第4話 過去に耽る

――その日は、激しい雷雨だった。


 僕はいつも通り傘を持って工房へと向かう。

 この天気じゃきっとあの子は来ない。

 だからその日は椅子を用意しなかった。


 結局、その日は予想した通りだった。

 ついに彼女が姿を見せることはなかったのだ。


 進める腕。段々と日が暮れて、

 夜が顔を出す頃には空はもう晴れ、

 五月蝿かった外は異様に静まり返っていた。


 明日は来るんだろうか。

 帰り際、部屋の端に重ねる椅子を二つ下ろした。


 だが、その次の日も、

 その次の次の日も、

 もう二度と、彼女が姿を現すことはなかった。


 最初のうちはもう飽きられたんだと、

 所詮そんなもんだったんだと、

 信じたくもない可能性を受け入れた。

 だから、何も行動は起こさなかった。


 あの絵も、描くのを辞めた。

 友達でも何でもない人に自身の絵を描かれて、

 挙句の果てにずっと飾られるなんて、

 きっと、嫌だろうから。


 それからずっと僕は小屋に引きこもった。

 人が誰も住んでないのをいい事に、

 勝手に自身の家としたその小屋。

 いつ本当の宿主がここに帰ってくるのか。

 心配で毎日夜は遅く、

 朝目が覚める度に全神経は尖り、

 全身は汗で濡れていた。

 まともに寝られた日はなかった。


 でも、少し期待している自分がいた。

 もしかしたらって、

 何度も。


 その日僕は久しぶりに外に出た。

 伸びきった草をかき分けて、

 あの工房に向かった。

 彼女の姿を、心の隅で期待して。


 少しずつ森の奥へと進める足。

 それに伴って徐々に見えてくる工房の屋根。

 距離はまだ遠い。

 段々と鼓動が煩くなるのを感じていた。


 そして、やがて迎えた最後の垣根の前。

 遮る様に茂る枝を前に、少年は立ち止まった。

 あの日から時間が経っている事を、

 改めて感じさせられていた。

 掻き分けようとその枝に手をかける。


 高鳴る心臓が痛い。

 震える両手両足とがその先に抱くのは恐怖だ。

 真実を知る、その行動に抱く、この感情。

 知りたくないのか? と。

 動かない腕に一人心の中で語りかける。


「――――」


 ゆっくりと肩が上がる。

 続けて少年は一つ深呼吸をして、前を向いた。


 彼女に会えたら、まず謝ろう。

 昨日一昨日と数日間ここに顔を出さなかった事。

 今日こうして遅れてしまった事。

 あの日以来絵を全然進められていない事。


 前を向いた。

 行くしかない。

 彼女はきっと居る。


 少年が、勢いよく枝を抜けた。


「――ゆづる君?」


 聞こえてくる言葉。

 それは、彼女がいつも呼ぶ僕の名前。


――なのに、違う。


 それは、彼女の声じゃない。

 嗄れた、誰か別の、男の声だった。


「――誰だ、お前」


 少年の顔が歪む。

 工房の扉の右側で、

 震える右手が地に着く杖を握り、

 もう片方でそれを支えるようにして立っている。

 歳は五、六十代程に伺えるが、

 今まで見たことの無いその容姿と声。

 何故、僕の名前を知っているのだろうか。

 大体、人との交流を絶った僕を、何処で――。


 一つだけ、心当たりがあった。


 気の所為だと信じたい。

 違うと信じたい。

 怖い。とにかく怖かった。

 だから、少年の口からは聞けなかった。

 真実を、確かめなければいけないのに、

 聞くことが、出来なかった。


「――葉月しお。この名前を、知っているかい」


 嫌だ。もう、やめてくれ。


 男から語られるのは彼女の。

 あの子の、名前だった。

 嫌な予感がする。

 きっと違う。

 否定したい。

 あの子は来る。

 だから。


「しおはもうここには来れない。今日はその事を私が。――あの子の代わりに、君に伝えに来たんだ」


 聞きたくない。

 いっその事、嫌われて。

 飽きられて離れた。

 それだけの結末の方が、マシだった。


「何、言ってんだ、お前――」


 受け入れられない脳。

 受け入れたくないと、現実を拒む。

 歪んだ顔で少年は苦く笑った。


「この間、雨が降ったのを君も知っているだろう。この辺りでは珍しい、局地的な大雨の降った、あの日を」


 男の表情は変わらない。

 吹く風に仰がれる羽織る布。

 青い目は、真っ直ぐと少年を見つめていた。


「……しおは来なかった。あんな日に、態々こんな所まで来るやつなんかいる訳ない」


 嘘だった。

 口にしている時点で。

 心のどこかでは、あの子ならきっと、と。

 否定する自分が既に居る。


 開きかけた男の口。

 少年はそれを見ていた。

 だから、また続けて口を開いた。


「僕は嫌われたんだろ? 飽きられたんだろ? ここに来たくないから、代わりに爺さんに頼んだんだろ?」


――少年は、泣いていた。


 気持ちを偽って、

 必死に言葉をぶつけた。


「なぁ、そうだって言えよ。もう会いたくないって。会えないって言われたって。それとも、僕に残す言葉も無かったか?」


――誤魔化そうと、必死に笑った。


 歪んだ表情に、男は何を思っただろう。

 少年は、自分は上手く偽れているのだと、

 そう信じて疑わなかったのだろうか。


「応えろよッ!! なぁ……ッ! 頼む。お願いだ。お願いします。だから――」


――だけど、心は既に限界を迎えていた。


 ぐちゃぐちゃの顔と、崩れ落ち着く膝。

 地面に這わせる掌。

 男に対して土下座に近い体勢をとる。


「――だから、それ以上。何も言わないで……」


 少年の声が、静かな森にただ響いた。

 見慣れない人の影に生き物達は皆息を潜める。

 木々はそっと少年と男とを包み込み、

 誰も立ち入らぬよう道を閉じた。


――零れる滴が地面に染みを作る。


 そっとその背に置かれたしわの目立つ手が、

 泣く少年をただ宥める。

 その男もまた、きっと、

 張り裂けそうな想いを抱えていたことだろう。


 あとから聞いた話があった。

 少年よりも長い付き合いとなる、

 孫と祖父との関係。

 誰よりも大切で、誰よりも一緒に居た、

 かけがえのない命だという話。


 そんな彼女の死を、自身の口から、

 ましてや、その生前の友人に、

 ずっと彼女を待ち続けている少年に、

 それを告げなければならなかったなんて。


 今振り返れば辛い思いをさせてしまったと、

 少年は後悔の意に駆られる。


 今の今まで壊れてしまっていた自分自身。

 とはいえ、その後も続けてきた、

 彼に対する酷い態度や扱いは、

 当然許されることではないだろう。

 少年は、また一つ後悔に胸を痛める。


 大人と子供。

 その対応の差なのだと言えば簡単だ。

 だが人の死は平等に、

 どちらの方が悲しんでいたと、

 決めつけるべき話ではない。


 笑う少女と目を合わせたまま。

 少年の頬に、一つ涙が伝って、落ちた。

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