急
結局、僕らはろくに顔を合わせられないまま家まで帰ってきてしまった。
「じゃあ、また明日」
「おう……」
僕の言葉に生返事をして、雄矢は自宅に帰っていく。
それを見ながら、僕は自問自答をしていた。あの妄想はなんだったのか。一時の気の迷いなのか、それとも薬によって女の子になった副作用なのか。後者だとしたら、早く兄貴に元に戻る薬を作ってもらわないといけない。このままじゃ、男に戻れなくなる。
今度、文句を言ってやろう。
そう思いながら、鍵を回してドアノブを引っ張る。でも、ドアはびくとも動かなかった。
「あれ、鍵開いてる」
もう一度、鍵を回して中に入る。家の中は真っ暗だ。朝に鍵をしめた記憶があるし、たぶん兄貴が帰ってるんだろう。階段を登って兄貴の部屋を覗く。相変わらず機械とかが散乱しているけど、人の気配はない。念のため僕の部屋も見てみたけどいなかった。
「リビングかな?」
そう思い、リビングに足を運ぶ。ドアを開けて電気をつけると、ソファには寝転がった兄貴がいた。たぶん寝ているんだろう。
そう思ったと同時に、ソファの兄貴が起き上がった。
「晶か」
「起きてたの?」
「あぁ、寝れるわけがないからな」
かすれた声でそう言う兄貴の目の下には、酷いくまができていた。
「ホットミルク作ろうか?」
無言のうなずきが返ってくる。僕はキッチンの冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに注いで電子レンジに突っ込んだ。レンジが回っている間、僕は兄貴の対面にあるソファに腰掛けた。兄貴はまた倒れ込んで、血走った目で天井を見上げている。
さっさと薬を作ってもらおうと思ったけど、この様子を見て気が変わった。兄貴がここまでしてくれてるのに、さっさと作れなんて薄情すぎる。
「僕の性別を元に戻す薬なら、そんな無理して作らなくても大丈夫だよ?」
「いや、そうじゃないんだ。それどころじゃなかった」
兄貴の血走った目が僕を直視する。その目から放たれる鬼気迫る雰囲気に、思わず気圧された。
「私は、研究所から追い出された」
「え!? じゃあもう薬を作るどころじゃないじゃん!?」
「いや、すまん。誤解を与える言い方だったな。正確には、表向きに私は研究所から追い出されたんだ。不祥事にしてはあまりにでかすぎた」
「不祥事って僕に投薬したこと?」
確かに、本人が同意してないのに危なっかしい薬を飲ませたんだから、バレたら不祥事かもしれない。
「確かにそれが原因だが……。聞いてくれるか?」
「別に構わないけど。あ、ちょっと待って取ってくる」
レンジのお仕事が終わる音がしたので、話をぶった切って取りに向かう。熱々のホットミルクを机に置いて、改めて兄貴と向き合った。兄貴は、数秒迷うように目を泳がせてから口を開く。
「今回の性転換試験薬に、致命的な欠陥を見つけた。とてもわかりにくい欠陥だったんだ。すまない」
一瞬で頭が真っ白になった。この人は、なにをいってるんだろう。
「最初にマウス実験が大成功で終わった。だからこそ、人間に投与しても大丈夫だろうと安易に考えたんだ」
僕も、自信満々な兄貴を見て安全なんだろうと思ってた。思わなかったら兄貴が僕をだましてまで薬を飲ませるわけがないから。
「製薬分野は踏み込んでさほど日にちが経っていないのに、機械分野と同列に扱ってしまった。あまりに、薬というものを軽んじてたんだ」
そういえば、薬を作り始めてから一年くらいしか経ってないんだっけ。色々なお薬作ってたけど、もともとは機械とかいじくる方が性に合ってるって言ってたもんね。
それで、なにが欠陥だったの?
「試験体のマウスが、実験が原因で死亡した。死因は大量出血だった。内臓の機能不全も酷かったし骨もスカスカで、足の骨に至っては全てが折れていた。脳髄の神経細胞にも致命的なダメージが入っていたし、数日生きていただけでも奇跡だろう」
そうなんだ。それで、僕はどうなるの?
