父さんとの旅路

平中なごん

一 本日の宿

「――ごめんください。予約した孝山ですけど……」


「ああ、孝山様、ようこそお越しくださいました。ど…!? ……あ、ああいやあ、どうぞ、ごゆっくりしていつてください……」


 とあるひなびた温泉街、予約していた宿に入ると、僕らの姿を見た女将さんがあからさまにギョっとした表情で挨拶をした。


 慌てて取り繕ってはみせたが、驚きと警戒感を抱いたことは見ればすぐに知れる。おそらくは、僕が担いでいる父さんの姿に度肝を抜かれたのだろう。


 今、僕の背にいる父さんは、小袖に長い半纏を羽織り、脚には股引ももひきに靴下というほぼ和装であるが、その頭にはすっぽり黒い頭巾をかぶり、両の手にもミトンの手袋を嵌めている。


 皺くちゃな上にガリガリなその外見を他人に晒すのが嫌だと煩いので、外出する時にはこのような格好をさせているのだ。


 そのくせ、遊びに行きたいとも主張するため、時折、こうして僕が旅行に連れてきていたりもする。


 だから、女将さんのその反応にも特に衝撃を受けるようなことはない。そんな父さんを見た人々の反応にはもう馴れっこなのだ。


「あ、あの、こちらを書いていただきたいのですが……お疲れでしょう? どうぞ、お父様にはあちらのソファをお使いになっていただければと……」


「ああ、大丈夫です。慣れてますし、こう見えて意外と父は軽いんですよ……」


 受付カウンターでチェックインをする際、女将さんがそれとなく気を遣ってそう言ってくれるが、僕は手を振って断ると父さんをおんぶしたまま用紙に記入した。


 そのお心遣いは大変うれしいのだが、逆に一旦下ろすと、また担ぐのがむしろ大変なのである。


「で、では、お部屋はこちらになります……」


 そうしてチャックインを済ませた僕らは、まだ動揺の残る女将さんに案内されて自分達の泊まる部屋へと長い廊下を進む。


 父さんは静かな場所が好きなので、なるべく奥まった部屋を頼んでおいたのだ。


 ひなびた温泉街ということもあり、幸いお客は少ないらしく、宿の中はいたって静かである。


 廊下を歩いて行く途中、大きなガラス戸から中庭を覗うことができたが、中央の池を囲むように奇岩や樹木が配された、回遊式のなかなかに風情のある日本庭園だ。後で父さんも連れてきてやろう。


 そんな庭を見る限り、どうやら良い宿に当たったようである……ただ、廊下を行く間も、終始、女将さんはチラチラとこちらを振り返り、僕ら親子に警戒とも疑念ともとれる視線をそこはかとなく送ってきていた。


 お客としてはあまり気分のよいものではないが、これもまあいつものことだ。一々気にしていても仕方がない。


「お風呂は庭の反対側の別館、お夕飯は六時にお運びします。それでは、ごゆっくり……」


「ありがとうございます……父さん疲れたでしょう。今、茶煎れるよ」


 監視するような目を向けつつ女将さんが下がってゆくと、僕は父さんを座椅子に下ろし、テーブルの上に用意されているお茶のセットで緑茶を二人分用意した。


 そして、父さんの頭巾とミトン手袋を外してやると、目の前に茶碗と、一緒に置かれていた温泉定番の甘いお菓子を置いてやる。


 普段からそうなのだが、父さんは何から何まで僕がやってあげなくては駄目なのだ。


 若くして母が亡くなり、ずっと僕との二人暮らし。前々から家事全般は僕の担当だったが、数年前に脳梗塞で半身動かなくなってからは、本当に何から何までこんな感じである。


「さあ、父さん、お茶が入ったよ」


 茶碗から上がる白い湯気が、皺だらけの顔にかかる父さんに向って僕はそう促す。


 だが、せっかく煎れてあげたというのに、父さんは「いらない」と言ってまるで手をつけようとはしない。


 まただ。こうやって人の親切を無碍にする父さんの偏屈である。


 もとからこうした偏屈なところのある性格だったけれど、やはり体の自由が利かずにイライラにするためか? ここ数年で特にその偏屈はひどくなった。


 僕だって人間なので、時にはそれに我慢の限界を迎えることもある。


 ある時なんか、あまりの偏屈に我慢がならず、怒りを爆発させると言うこと聞かない父さんをベッドに縛り付け、しばらく放置するという折檻を行ってしまったこともあった。


 だが、それ以降、元気がなくなり、何かする意欲がなくなる反面、前にも増して僕の言う通りにしてくれなくなってしまったので、僕も反省してなるべく怒りを抑え、父さんには優しく接するようにしている。


「さて、せっかくの温泉だし、僕はお風呂に行ってくるよ。父さんはテレビでも見てゆっくりしてて」


 いつものことながら、父さんがお茶にもお茶菓子にも手を付けないままぼけっとしているので、僕は父さんをそのまま置いて、この宿自慢の露天風呂へ入ることにした。


 いつの頃からか、父さんはどうも肌が弱くなってしまったらしく、お風呂は苦手なのだ。前に一度入れた時なんか肌がふやけたようになってしまって大変だった。


 だから、今は感染症対策なんかも鑑み、たまにアルコールも含ませた水タオルで拭いてやるようにしている。


「じゃ、行ってくるけど、おとなしくしてるんだよ? リモコンはここにおいとくから」


 お風呂に行く準備をして父さんのためにテレビを付けると、僕はそう断りを入れて部屋を出る。


 旅館とはいえ、高齢者が一人というのは不用心なので、もちろん鍵をかけてだ。


 まあ、戸尾さんに放浪癖はないので、その点は安心なのだが……その代わり、少々惚けが進んだのか、ほんとに時分から何かやろうという意欲がない。一応、ああ言って声をかけたが、おそらくテレビも僕が選んだ番組をそのまま変えずに見ていることだろう。

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