第2話 当世武道事情。 

(一)

 久雅堂が地下格闘に出て八極拳士と戦うのは、古書肆『久雅堂』を開店させてから三年ほどたってからである。



   ◆ ◆ ◆



 まだ少し話は続くが、久雅堂が古書店を開店させてからしばらくはそれなりに忙しかった。

 別に繁盛していたとかそういうことではない。

 元より客入りのことなど考えず、地方都市のハズレの農地ばかりの家の片隅に開いた古書店だ。

 道の方に扉を作り、その上に適当に材木屋で拾ってきたような板の『久雅堂』と下手くそに書き込み、ニスを塗った――という、なんの店なのかすらもわからぬ有様である。

 ぱっとみて、隠れ家風のカフェであるかのように見えた。

 しかし道際と言っても隣の家との幅は二メートルもなく、軽車両ですらも通れない。その細い道がほどなく広い農道に交差するが、そこを通る車など一時間に二台あるかどうかだ。

 こんなで客が来ると思うのがどうかしている。

 久雅堂が忙しかったのは、蔵書をネット販売のためにいちいち登録していたからである。不慣れなのもあって、これが案外と時間がかかった。最初に一時間に六冊七冊というペースで、次第に慣れて一時間に十五冊ほど打ち込めるようになったものだが、それでも何千とある商品を打ち込むのは大変なものだ。

 しかしネット販売というのは、つまるところは蔵書をどれだけ登録できるかにかかっている。ものをいうのはとにかく量だ。これに手を抜けば儲けが減るのは必然である。久雅堂は大儲けがしたいわけではないが、金があるに越したことはない。

 そんなわけで、久雅堂は最初の数ヶ月はできるだけ本のデータ打ち込み作業に専念した。

 時折に近所の客が訪ねてきて、その応対にも地味に時間がかかった。

 トレーニングの時間、柔道の稽古に行く時間は確保していたものの、そんなこんなでストレスは溜まっていく。

 師範たちは気を利かせて時間外の稽古につきあってくれたり、ちょっと変わったことをして気晴らししようと、剣道の稽古などにも誘ってくださったりした。これが思いの外楽しかったのであるが、本格的にやるかと言われたら防具などが結構お金がかかるので二の足を踏んでいた。

 短期バイトなどしてまとまったお金が入れば選択肢も増えるのであるが、久雅堂は重ね重ね述べるがあまり器用な人間ではない。

 しばらくは蔵書データを打ち込みながら武道の稽古をするしかない、とそのような後ろ向きに決意していた。


 そんなある日のことである。


 久雅堂は打ち込んだデータをTwitterで宣伝していたのだが、その日はツイートしてからしばらく気が抜けてTLを眺めていると、ふと見覚えがある固有名詞が流れてきた。


『この流派は昭和○○年代くらいまでは道場があって、多くの師範がいたけど、今はもう失伝しているらしい』


「ああ、これ……」


 念の為に久雅堂はY先生からもらった伝書を収めた木箱を取り出し、中身を確認してみる。

 確かに彼が免許皆伝をもらったという流派のそれだった。

 この流派については、詳しくは触れない。この物語にこの流派の歴史も技もほとんど関係しないからであるし、名前を出すことによって不利益を被る方もでてくるだろうことが予想できるからである。


 その時、久雅堂は特に考えもせず、伝書の一部をIpadで撮り、『失伝しているらしい』のツイートに画像を載せてメンションを送った。


『自分、最近この流派の免許皆伝もらいましたよ』

『えええ。本当ですか!? 伝承者がまだ残っていたんですか』


 というところから始まり、しばらくその相手とやりとりした。

 その人は柔術研究をしているという人物で、各地の色んな流派の伝承や技に詳しかった。学者かというとそうでもないようだが、とにかく研究していて、その人のサイトやTwitterのまとめには、今まで見聞きしたこともないようなマニアックなことが書かれていた。

 久雅堂はほどほどにオタクだったが、レベルが違うなあと素直に思わされた。

 

「世の中、凄い人がいるものだ」


 と呑気に久雅堂は言って、Y先生にどういう経緯で習って、どういう稽古をつけてもらったのかなどを語った。一応、固有名詞はほぼ出さなかった。それくらいのリテラシーは彼にだってある。

 しかし思い返してみても、Y先生は柔術についてはほぼ言及はしてなかった。聞いた記憶はあるが、その時も「柔道の昔の呼び名」くらいのそっけない感じで、あんまり興味がなかったような印象だった。

 柔道の歴史なとよりも、柔道をどう「実用」するのかということによく注意していたと思う。

 それは他に指導しにきていた元警察官の師範の人もそうだったが、あの柔道教室に来ている師範たちは、競技としての柔道を軽視してたわけではないが、護身術としての柔道についてよく解説していた。