「最善は尽くす。だが、研究者として一つ言わせてもらえば、今の晶の身体がそうなる可能性も、否定できない」
真っ白になった頭に、兄貴の言葉が現実味を持って襲いかかってくる。気づけば、机をあらん限りの力で叩いていた。コップが転んで中身が兄貴の足にかかったけど、それに対して謝るほどの理性は残っていなかった。
「なに言ってんの!?」
「最善を尽くす! 必ずお前を元通りにしてやる!」
「それなら今やってよ! ダメなら今そんなこと言わないでよ! やっと、この身体が耐えられるようになったときに、なに言ってんのさ!」
「落ち着け! 私だって浅慮だと思った! だが、今言わなければ、お前がいずれ気づくだろう欠陥を知ることができない! それならせめて、いち早く事実を伝えたほうが安堵すると思ったんだ!」
「そっちの都合なんか知るか! もうすぐ死ぬかもしれない身体なんて言われて落ち着けると思う!? 安堵すると思う!? もしそう思うなら兄貴は人間じゃない! 死神だ!」
信用してた僕がバカだった。そして、死神の言葉を素直に受け入れた数日前の自分を殴りたくなる。あのときに飲まなければ、僕はヘラヘラとこの死神を盲信したまま生きていられたかもしれないのに。
「僕をただの実験動物としか思ってなかったんでしょ!? 僕が死んでもなんとも思わないんでしょ!?」
「そんなことはない!!」
「じゃあ証明してみてよ!」
僕の言葉に、兄貴は言葉を詰まらせた。思いを証明できないっていうのはわかってるし、意地悪な言葉だとも思う。
だけど、それ以前にもう兄貴が信用できなかった。
「ほら、言えないんでしょ! 僕のことなんて欠片も愛してないんでしょ!?」
感情が高まると同時に、頬に熱いものが流れた。腕で乱暴にぬぐい、情けない顔でこちらを見る兄貴をにらむ。
「愛してないわけがない! 頼むから信じてくれ!」
「信じられるか! この詐欺師! 死神! そうじゃないって言うくらいなら形で示せ!」
僕がそういった瞬間、まるでスイッチを入れたかのように兄貴の表情が変わった。
「わかった! 今すぐにでも特効薬を作ってみせる! たとえ私が死のうとも、特効薬だけは必ず作り上げよう!」
決然とした表情で兄貴が立ち上がった。白衣がはためき、まっすぐにリビングのドアに向かっていく。ふらふらとした歩き方が、兄貴の限界が近いことを告げていた。それでも、僕は声をかけて止めることができなかった。血走った目を見て、思わず固まってしまったのだ。
兄貴の目には、狂気が宿っていた。それが研究への狂気か、あるいは僕を助けようという狂気かはわからない。だけど、その目からは絶対に特効薬を作るという固い決意が見て取れた。
感謝すべきなのかもしれない。だけど、暴走した感情を止めることはできなかった。
「絶対に! 絶対に特効薬を作ってね! 僕が生きてる間にできないってわかったら……兄貴を殺して私も死ぬ!」
立ち去ろうとする兄貴の背中に、気づけば殺害宣言にも似た言葉を吐いていた。兄貴はただ片手を上げてそれに答え、少しした後に、玄関の開閉音が虚しく響く。
僕は、兄貴の語った事実を受け入れられなかった。僕が、死ぬ? まだ青春らしい青春もしてないのに、死ぬの?
頭の中を絶望的な考えが駆け巡る。止めようとしても止まる気配を見せないそれらは、着実に僕の精神を切り崩していった。
ふらふらと、足が外へと向かっていく。ドアを開けると、外では雨が降っていた。確か雄矢が降るって言ってたっけ。今はどうでもいいけど。
ただ、足は雄矢のもとへ。コンクリートの起伏と雨の生温かさを感じて、ようやく僕は、傘も持たず靴も履かずに外に出ていたことに気づいた。それも今はどうでもいい。
やがて、雄矢の家の前にたどり着いた。インターホンを押す。言葉はなかったけど、階段を駆け下りる音がした。今回は転ばなかったね。
「おい! どうしたびしょ濡れだぞ!?」
焦ったような顔で僕を見る親友に肩を掴まれる。それだけで、僕は痛みの錯覚に囚われた。
「僕……」
事実を伝えようとして、それ以上の言葉が出てこなかった。それ以上言ったら、自分の死を認めるような気がしたから。
僕は死なない。僕は死なない。僕は死なない。
「僕……。僕……!」
「とりあえず中に入れ! 話はその後聞くから! な!?」
雄矢に導かれ、僕は家の中に入った。服が肌に張りついて気持ち悪い。
「晶、風呂入ってこい」
雄矢が、いつになく優しい声で僕に言った。お姉さんの服を着替えとして受け取り、持たされたバスタオルを小脇に抱えて浴室に押し込まれる。
「なんかあったら言えよ。俺はここにいるから」
そう言って、雄矢はすりガラス越しに背を向けた。強引だけど、その不器用な優しさに思わず笑みがこぼれる。
「ありがとね」
「いいってことよ」
すりガラス越しに親友がサムズアップする。それにまた笑って、僕は濡れた衣服を脱いだ。メガネを外すと、前よりも風景がぼやけて見える。錯覚かもしれないけど、だんだんと身体が壊れているのかもしれない。今考えてみれば、視力が突然落ちたのは偶然じゃなかったんだ。
