第3話 三度目の瑞雨

「……ん」


 異様な空気。

 いつもとは違う雰囲気に目が覚める。


 今日は風が冷たい。

 眩しさを感じない。

 生き物の気配もまた、感じなかった。


――ザァァァ。


「――――ッ!!」


 肌に触れる空気は湿っている。

 聞きたく無かった音。

 雨の少ないこの地域で、

 今月で三度目となるのは一体何年ぶりだろうか。


 飛び起きる少年。

 扉を荒々しく抜けあの工房へと走る。


 厚い雲に隠れ陽は見えないが、

 時間は大体お昼を回る位だろう。


 雨にぬかるんだ土。

 視界の端で波紋の広がる水溜まり。

 どこかで蛙が鳴いている。


 走って、走って、ただひたすらに走った。

 泥濘に足を取られぬよう。

 吹く向かい風に負けぬよう。


 早く。早く、急がなければ。


 程なくして薄らと視界に映るあの屋根。

 元々年季の入っていた建物が時折あげる悲鳴。

 それが、段々と近くなっていた。


 荒れる森。

 乱れる枝を手で防ぎ、それを抜ける。

 拓けた草原に吹く風は更に強かった。

 やっとの思いで扉へと駆け寄り、

 そのドアノブを強く掴み開く。

 運動に慣れていない身体。

 少年は肩を上下させながらその中を見た。


「……あぁ」


 想定していた中で一番最悪の状態であった。


 部屋の中は、もう既に水浸し。

 あちこちで水たまりができ、

 古いキャンバスの数々がふやけ、

 絵の具が酷く滲んでいる。

 倒れるイーゼルの一部はバラバラだ。


 引きずって進む足。

 少年の視線は先程から真っ直ぐ。

 壁に掛けられたあの大きな絵が、

 あの少女の絵が、風に負け落ちていた。


「今、助けるから――っ」


 濡れる床に足が滑る。

 咄嗟に右手をつき、何とか転ばずに済む。

 痛む手のひらを握り、

 彼女がいる面を下に倒れた、

 キャンバスの元へと駆け寄った。


――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。


 無事であって欲しいと、願った。

 心臓が痛い。

 手が震える。


 掴むキャンバスの角。

 自分の背よりも高いそれを、必死に持ち上げる。

 精一杯の力を込め、壁に向かって強く押す。

 何度も呻きが漏れた。


――ガタンッ。


 音を立て、キャンバスが壁にもたれかかる。

 漸く拝めた彼女の顔。

 少年が、膝を着いた。


「嫌だ、そんな……」


 その絵は、酷い有様だった。


 女の顔は流れる様に溶け、

 元々割れていた絵の具の所々が剥がれ落ち、

 背景は水に溶けて歪み、

 かつての美しさは、もうどこにも無かった。


――助けなきゃ。


 辺りに散らばる絵具の数々。

 その中でも無事な紙やキャンバスを拾い集め、

 濡れた水分をそれで吸い取ろうと当てる。


 雨漏りから逃れるよう、

 角に丸めて積んだブルーシートと、

 木の素材とで、軽い屋根を作った。


 筆やパレットといった絵具は見当たらない。

 少年が手当たり次第に絵の具のチューブを掴む。

 蓋を開け、力強く親指で押す。

 だがそのどれにももう残ってはいなかった。


「――――」


 少年は飛ぶように工房を後にした。

 元来た道を駆け、小屋の扉を掴む。

 じゃらじゃらと鉄の擦れる音のする袋。

 それを掴んで、また外に出た。


 そしてまた戻る森の中。

 その奥の、さらに細い獣道を駆ける。


――急がなきゃ。


 ずっと、ずっとそうして坂を下った。

 整備していない道は草木も伸びきったままだ。

 時折掠める枝や葉が、その頬に傷をつける。


 何度も、何度も転んだ。

 膝も腕もぐちゃぐちゃで、

 頭も服も雨に濡れていた。


 気が付けば、街に出ていた。

 酷い雨。町人の殆どは家に居たが、

 時折、興味本位で見に出た子供に、

 指を刺されて笑われた。


 だがそれでも少年は駆けた。

 久々の街は、綺麗になっていて、

 もしかしたら、これから向かう場所は、

 もうあの時のままではないのかもしれない。


 それでも、微かな希望をかけて少年は走った。


――カランカラン。


 洋風で、かなり古びた外見の小さな店。

 壁に蔦が生い茂り、蜘蛛が小さな巣を作る。

 その扉を開けた時に鳴るこの音までもが、

 当時と何も変わっていなかった事に、

 ひとまず少年は安堵した。


「――珍しいお客さんだね」


 カウンターで腰をかけ背を丸める男の年寄り。

 瞑ったままの瞳と、髭の覆う優しそうな笑み。

 嗄れた声が、少年を迎え入れる。


 今でもよくお世話になっている、爺さんだ。


 あの日以来、街に下りなくなった少年。

 そんな彼に、男は態々商人と称して、

 食料をあの高台まで一人で運んでいた。

 結局いつもパンしか頼まぬ少年に、

 彼はいつも必ず他の食料も詰めて運んでいた。

 無駄な荷物になると、分かっているのに。


「そろそろだと思っていたよ」


 細い喉から絞り出される声。

 弱々しい細い腕が少年を呼んだ。


「今日は、違うものを買いに来たんだね?」


 和やかな笑みが少年を見上げる。


「――絵の具を。絵の具を、買いに来たんです」


 その言葉に、彼は深く頷く。


「あるよ。この、絵の具だろう」


