第2話 蝉時雨に陽が落ちる

「ただいま」


 森の奥深くで一人息をするこの建物。

 僕の居場所。僕だけの工房アトリエ


 壁と床と足元とを埋め尽くすキャンバスと紙。

 散らばる道具と丸められた紙くず。

 書き途中の絵が床に雑に投げ出されている。

 だが、それらは少年の目には映っていなかった。


 足を進めるのは部屋の中心。

 そこを真っ直ぐと進んだ突き当たりの壁には、

 巨大な絵画が掛けられている。

 彼の中で唯一の完成作品であり、最高傑作。

 初めて筆を持った時の、思い入れのある絵。


 描かれるのは美しい女性の姿だ。

 夏の空と自然とを背景に笑う、女性の絵。

 窓際に置かれた砂時計は落ちきっていない。

 入道雲が海と空との狭間で、

 その存在感を強く放っている。


 今日も綺麗だ。

 ずっと変わらない、

 僕達だけの世界。


 乾いた絵の具は、今日もひび割れたまま。

 少年の目にはつかず、その破片が零れ落ちる。


 これが、僕の日常だった。

 毎日毎日こうして二人きりの時間を過ごし。

 その殆どをこの場所で費やす。


 そして夜には必ずあの小屋へと戻る。

 あの場所で一晩を過ごし、またここへ来る。

 それが彼女との、

 そして僕が決めた約束だった。


 だが、ここは夜が更けると熊が出るらしい。

 ここ一体は自然の生い茂る森の中。

 即ち、彼らの縄張りである。


 故に夏の間はいつも必ず十八時には鐘が鳴り、

 それを合図にこの場を離れるようにしていた。


 いつどこで聞いたのか、

 もう、思い出せなかったが。


――でも。


 でも、本当はいつまでもここに居たかった。

 あの場所は嫌いだ。

 思い通りになった試しが無い。

 決まった日常を、いつもぐちゃぐちゃにする。


 僕は毎朝決まって同じ時間に起き家を出る。


 だが、風はいつも必ず吹く訳じゃない。

 だが、陽はいつも必ず照らす訳じゃない。

 だが、鳥はいつも必ず歌う訳じゃない。

 だが、木はいつも必ず陽を零す訳じゃない。

 だが、草はいつも必ず道を避ける訳じゃない。


 周りはいつも、僕を置いていく。

 追いつけない僕を。

 躓いてしまった僕を、誰も助けてはくれない。

 差し伸べられた手を、本当は僕だって、

 強く掴んでみたかった。


 だけど結局、僕は今ここに居る。

 彼女だけは僕を受け入れてくれるから。

 彼女だけは、いつまでも僕と同じだから。


―ゴーン、ゴーン、ゴーン。


 突如鳴り響く鐘の音に肩を小さく跳ねらせる。

 これにはどうも相変わらず慣れずにいる。

 時計の針が十二と六とを指していた。


――帰ろう。


 気が付けばもうこんな時間だ。

 数時間の間など、いつもこうして、

 あっという間に過ぎていってしまう。


「明日もまた来るね」


 応えない彼女に、またいつも通り声を掛ける。

 変わらぬ笑みを浮かべる彼女。

 続く沈黙に、安堵しながら。


――虫の声が響く。


 出る外の空気は冷たく落ちていた。

 この時間帯はいつもそうだ。

 少しだけ、心が楽になる。


 一度は下った坂。

 月明かりの薄らと除く道。

 足元に気をつけながらまたそれを上る。

 道中で、特に気になる場所は無かった。


「……お邪魔します」


 開く小屋の扉。

 いつも通り乱れた内装。

 雑に開けられたパンの袋。

 食べかけのそれを口いっぱいに頬張り、

 靴だけは丁寧に揃えて、

 すぐにベッドに身を投げ出す。


 窓の外には三日月と星とが瞬いていた。

 夜の快晴。

 藍色の空を眺める。

 それだけで、何故か許されるような気がした。


――遠く鳴る虫の声。


 僕は一体何をしているんだろう。と。

 夏になる度、夜になる度、

 時折考えるようになった。

 いつからだった、だろうか。


 何も思い出せない僕は、

 ただ続く同じ生活を受け入れた僕は、

 いつも、今日も一日、そして明日もきっと、


 ずっと空虚なままで。

 ずっと縋ったままで。


 でも、良かった。

 それでいいと、思った。


 こんな僕の想いのはけ口はこの広い空でいい。

 狭い窓から見える、この星空で十分だ。

 それでも僕にはきっと勿体ない。


 暫くそうして外を見つめていた。

 撫でるように吹く風。

 時折聞こえる虫の子守唄にあやされて、

 いつしかまた、同じ時に眠りにつく。


 今日も何とかいつも通りを終えたと、

 少年は小さく安堵した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る