頭の中にある最悪の想像が頭をグルグルと回って離れない。僕の口は、自然と一つの言葉を吐いていた。
「僕は死なない。僕は死なない。僕は死なない」
小声で自己暗示を唱えながら、僕は浴室のドアを滑らせた。お風呂のフタはすでに開いていて、いっぱいの湯気が浴室を満たしている。もしかして、さっきまで雄矢が入ってたのかな。
「お風呂なんて、物語だったらラッキースケベイベントの定番なのにね」
残念ながら僕はそれを許せるだけの精神状態じゃないし、雄矢も察しが悪いわけじゃない。そんなことは起こらないだろう。
シャワーから出たお湯を身体に浴びせる。身体に張りついた雨水を流したあとは、湯船に浸かって身体を温めた。数分、自己暗示で頭を満たしながら目をつむる。身体の中のどこかが、薄い膜に包まれるような錯覚を覚えた。
目を開いて深呼吸する。
「よしっ」
湯船から上がってドアを開けた。
そして、同時に更衣室のドアが開いた。
「すまん。下着渡してなかったわ」
思わずその場で固まる。そういえばこいつ、察しは悪くないけど悪意なく間が悪い行動をするときがあるんだった。
「あのですね……。スマホでゲームしてたんだけど、そういえば下着渡してなかったなぁ、って思ってですね……。はい。そういうことなんですよ?」
たどたどしい丁寧語とバタフライしている目があいまって、すごくバカみたいだった。
「言い訳いいから、下着を置いてさっさと戻って」
「あっはい。わかりました下がりますとも。あ、先に部屋に戻ってますのでゆっくり着替えてお越しください。はい」
自分でも驚くくらいの冷たい声に、ビックリした雄矢は大人しく従った。下着を放り捨てて、急いでドアの外に逃げていく。ドアが閉まったことを確認して、床に落ちた下着を拾った。飾り気のない無地のものだ。なんだかホッとした。
早速はいてみたところ、一つの問題が発生する。
「大きい……」
確か、雄矢のお姉さんって身長が百七十センチくらいあるんだったっけ。今の僕は雄矢にすら身長で負けるくらいだし、大きいのも納得だ。ブラもつけてみたらぶかぶかだった。
「しょうがない。着けないで行こう」
大きいシャツに袖を通し、大きいズボンをはく。色は両方とも黒なので、外見は女の子になった直後と変わらない。ただ、両方の服のサイズがあってないのもあって、上半身の肌色成分が多かった。半袖なので萌え袖にもならず、中途半端に長い半袖を揺らしながら階段を上がる。雄矢の部屋に入ると、部屋の主はプラモを念入りに眺めていた。その視線が僕を捉え、ほぼ同時にプラモを取り落とす。プラモはそのまま床に激突し、バラバラにぶっ壊れた。あぁ、もったいない。
しかし、それが一番ショックだろう親友は、僕を指差して口を半開きにしていた。
「おま……お前……」
「お風呂ありがと。ブラとパンツは大きかったから着けてこなかったよ。返すね」
わなわなと震えている雄矢の手にブラとパンツを握らせる。うーん、犯罪臭。
「お前はなんっつう格好で出てきてんだよ!?」
「いや、だって大きいし」
「そういう問題じゃねぇから! 俺の精神衛生上非常によろしくないから!」
いや、だって大きいんだからしょうがないじゃん。
「そもそも、さっき全裸見たでしょ? 全裸より露出度低いよ?」
「お前、服を着るほうがエロいっていう言葉を知らないのか……」
「知ってるよ? 同意できるし」
僕と雄矢は固い握手を交わした。
部屋の空気がカオスになってきたので、一度仕切り直す。適当な場所に腰を落ち着けて、雄矢が神妙な顔で話を切り出した。
「最初はあんなに泣いてたのに、もう冷静になったのか?」
「うん。僕は死なないからね」
「は?」
不思議そうに首を傾げられた。なにもおかしいことは言ってないのに、なんで首を傾げるんだろう。
「いや、なんでそこから僕は死なないからね、につながるんだ? 脈絡なさすぎるだろ」
「あ、そういうことね。今日、兄貴から余命宣告されたんだ」
「……は?」
信じられないことを聞いたように、雄矢が険しい顔をした。
なにを驚いてるんだろう。
「別に驚くほどでもないでしょ。僕は死なないんだよ?」
「いやいやいやいや、その自信はどこから来るんだよ!」
「自信って、事実だよ?」
「いや、事実だって言ってもな……!」
鬼気迫るような顔で雄矢が言い募ってくる。その態度が無性に僕をイライラさせた。死なないのは事実だ。事実なんだ!
「僕は死なないの!! わかる!?」
「わかるわけないだろ! そんな飛躍した無根拠な言葉を信じられるか!」
なんで? なんでわかってくれないの?
「僕は死なない! 死なないの!! 雄矢ならわかってくれると思ったのに、雄矢でもわかってくれないの!?」
「落ち着け! わかった! 晶は死なないんだよな!」
やっとわかってくれたんだ。
「そうだよ。僕は死なないの。やっとわかってくれたんだ」
「お、おう」
困惑気味に雄矢がうなずいた。まだわからない場所でもあるのかな?
