤樫の鍛錬用の木刀での素振り。他の先生たちが剣道もやっていたので、そのうちに剣道もこてみないかと言われてたのもあり、そのいつかの「そのうち」のために買ったものだ。
これだけ続けていれば、体は鈍らない、はず。
その時の久雅堂はそんな風に思った。
そうして他に諸々の手続きをした末に開店した店の屋号が『久雅堂』である。
曽祖父の代で使われていた近所からの呼び名を、そのまま店名にしたわけであるが、この時の久雅堂はまだ店を開店させただけなのに、不思議な達成感を得ていた。
これからどうなるにせよ、まず第一歩を進められた。
それだけで、何かを成し遂げた気分になっていたのである。
のんきなものである。
…………そろそろ、次の章へと話は変わるわけであるが、ダラダラとこのまま久雅堂のヒストリーを続けていても仕方がない。
しかしこの話はまだしばらく続く。
だから、将来、彼がどうなるのかを先に述べておく。
◆ ◆ ◆
開店から三年目、久雅堂は地下格闘で八極拳士と対決することになるのである。
つづく。
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