二 他人の目
「…………?」
そんなことを考えながら大浴場のある別館へと向かう廊下を歩いていると、宿の仲居さんが二人、仕事の合間に世間話をしているのが聞こえてきた。
「――さっき来たお客さんのこと聞いた? なんか気味の悪い覆面をした人負ぶってたんだとか。その覆面の人は一言も話しないっていうし」
「聞いた! 聞いた! チェックインの時にもずっと負ぶったままだったそうじゃない。あたしの感だと、きっと何かあるね」
いかにも噂話が好きそうな中年の仲居さん達で、周りに宿泊客がいないのをこれ幸いと、おしゃべりに夢中になっている。
耳に入ったその内容からして、十中八九、僕らのことを言っているのだろう……無論、不愉快でないと言えば嘘になるが、これもいつものことだ。今さら腹を立てても仕方がない。
「……はっ! ちょ、ちょっと……」
「……あっ! ど、どうもぉ……ご、ごゆっくりぃ~……」
むしろこちらの方が気を遣って素知らぬ顔でそのまま歩いてゆくと、ようやく僕の存在に気づいた二人は大きく目を見開き、下手な誤魔化し方をしてそそくさとその場を去っていった。
僕がそのお客本人だとまでは知らないだろうが、宿泊客の噂話に花を咲かせていたところを見られ、さすがに気まずかったのだろう。
毎回のことなのでもう諦めているが、なんだかなあ……という感じだ。そんなに覆面をした父親を背負った旅行客が珍しいだろうか?
旅行の度に体験するこうした憂鬱な人々の反応であるが、それでもこの宿の素晴らしい露天風呂は、そんな僕のどんよりとした曇り空ような感情を晴らしてくれた。
広い浴場に他にお客はいないので僕の貸し切り状態。借景にしている奥山の緑も美しく、まるで自然の中に沸いている温泉に入っているかのようだ。
「父さんも入れてあげられればいいのになあ……」
この贅沢な感覚を独り占めするのももったいなく、そんなことも思ってみたりもするのだが、やはり父さんの体のことを考えると、ここはお互いに我慢するしかないであろう。
「さて、いつまでも父さんを一人にしといちゃかわいそうだし、そろそろ上がるかな……」
それほど長い時間でもなかったが、温泉を充分に堪能した僕は露天風呂を出ると、軽やかな気分で父さんの待つ部屋へと向かった。
…………ところが。
「……あの? 何してるんですか?」
部屋へ戻ってみると、今度はこの宿の青い法被を着た男性従業員が入口の引き戸にぴったり体を付けて立ち、明らかに戸の隙間から部屋の中を覗こうとしていた。
「うわっ! ……い、いえ、別に……あ! そ、そうです! お夕飯は何時にお運びすればいいのかなあと思いまして、そ、それでお窺いをたてに……」
目を細めて僕が声をかけると、彼は今にも腰を抜かすほどにびっくり仰天して、しどろもどえろになりながら言い訳をしている。もっともらしい理由を思いついたらしいが、もう「あ!」とか言っちゃってるし……。
「夕飯なら六時と女将さんに聞いてますよ? もし都合悪ければ、その時、お伝えしています」
物盗りというわけでもないだろうし、彼もまた、どうせ父さんのことが気になって様子を見にきたのだろう……この狼狽ぶりをみると、「あなた、今、部屋の中覗いてたでしょう?」と直球で問い詰めるのもかわいそうだったので、僕は彼に話を合わせると、穏やかにその無礼極まりない行為を批判してやった。
「そ、そうですよ……し、失礼しましたあぁあぁぁ~!」
嘘のバレてるのがわかつたのであろうか、彼は叫ぶようにして謝ると、這う這うの
けっこうな小心者らしいが、だったらこんなことしなきゃいいのにと思ったりもする。まったく、庭や温泉は申し分ないが、この宿は従業員の教育がなっていないようだ。
こんなこともあるから、やはり父さんには僕がついていなくては駄目なのだ。
「待たせたね、父さん。一人にしちゃってごめんね。テレビも飽きたろうし、庭でも見に行こうか?」
鍵を開けて部屋へはいると、やはり父さんは僕の点けたテレビをチャンネルも変えぬまま、ただ黙ってぼうっと眺めていた。
こんなことではよりいっそう惚けが進んでしまう。僕は父さんに声をかけると、夕飯までの空いた時間、先程の見事な庭を二人で見て過ごすことにした。
もちろん、父さんは人目を嫌うので再び覆面とミトンの手袋を着け、歩けないので僕が負ぶってである。
「どう、父さん? 綺麗な庭でしょう? ちょっと座って夕涼みでもしようか?」
回遊式庭園なので、
この庭の風情を壊さぬようにとの配慮だろう、円筒形をした陶器製の趣のある椅子なのだが、父さんは関節が固まっているし、背中も丸まっているので座らせるのになかなか苦労した。
バランスよく座らせないと、ころんと転がって地面に倒れてしまう。
そうしてしばらくあくせくしていると、気づけば他の宿泊客達も姿を見せていて、僕らの様子を訝しげにじっと覗っていた。
「いやあ、どうも、こんにちは」
恥ずかしいところを見られたと思い、僕は苦笑いを浮かべてそう挨拶したのであるが、するとみんな決まって、急に視線を逸らすとまるで見ていなかったかのような素振りを演じてみせる。
そうか……あの人達も父さんの覆面のことが気になる反面、じろじろ見ちゃいけないと思っているんだな……別にそんな特別扱いせず、もっと気楽に、普通に接してくれればいいのに……。
「そろそろ行こうか、父さん。もうじき夕飯だし」
じろじろ見られるのは父さんも嫌がるだろうし、他のお客さん達に気を遣わせるもなんだか居た堪れなかったので、僕は父さんをまた負ぶると、部屋へ戻ることにした。
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