「わからないところある? 説明するけど」
「いや、いい。全部理解できたわ」
「そっか。それはよかった」
あんまり雄矢の時間を取るわけにも行かないし、そろそろ帰ろう。
「もう帰るね。迷惑かけてごめん。あと、お風呂ありがと」
「あぁ、気をつけて帰れよ? 家までついていこうか?」
「そんなに気にしなくていいよー」
帰り際、やっとプラモの惨状を見つけた雄矢の絶叫に背を向けて階段を降りた。玄関を開ければ、外はまだ土砂降りだ。なぜか傘を借りようとは思えず、そのまま家まで歩いていく。家に帰ったころには行きと同じくらい濡れていたけど、もう一度シャワーを浴びる気は起きなかった。適当に服を脱ぎ、リビングソファに寝転がる。床に広がる牛乳を見ながら、僕の意識はいつの間にか眠りに引き込まれていた。
翌日、朝早くから来客があった。ラフな服装をした二人の男で、どうやら兄貴の研究所に所属しているらしい。その人たち曰く、病院に連れていくのでついてきてほしいとのことだった。新手の誘拐も疑ってみたけど、二人が出してきた所員カードは兄貴が所属する研究所のものだ。それでも、どうにも信用できない。数回の押し問答を経て、誘拐されるような形で車の後部座席に押し込まれた。男の一人が、僕が学校に遅刻することを伝えるよう迫ってきたので、スマホを使ってそれを伝えた。
明らかな誘拐。本物っぽい所員カードに油断して、素直に応対した少し前の自分を後悔する。窓から見える景色はだんだんと移り変わり、やがて木々で埋め尽くされるようになった。森に入ったのだと、そう直感した。
これからどんなことをされるのか。男から注がれる視線に身震いする。スマホは取り上げられなかったけど、隣で監視されてる現状では身動きすら取れない。
やがて車が止まり、押し出される形でそれから降りた。周囲はおおいかぶさるような森林で、地面に敷かれたコンクリートも長年の整備不足で剥がれている。
目の前にあったのは、古ぼけた病院だった。門があり、庭のようなものもある大きな病院だ。廃墟にも似たそこに入って二階に上がると、ヒビ割れた床の上に所狭しと最新設備が並べられていた。その近くに立ちつくす老齢の男性がこちらを見ている。その視線には、哀れみのようなものが混ざっていた。
「今回、あなたの診察を担当する者です。よろしく」
その言葉に、僕は首を傾げる。
「なんで診察をする必要があるんですか?」
「なんでと申されましても、試薬の副作用による障害を確認するためとしか……」
困惑したような老人の言葉に、僕はただ首を傾げるしかない。副作用? 障害? 僕は健康そのものだし、これからもそうなのに、なんでそんなことで引き止められなきゃいけないんだ。
「帰っていいですか?」
「ダメです」
即答された。背後に控える二人の男も、僕が逃げないように腕を掴んでくる。痛い。
「健康診断の延長線と思って従ってください。そうであれば乱暴なことはいたしません」
「従いますよ。でも、その言葉まるで三流悪党みたいですね」
老人の言葉に思わず笑う。彼は僕の表情を見て、驚きとも恐れとも取れるような表情をした。
椅子は用意されてなかったようで、立ったままいくつか質問された。それに答え終えると、そのまま診察に入る。診断書にはこれから起こるだろう病気とかも書かれるらしい。そこに異常なしと書かれるのは目に見えているけど、そんな言葉は飲み込んだ。
診察が始まり、いくつもの見慣れない機械に通される。その結果はすぐに近くのモニターに映し出されるらしいけど、今の僕にはそれが見えない。
わけもわからないまま全ての診察が終わった。機械から降りた僕に、モニターを見ていた老人がこちらを向いた。彼の険しい表情に、なんでそんな顔をするのか首を傾げる。
「診断結果をお伝えします」
彼はそう言って、悲しそうな面持ちで僕を見た。まるで同情するような眼差しがいやになる。僕は死なないんだから、さっさと問題ないと言ってくればいいのに。
「お願いします」
「わかりました。では言わせていただきます」
僕が急かすと、老齢の男性は意を決したように言葉を発した。
「ベッドに横になって絶対安静にしてください。ベッドから動かず、生活の全てを誰かに預ければ二ヶ月は生きられます。しかし、動き続ければ、一ヶ月持つかどうかわかりません」
その言葉に、思わず鼻で笑ってしまった。
動かなければ二ヶ月生きられる? そうじゃなきゃ一ヶ月持つかわからない? なにを言ってるんだろうこのやぶ医者は。
薄い膜が剥がれ始めるような幻覚が頭によぎる。それを振り払うように、僕は精一杯笑ってやった。