 特に相手との距離のとり方について、月に一度か二度くらいは稽古をしていたような気がする。

 Y先生は「喧嘩はしないのが一番いいけど」と しつこく言い添えてはいたが、もしも万が一にもそうなったときにはどうするか、そのことを教えない人ではなかったのだ。


『やはり、間合いを詰めてしまうのが一番いいですかね』


 久雅堂の念頭にあるのは、ひところ流行ったブラジリアン柔術があった。

 タックルから倒して寝技で決めるという戦い方は、当時の総合格闘技界に大きな衝撃をもたらせたという。

 リアルタイム世代ではないが、格闘技に興味があるのならば誰もが知る歴史だ。

 Y先生は手を振って。


『いやいや、まず相手から離れなさい。間違っても、相手の攻撃が当たる距離に身を置いてはいけない』

『そうですか?』

『相手が何をしてくるかわからないときの選択肢は、まず離れることです。なにもさせないで倒せるのならそれに越したことはないですが、君はそんな達人でもないでしょう?』

『それはまあ、そうですね』

『相手が何者か解らない状況なら、まず離れることを考えなさい。そのまま逃げられるのなら、そうした方がいいくらいだ』


 そうできない場合は、そのまま戦うしかないわけであるが。

 Y先生たち師範は、まず離れるための注意と、離れてからの目付、間合いなどについて解説をした。

 後で解ることであるし、当時もうすうす感じてはいたが、このあたりの用語は剣道なども混じっていたようだ。

 師範たちは柔道の先生ではあったけれど、他武道――剣道、空手、少林寺拳法、合気道などの段位も持っていた。

 久雅堂も武道家になるのならば、色々と学ぶのもいいと言われてたものである。その流れでとりあえず剣道のお誘いなどしてくれていたわけだ。


 ……そんな感じの覚えている限りの稽古の話などを語ったのであるが、ツイッターの柔術研究家の人は「流派はあんまり関係ないみたいですね」と言った。

 伝書などで知られるその流派の特徴になるもの、あるいは心法や口伝、武器術などについての話を一切、久雅堂は聞いてなかった。

 Y先生に習っていた頃の修行メモをひっくり返しても、それらしい用語は欠片も確認できない。

 ちなみに、そのあたりのことはだいたいが世間で知られていることでもあった。古武道研究などをしている、狭い世間でのことであるが。

 明治大正の頃はそれなりに知られていて、戦後も道場があったというくらいには盛んだったので、関係者の証言や資料が豊富なのである。


『記録では、昭和に入った頃には流派の師範たちが武徳会の段位を得ていたことが解っています。どうもその頃にはほぼ内容は柔道になっていたようですね』

『武徳会ですか』


 久雅堂もさすがに武徳会くらいは知っている。

 戦前の京都にあった、とても権威があった武道組織だ。柔道剣道を始めとして多種の武道が指導され、多くの武道家が所属していたという。戦後になってGHQによって解体された。

 厳密には資料などを継承した戦後武徳会があるが、現在では段位などは発行していない。

 

『やはり地方の流派の先生よりも、武徳会のような権威から発行される段位を持っていた方がステータスになった場合も多かったようです。あと試合もルールが決まるとそれに適応した技術が発達していくわけですからね』

『柔道のルールで戦うのなら、柔道学ぶのが一番手っ取り早いですものね』


 環境メタで技術が磨かれるというのは、あらゆる武道、格闘技に見られることである。戦前の柔術でも同様だったらしい。

 久雅堂はそのあたりの事情にもそれなりに理解があった。

 古流柔術の歴史には通り一遍の知識しかなかったが、柔術研究家の方の言葉は解りやすく、納得のいくものであった。

 それに環境に適した技術が発展していくのは、90年代以降、21世紀の総合格闘技でも顕著なものであり、聞いていると「歴史は繰り返す」というのはこと格闘技の事情でも例外ではないのだなあと思わせた。


 とまあ、そんな感じで色々とやりとりしたのだが。


 結局のところ、Y先生は柔道の指導をしつつ柔術も指導していた――ということも特になく。

 他武道の用語や技なども多少混じってはいたが、それも合気道や少林寺拳法のような現代武道のもので、基本的に柔道を指導していた、という結論になった。


『昔は柔術剣術の道場だったのが、そのまま剣道柔道のそれになった例は結構あります。看板をそのままに、内実はほぼ剣道柔道になったという流派も、それなりにあるみたいです』

『なるほど……』

『Y先生の場合は柔術と柔道を併修して、柔道家としてその後のキャリアを過ごされていたそうですし、聞いた感じだと、元々、あまり区別がなかった気もします』


 確か「柔道の昔の呼び名」くらいにしか言ってなかったが、それは同時に、柔道も柔術の区別も特につけてなかったのだろうことを意味している……そんな風に言われたら、なんだかそんな気がしてきた。

 そして恐らく、今まで柔道教室にいた人間には一度も発行しなかった免許皆伝の免状を、臨終の際に出したのは、久雅堂を別に「弟子」と見做したからだろう……ということになった。


『弟子――ですか』

『正確なところは、今となっては誰にも解りませんけども』


 ただの生徒たちとは、また違う付き合いだったというのは、感じていたが。

 それは自分からは口にできるようなことではなかったし、そんなことをY先生にこちらから聞けることではなかったので、改めてそのようなことを見知らぬ人に言われると、なんだか少し気恥ずかしいやら、嬉しいやら。


「先生の、弟子か――」


 それは少し、久雅堂を感傷的にさせたが。

 その時は、それだけのことだった。

 その研究者の人にとっても、とりあえず知りたかったことについてある程度の納得がいったとのことだった。

 曰く。


『そのような伝承状況であるということが知れただけでも、十分です。形や口伝がなく、伝書だけの相伝という形態には色々な意見があるでしょうけども、指導内容と伝書の記載が全然別物になっているという流派は他にもありますしね』


 そんなものらしい。


『とにかくY先生は、あなたが流派の免許皆伝にふさわしいと考えて授与したのですから、そのことは卑下しないでくださいね』

『はは。ありがとうございます。』


 そんな感じに話は終わったのであるが。


『あ、この話、まとめておいてもいいですか?』


 まとめ、というのはTwitterのやりとりをまとめておいて、読めるようにするものであるが、その時の久雅堂は特に何か問題になるとは思ってなかったので、二つ返事に「いいですよ」と言った。


 これがよくなかった。



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