 古びたチューブと、パレットと二本の筆。

 少年が驚き老人の顔を見る。


「それもきっと必要なんだろう?」


 深く頭を下げた。

 握りしめた泥だらけの袋をその横に置き、

 新しい袋に絵具を詰める。


「お釣りは気持ち程度です。――ありがとうございました」


 それだけを言い残して少年は背を向けた。

 急がなくては行けない。

 ゆっくりしている暇はないと。


「――その絵の具はもう、この辺りでは作られていないよ。同じものは、そう長くは続かない」


 ゆっくりと語られる老人の言葉。

 扉を掴んだ手が止まる。

 背を向けたまま、

 ただ前を見つめ耳をすませた。


「どんな物も、時につれ新しく生まれ変わっていく。――お前も、そろそろ受け入れるべき日が来たんじゃないのかい」


 少年が強く唇を噛んだ。

 老人の言葉が正しいか否かぐらい、

 今の少年でも区別はつく。


「これが最後だ。お前がまたここを訪ねてきてくれる事を、祈っているよ」


――カランカラン。


 少年はまた、来た家路を駆けた。

 荒々しい雨粒が容赦なく少年へと当たる。

 遠くで唸る稲光が、隣の街へと落ちた。


 涙なのか汗なのか雨粒なのか分からない水滴が、

 少年の頬を伝って地と袋とに染みを作る。

 絵具が雨に濡れぬよう、

 ずぶ濡れの体で精一杯雨粒から守って走った。


 帰りは、行きよりも時間がかかった。

 ぬかるんだ土はよく滑る。

 何度も何度も足を取られた。


 苦労の末漸く見えた工房の建物。

 少年がどれ程の思いに耽ったか、

 想像に難くない。


 少年はそこに袋を置き、一度小屋へと戻った。

 今のこの体では作業の仕様がない。

 数少ない予備の服に着替えながら、

 少年は一つ大きなくしゃみをした。


 久々に開く傘。

 なるべく肌に雨が触れぬよう、そして転ばぬように気をつけながらも急ぎ足で向かう。

 壁に掛けられた梯子をブルーシートの屋根の中へと避難させ、次々と道具を並べていく。


 幸運か否か。

 幸いにも水の変えには困らなかった。


 少年は、それから何日も何十日も工房に篭もり作業に取り掛かった。

 無駄にできない最後の絵の具。

 失敗は許されない中、緊張半分に筆を握る。

 パレットに色が落とされ、徐々に鮮やかな色へと姿を変えていく。


――ミーンミンミンミン。


 雨の日の夜に一緒に持ってきたパンはいつしか尽きて、やがて水だけを飲んでの生活を迎えた。

 少年の意思では眠らない日々が続く。

 それ故に、何度も何度も作業の途中で眠りこみ頬や額に絵の具がついてしまうことが度々あった。


 森がひそひそと騒ぎ始める。

 それまで毎日通っていた少年の姿は今日もない。


 久々の自由。

 草木はあっという間に伸びて工房を外から覆い、窓から覗き込む様にして生い茂る。

 森の動物たちもまた、彼らに釣られて窓や扉の隙間といった所から、静かに二人を見守った。


 一週間、二週間と時が過ぎる。

 時間はあれからかなり進んでいた。

 肌に感じるのはやはり夏だったが、季節としての夏は既に過ぎ、秋がそろそろ顔を見せ始めている。


 汗を拭って、少年は今日も筆を握った。

 細い腕。頬が前より痩けている。

 飲む水の量は段々と少なくなっていた。

 視界もあまり正常ではない。

 時折歪む事など最早日常茶飯事。

 それでも少年は止めなかった。

 そして――――。


「――できた」


 細々としたがなりのある声。

 くたりと座り込んで見上げるのは絵の少女。

 窓の隙間から陽の光がゆっくりと差し込んで、動物たちは息を潜めてそっと見守る。


「おかえり」


 少年が笑う。

 少女もまた笑う。


 だがそれはもう、以前の二人ではなかった。


 絵の少女が持つのは金の砂時計。

 砂は完全に落ち、それを頬まで持ち上げて満面の笑みを浮かべている。

 背景は快晴で、陽に輝く透明が眩しく、その空には去りゆく入道雲と虹が描かれていた。


 少女の髪は黒く透けている。

 微かに青みのかかったそれは凄く神秘的だ。

 肌は白く、身に纏う制服姿が愛らしい。


 少年は、一人目に涙を浮かべていた。

 この絵を描いたきっかけを。

 あの夏の日を、思い出していた。


 絵の中の少女。

 もう戻ってくることのない彼女。


 あの子は、この絵の完成をずっと、

 他の誰よりも待ち望んでいた。

 毎日毎日ここへ通っては、

 人のキャンバスをまじまじと見つめこむ。

 この絵を描き始めたきっかけだって、

 元はと言えば全てあの子が引き金だった。


 君は絵が上手いねって、

 初めて褒めてくれた。


 私の絵を描いてみて欲しいと、

 初めて求められた。


 あの日から僕の世界はずっと、

 あの空のように青く澄んでいて、

 かつての幼い少年の夏のように、

 毎日が輝いて眩しかった。


 あの子が居ては全く集中出来なかったけど、

 でも心のどこかで待っている自分がいた。

 毎日毎日差し入れを持って顔を出すあの子。

 毎朝無意識に二つ用意する椅子。

 それが当たり前なのだと、

 気が付けば受け入れてしまっていた。


 だから、あんな日が来るなんて、

 あの頃の僕はちっとも考えていなかった。

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