「証拠はあるんですか?」
その言葉は、我ながら子どもの言い訳みたいだった。
当然のように、老人は診断書を僕に手渡してくる。
「信じられない気持ちはわかります。ですが、いつか受け入れなければならないことをご承知ください」
老人が手渡してきた紙は、ご丁寧に四つ折りにされていた。裏返しの紙から、表のインクが透けて見える。ほとんどが文字で埋まっていることがわかった。
「この紙の中には紛れもない真実が書かれています。覚悟ができたら、心して見てください」
手渡された診断書を開き、中身を確認する。
中には、様々な病名が列挙されていた。見知ったものから見知らぬものが関係なく紙に出力され、最後に『非常に危険』と赤字で書かれている。
一つ一つの文字が、まるで実体を持ったかのように僕の頭を打撃した。
それと同時に、薄い膜が剥がれ去るような幻聴が聞こえた。
僕は死ぬんだ。その確信が心を支配した。
「動き続ければ、どうなりますか?」
「まず間違いなく骨折するでしょう。近いうちに内臓疾患も起こる可能性が高いです。なにより、動き続けるという前提を捨てたほうが賢明でしょう」
僕は老人に診断書を見せた。
「これって本当ですか?」
「残念ながら……」
沈痛の面持ちで老齢の男性はうなずいた。その反応に、思った以上に取り乱すことはなかった。ただ、死ぬんだという確信がふわふわと身体を巡って、自分自身がここにいるのかという意味のない不安に襲われる。達観したような、悟ったような、それでいて絶望したような状態。意味不明だったけど、雄矢のときみたいに怒鳴り散らしたりしなかったのは幸いだ。
「わかりました。わざわざありがとうございました」
ポケットに診断書を突っ込み、そこで初めてパジャマのままだったことに気づいた。でも今は、そんなことは問題にならない。老齢の男性に改めてお礼を言って、僕と二人の男は病院を出た。病院の外には引っ越しに使うようなトラックが一台止まっている。あれで設備を運ぶんだろうか。
廃病院の門前にきたところで立ち止まり、後ろに身体ごと振り返る。
「学校に行きたいので、制服を着たら学校まで車を回してもらっても構いませんか?」
僕の言葉に、二人の男は困惑したように顔を見合わせた。僕が大人しく布団に入ると思ったんだろう。
でも、それじゃダメだ。いまさら学校に行く意味もない。だけど、それじゃダメなんだ。
まだ現実味がない。まだ大丈夫のはずだ。自分は健康だという妄想が打ち砕かれた今、僕がすがるのはそれしかなかった。すがってなんとか平静を保っているという自覚はある。でも、すがらなきゃもう自分で命を断つしかない。それは、雄矢が悲しむ。
独りよがりなのは百も承知だ。だけど、このまま家で寝たきりのまま発狂するより、ずっといい。
「お願いします」
誘拐まがいのやりかたで僕を連れてきた二人に頭を下げる。数秒の間を置いて肩を叩かれた。顔を上げれば、二人の男は苦虫を噛み潰したような表情でうなずいている。それにお礼を言って、僕は急いで車に乗り込んだ。あとから二人が乗り込み、僕の家へ向けて発進する。
車ということもあって、家に着くまではあっという間だった。急いで制服に着替え、また車に乗り込む。徒歩でいける距離なのに車を頼んだのは、二人の男が僕をベッドに拘束させないための賭けでもあった。
急いで教室に向かう。授業は終わっているらしく、廊下は人であふれていた。僕のクラスの教室の前も、その例外ではない。
「診察で遅刻するって聞いたが、結果はどうだった?」
廊下にあるロッカーから教材の出し入れをしていた雄矢が、神妙そうに聞いてくる。
「予想通り」
僕の端的な返答に、親友は泣きそうな顔をした。そんな顔しないでほしい。
「別に気にしないで。大丈夫だから」
安心させようと、無理に笑ってみせる。それでも雄矢は悲しそうなままだったので、露骨に話をそらすことにした。
「古川さん!」
「おはよー。それで、なにか用?」
みんなと同じく、教材を出し入れしていた彼女に手招きする。
「今日って水泳あったっけ?」
「この前の授業で水泳は終わりだよ?」
「そうだっけ?」
僕の疑問に、古川さんは元気にうなずいた。その表情は心なし嬉しそうだ。
「あんまり女子がサッカーやる機会ないから、楽しみなんだよねー」
彼女の嬉しそうな表情に納得がいった。雄矢を見ると、納得いかなそうな表情で僕を見ている。わざとそれを無視した。
「次の授業なんだっけ?」
「美術じゃなかったー?」
