黒い筆

―――やってしまった。



 心配そうに、そして少し気まずそうに黒川さんが僕の顔を覗き込む。雲の多い今日の空がさらに曇っていくのを感じた。少しの沈黙の後ポツリポツリと雨が降り出した。小さくため息をついて僕は重い口を開ける。


「僕の目には全部白黒にしか映らない」


「そう、だったんだ……」


 黒川さんが少しの間下を向いて何かを考える。すぐに顔を上げて僕の方をまっすぐに向いて質問を投げかけてきた。


「私以外の人はそのこと知ってたりするの?」


「いや、先生と一組の青山悠太は知ってる」


「どうしてクラスの人たちには黙ってるの?」


「劣ってるとか、かわいそうだとか思われたくないんだ」

「こんな目でも僕の体の一部だから、他人に同情なんてされたくなくて…」


 僕は知っていた。同情されたくないと言う者に対して人は必ず同情してしまう。同情を拒む時点でその人間は同情の対象になるのだ。同情をされないような待遇にある人間からこのような言葉は発せられない。


 だから僕は同情を拒んでいることすら知られたくはなかった。目のことを隠すことで自分の弱さも隠すことができたのだ。今回黒川さんに知られてしまったのは自分のミスだから仕方がない。幸い他に人はおらず、黒川さんは他のクラスメイトとワイワイ話すタイプではない。ここは穏便に済ませてもらおう。


「黒川さん、このことは他の人には…」


「分かってるよ、白井君は強いね」


 強くなってきた雨の音で聞き間違えたのだろう。たった今弱みをさらけ出した人間のことを強いだなんて言うはずがない。


「僕が強い?」


「強いよ、白井君は」

「自分を強くもってる、大切にしてる、だから強い」


「僕が強いかどうかはまだ分からないけど、そうやって言われたのは初めてだ」


 黒川さんの言うことを理解した訳じゃなかったけれど、彼女の言葉に同情の意味が込められていないことは分かった。強いという表現になんだかとても嬉しくなって、緩んだ口角を彼女に見せまいと精いっぱい歯をくいしばった。


 校庭の水たまりには激しく波紋が広がっていた。朝家を出るときの空は奇麗に晴れていたので傘はもってきていなかった。悠太が所属するサッカー部は雨でもおかまいなしで外で練習していた。


「それじゃ、そろそろ帰る」


「すごい雨だけど傘はあるの?」


「ちゃんと持ってる」


「嘘だね」


「えっ」


 嘘を悟られないよう自信に満ち溢れた表情で即答したのに、あっけなく嘘だとバレてしまったようだ。


「よかったら私の部活見に来てよ」


「他の部員の邪魔になるだろ」


「私しかいないから大丈夫」


「最低五人はいないと部活は成り立たないだろ?」


「そのとーり」


 彼女はいたずらに笑った。


「???」


「帰宅部を四人捕まえて名前だけ借りてるの」


「帰宅部にそんな使い道が!」


「部費が発生するのが唯一の問題だけどね」


「部費は黒川さんが負担してると」


「そういうこと、私としてはちゃんとした部員が欲しいところだけどね」


「うちは運動部に力を入れてるからな」


「そうなんだよね…」


「そのうち一人ぐらいは現れるさ」


「そうだね、それで白井君は見学してくれるの?」


「別にいいけど、見ても分からないと思う」


 色の識別ができない僕に美術の作品の善し悪しなんて分かるはずがなかった。


「いいからいいから!」


 彼女は僕の話を聞いていたのだろうか。聞いた上での言動なのだろうか。彼女の真意こそ理解はできなかったがその無邪気な言動からは同情とは真逆の意味を感じた。


「分かったよ」


 校舎の教室部分と芸術棟とを繋ぐ渡り廊下を渡って美術室を目指す。渡り廊下に出ると雨がさっきより強くなっているのがはっきり分かった。芸術棟に入って階段で一階に降りるとそこに美術室がある。鍵を開けて中に入る。


 広すぎず少しほこりっぽい教室にたくさんのキャンバスが置かれている。すべてのキャンバスに布が被っていて、彫刻や粘土の作品は見当たらなかった。


「黒川さんは絵画を描くのか」


「そうだね、たくさんの色でたくさんの景色を描くの」


「ほー、とりあえず見てみようか」


 一番近くにあったキャンバスの布を取ろうとすると、彼女は急いで駆け寄ってきて僕の腕を掴んだ。


「ちょっと待って!」


 お互い驚いて言葉が出ずしばらくの沈黙が生まれた。彼女は慌てて手を離すと申し訳なさそうにこちらを見た。


「最初は今から描くのを見てほしいな」


「なんだそういうことか、びっくりした」


「じゃあ描き終わるまでそこに座ってて」


「りょーかい」


 彼女はキャンバスに向かうと真剣な表情で描き始めた。パレットの上にはいくつかの黒い塊がのっていて、彼女の筆によって引き延ばされる。他の塊と混ざり合って再び引き延ばされる。おそらく色を作っているのだろう。


 黙々と絵を描く彼女の手にはさっき僕が手渡した筆があって、その筆の先にしみ込んだ絵の具の色を僕は知りたいと思った。


 部活動でのエアコンの使用は禁止されていたので、そばにあった扇風機を彼女の邪魔にならないように僕の方に向けてから電源を付けた。ボーっと彼女の顔を見つめて時間が経つのを待った。同じクラスの女子と二人静かな教室にいる。とても新鮮な環境ではあったが不思議と心は落ち着いていた。


「できた!」


 体感では30程度だろうか、長い沈黙を経て彼女の作品が完成したらしい。重い腰を浮かせて腕を天井に向け伸びをした。また小さなため息をついてゆっくりと彼女の後ろ側に回り込む。


「えっ」


 キャンバスを見た瞬間全身に衝撃が走った。鼓動は早くなり汗が止まらくなる。乾ききった口からは言葉を発することができなかった。


「白井君を描いてみたの、どう?」


 そう言って彼女はどこかの歩いて行った。未だに声が出ない僕の手は震えていて、さっき彼女が座っていた椅子に倒れるように座ると自分の頬を涙が流れていることに気づいた。


「こっちみて!」


 彼女の声に反応して顔を上げると、そこには文字通り目を疑う光景が広がっていた。


「見える、見える、見える見える見える、見える……」


「感動して泣いてくれてるんだよね」


 色んな感情が込み上げてきて上手く話せなかった。彼女はどうして良いのか分からずあたふたしている。必死に全身の震えを抑えて喉の奥から言葉を絞り出した。


「ありがとう」


「ど、どういたしまして?」


 彼女は少し照れ臭くなったのか僕から目を逸らして窓の方をみた。


「虹だ!」


 窓を開けると雨は止んでいて太陽の光が雲の隙間から漏れて街中に降り注いでいるのが分かった。彼女の目に映る虹は僕には分からなかったけど、美術室の中にはたくさんのが広がっていた。


 彼女の作品の一つにこの学校から見た街の様子が描かれていて、その街の空には七色の虹がかかっていた。僕にはそれが何という色か分からなかったが、それが今彼女が見ている虹というものであることは分かった。




―――高校二年の七月、夏休みの三日前。

    

 この日初めて、僕はを見た。

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モノクローム 一等星 @Tousei-Ninomae

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