古川さんがそう言って、手に持つ教材から紙の時間割を引っ張りだした。彼女は紙に視線を走らせ、笑顔を花咲かせる。
「やっぱり美術だった! 早く行かないと怒られちゃうし、いこいこ!」
「あ、おい待て!!」
古川さんが僕の腕を掴むと、雄矢が彼女の腕を掴んで僕から引き離した。突然のことに、彼女は不思議そうに首を傾げている。
「雄矢。気にしないで」
「いや、だけどな……」
「雄矢。手を離してあげて」
僕の有無を言わせない語調に、雄矢は苦々しそうに口の端を歪めた。
「そうか……。わかった。無理するなよ」
「うん。ありがと」
解放された古川さんの手を引き、 美術室に向かう。
「友部くんどうしたの?」
「僕が女の子の輪に入ることを心配してるんだよ」
「過保護だねー」
「ねー」
二人で笑い合いながら、背中で掴まれた腕をさする。ズキズキと鈍痛が引かない。身体が弱っているんだろう。
でも、それをみんなに言うわけにはいかない。あくまで笑ってなきゃ。
美術室は、上階の奥にあった。そこに行くまでに大した時間はかからない。その短い時間の中で、僕は聞く必要のない質問を思いついた。
「古川さん。もし、今にも死にそうな人がいたら、助ける?」
意味のない質問。それが自分を救ってほしいと暗に行っているようで、自己嫌悪に陥った。
「あ、別に気にしないで。なんとなく思ったことだから」
慌てて手を振り、前言を撤回する。しかし古川さんは真面目に考えこみ、やがてヒマワリのような笑みを浮かべた。
「あたし、面倒事は避ける主義なんだよねー。できれば関わり合いになりたくないから、救急車に電話してすたこらさっさとその場からいなくなっちゃうかなー」
「そ、そうなんだ」
回答は、期待していたものと違っていた。てっきり介抱をするのかと思ったけど、そこまでやらないということは少し意外だ。
彼女は思い出したように両手を打ち合わせ、続ける。
「それと、身近な人に頼めるのなら頼んじゃうかな。自分がしたいことができないのはいやだからね!」
無邪気な言葉は、鋭利な刃のように僕の胸を貫いた。その回答が、あたかも助けを求める僕の手を払いのけるように感じられた。
いや、事実そうなのだろう。もうすぐ死ぬかもしれない人間と関わるなんて特大の面倒事だ。身近な人に面倒事を押しつける彼女からすれば、避けたいことだろう。
じゃあ、今までの面倒見のいい彼女は誰だったんだろう。親切に服を選び、嬉しそうに僕の横で笑っていた彼女は、果たして本当に古川さんだったんだろうか。
面倒見のいい彼女と、面倒事を嫌う彼女。
いったい、どちらが本物なんだろう?
「どうしたのー? 顔が暗いよー?」
「いや、なんでもない」
「そう? 暗いときは美味しいものを食べるといいよ! おすすめします!」
心の底から無邪気に、彼女は笑う。それを僕は懐疑的な視線でしか見ることができなかった。激しい自己嫌悪に襲われ、彼女の笑顔から目をそらす。その笑顔があまりにまぶしくて、直視できなかった。
そうだ。彼女はこのこととはなんの関係もないんだ。だから彼女に助けを求めるのはやめよう。そうだ、それがいい。
心の中でそう決めて、僕は彼女に笑みを向けた。
「ありがと。今度やってみるよ」
「ふっふー。美味しいものを食べたかったらあたしに言うのだ! おすすめのところを教えてしんぜよう!」
周囲からすればにこやかな、でも僕からすれば最悪の空気の中で、僕らは他愛のない話をした。彼女の話に合わせてうなずき、返答する。そのとき、一度として彼女を直視できなかった。
ぼんやりと授業を終えて、放課後に入る。僕が所属する掃除班は、美術室を掃除することになっていた。色々と物がある美術室は、必然的に長時間の掃除を強いられる不人気スポットだ。監視する先生も厳しいので、下手な掃除をするとやり直させられる。だからみんな、ここの掃除だけはすごく真面目にこなしていた。
ともあれ、じっくりしっかり掃除した努力も報われ、僕らはあっさりと解放された。僕以外は荷物を持参して掃除したため、僕だけが教室に戻る羽目になる。一人ぼっちで階段を下り、教室にたどり着く。
教室に入ろうとして、男子たちの声が聞こえて踏みとどまった。音がしないようにそっと隙間を作って中をのぞく。中では男子の集団が、他愛のない話で笑い合っている。
ふとそこで、僕の名前が出てきた。男子が雄矢をからかいこづく。それに苦笑いしながら、男子たちから投げかけられる言葉に応じていた。その中で一つ、僕も気になる疑問が雄矢に投げかけられる。
新戸が女になって、色々と迷惑なことがあるんじゃないか?
僕がその場にいないことを前提とした質問。だからこそ、親友の本音が聞ける。
僕は前から不安だった。自分に何かが起きたとき、二度も雄矢に迷惑をかけた。それを迷惑だと断じられたら、僕はもう雄矢に助けを求めるのはやめようと決めていた。
だけど、心の中ではそんな日は永遠に来ないだろうという確信があった。生まれた頃からの腐れ縁で普通の友人よりもはるかに友情があると思っているし、何度も助けあってきた仲だ。こんなの迷惑のうちに入らないはず。
そう楽観して、雄矢の返答を待つ。数秒の沈黙があった。僕に背中を向ける状態で座っていた親友は、うつむいていた顔を見上げるようにした。その表情は、見えない。
「正直、迷惑だよ。俺の前からいなくなってほしいくらいに」
僕の考えはあっさりと切り崩された。口調にふざけたような感じはなく、男子たちの間にも気味の悪い沈黙が広がる。
そこまで見るのが限界だった。そっとドアから離れ、帰路につく。雄矢がそのあと彼らに何かを言っていた気がしたけど、僕にはそれを聞く勇気がなかった。
それから数日後。僕は体育で骨を折った。
足が折れたその日に、僕は病院に向かった。偽装保険証を始めとした女になった僕の証明書は、兄貴が前もって準備してくれていたらしい。
ともかく、僕は診察を受けて全治二週間と告げられる。ギプスをはめられ、松葉杖を与えられた。入院するほどでもないと言われたのは不幸中の幸いだ。これで学校に行ける。
診察を終え、僕は病院の車で送ってもらった。半日はギプスや松葉杖の扱いに四苦八苦したのを覚えている。
翌日。僕は雄矢に荷物を任せて先に行かせ、自力で制服に着替えて学校に向かった。ギプスのせいで服が着にくく、ちゃんと着られているか不安だ。
それでも、動かないより動き続けるほうがいい。動き続けないと、生きていられる自信がなかった。とにかく考える時間を減らしたい。ただ無駄に時間を過ごすより、誰かとしゃべるほうがまだマシだ。
頭の中は、これからのことでいっぱいだった。性転換してから数日で骨が折れるまでになった。なら、それ以上はどうなるんだろうか。
そこまで考えて頭を振る。今はそんなことを考えちゃいけない。とにかく動こう。それなら気が紛れるはずだ。
そう考えて、うつむかせていた顔を上げる。目の前にはスマホを手に持ち、ふらふらと歩く男がいた。
避けきれる距離じゃない。それより、こんなこと前にもあったような……。
男とぶつかり、バランスを崩して地面に転がる。片方の松葉杖が、手の届かないところに転がってしまった。ぶつかった男はよろめいただけで、舌打ちしてどこかに行ってしまった。
周囲には少なからず人はいたが、誰もが見るだけで助けようとはしない。みんながみんな目立つことを怖がって、行動することに二の足を踏んでいる。
出る杭にはなりたくない。そんな意思が透けて見えた。
周囲から向けられては外される視線。
なんで、なんで僕ばっかりこんな目に遭うんだ!
「なんで僕はこんな目に遭わないといけないの!? 僕、今まで何かした!? なにもしてないのに、この仕打ちはあんまりだ!」
周囲の視線が僕に集まった。そこに含まれるのは哀れみと見下し。だけど、助けようとも害しようともしない。ただ周囲は風景のように動いていた。それがとても気持ち悪い。
這い進み、なんとか松葉杖を拾う。身体中が痛い。何人かの学生が通りながら罵声を浴びせてきた。邪魔だと。うっとうしいと。見知らぬ学生が、そう僕に暴言を投げつけてきたのだ。
もう死んでしまいたい。一瞬、そう思ってしまった。
でも、それは間違ったことなんだろうか。頼っていた女の子には突き放されたし、親友は目の前からいなくなってほしいと願った。僕が女の子になって頼ってきたのはこの二人だけだ。校長先生に泣きつこうにも、理解されないことは電話を通してなんとなくわかっている。元凶の兄貴は、もはや理解がどうのという問題から外れているし、そう考えれば理解者も協力者もどこにもいない。孤立無援だ。
それでも、行かなきゃいけない。もはや強迫観念にも似た衝動に突き動かされ、ひたすら松葉杖を前に進めた。
それにしても、僕に罵声を浴びせてきた学生は、見知らないでは片づけられないような既視感があった。金髪で、キツネっぽい雰囲気。よく考えれば、制服も僕が通う学校指定のセーラー服だったような気がする。
頭の中で既視感が回遊させながら、松葉杖は熱くなり始めたコンクリートを何度も蹴った。何度か倒れ、周囲の嘲笑と同情に晒される。それでもなんとか、学校までたどり着くことができた。
普段なら雑談をしながらでも余裕でたどり着くのに、今日は一時間目の終わりごろになっていた。僕がつくころには二時間目が始まる間際だろう。
昇降口まで振り子のように歩き、靴を脱いで職員室まで行く。そこで先生に遅刻の連絡をして、スリッパの片方をもらって教室に向かった。教室に向かう途中に本鈴が鳴っており、廊下はがらんとしている。硬いものを叩くような音が単調に響き、教室から聞こえてくる喧騒と混ざり合った。ただぼんやりとその音を聞きながら、やっとのことで教室に到着する。ドアは半開きで、クラスメイトたちは自由に教室に散らばっていた。どうやら自習らしい。半開きのドアを肩で押し開け、教室へと入る。クラスメイトの視線が僕に集中し、数秒もしないうちにそらされた。男子より、女子のほうがその割合が大きかった。
なんで目をそらされたんだろう。もしかして、骨折した人を見たことがないのかな?
そんなことを思っていると、ドアの近くで缶ココアを傾ける女の子を発見する。プールのときに、僕の身体で散々に遊び倒した子だ。
「やっほー。今は自習?」
できるだけ元気よく言った言葉に、女の子はただ顔を背ける。女の子の表情は気まずそうだった。
「晶さん?」
不意に名前が呼ばれ、声の主に視線を向ける。それと同時に、僕は道で罵声を浴びせてきた人を思い出した。髪の色は金髪にはなっているけど、キツネっぽい雰囲気は彼女のものだし、なによりあのとき見た後ろ姿と彼女がそっくりだ。
そこで、やっと僕は理解した。なんでプールのときに接触されたくらいの女の子にここまで避けられるのか。金髪の女の子の表情を見ればわかる。彼女は僕を恨んでいる。鉄面皮になろうとしているのはわかるけど、恨みがましそうな表情は一発でわかった。
「人気者の晶さん? 聞いています?」
彼女の言葉に首を傾げる。僕ってそこまで人気者なの?
「まぁ! その様子では気づいてもいなかったわけですね!?」
金髪の女の子は、大げさに驚いてみせる。
そんな芝居がかった動きを見ながら、僕は思った。
この学校に味方はいるの?
周囲を見回してみる。女の子は軒並み視線をそらし、前まで普通に仲のよかった男どもは、下心が見える視線で僕をなめ回していた。今まで雄矢と古川さんに寄りかかっていて、まるで周りを見ていなかった。雄矢さえ僕を見る目がいつもと違ったっていうのに、他の男子が変わらないわけないじゃないか。
古川さんを見てみる。視線をそらし、苦笑いされた。
雄矢はあえて見なかった。目線をそらされたりするのが辛かったから。でも、前の話じゃ味方ではないだろう。
つまり、このクラスに味方はいない。それは、この学校に味方がいないことを意味していた。
きびすを返し、開けたドアから廊下に出る。今日はもう帰ろう。明日、またくればいいや。
心が押し潰されていくのがわかる。なんとか押し返そうとしても、押しつぶそうとする力は強まるばかりだ。
頬を涙が伝った。なんで、僕ばっかり。僕はどこで間違えたんだ。兄貴を信じたこと? 雄矢に頼ったこと? 古川さんに寄りかかったこと? それとも、生まれてきたこと自体が間違ってたのかな。
階段を慎重に降りながら、職員室を目指す。スリッパを返せば、あとは帰るだけだ。
「待てよ!」
ちょうど職員室の階まできたところで、誰かに肩を掴まれる。雄矢だとわかっていたから、振り向きもしなかった。
「わざわざ追ってこなくていいよ。迷惑なんでしょ? 下心丸見えの男どもと仲良く話してなよ」
「誰も迷惑なんて言ってないだろ!?」
嘘。嘘つきだ。
「雄矢、言ってたじゃん! 自分の前からいなくなってほしいって! 迷惑だって!」
「お前、どこでそれを……!」
どこでなんて、言うわけないじゃん。一つしかないんだから勝手に気づいてよ。
数秒もしないうちに思い至ったのか、顔を真っ赤にした雄矢が怒鳴るように叫ぶ。
「違うんだよ! あれはそういう意味で言ったんじゃない!」
「じゃあどういう意味!? 説明してみてよ!」
背後の親友は、気まずそうに言葉を詰まらせた。
「それは、今言うべきじゃないというか……」
「ほら、やっぱり言えない! 僕のことを迷惑だって思ってるんだ!」
勝ち誇るものなんてないのに、まるで勝ち誇るように糾弾する。雄矢は弁明をしようと途切れ途切れに言葉を発していた。もういい、うんざりだ。
「用事は終わった? 終わったんなら教室に帰って。私は帰るから」
「帰るってどこにだよ」
そんなの決まってる。
「家に。明日また来るよ」
「いや、待てよ。なにもあいつの言葉一つをそこまで重く捉えることもないだろ。あいつは、みんながお前に優しくしてるのが気に入らないだけだよ」
そんなもんだろうか。確かに、言われてみればそんな気がしなくもない。道の真ん中で人が倒れているのは、心配する気持ちを抜きにすれば邪魔だろうし、なにより彼女の中で僕は『人気者』なんだ。それが大怪我して道の真ん中で倒れていたら、罵倒してくるのも無理はない。そう考えれば、ただの妬みとして切り捨てても問題ないことだ。死にたくなるようなことが多すぎて、思考がネガティブにいってたかもしれない。ネガティブ思考を指摘してくれたことに感謝しなくちゃ。
……いや、考え直せ。僕を迷惑といったのは雄矢じゃないか。こいつが金髪の女の子の手先になってない保証がどこにある。
「どうせ嘘でしょ。もう信じない」
「なんで信じてくれないんだよ! あぁ、クソ! なんであのときあんな前置きしたんだよ!」
いい気味だ。僕がいないからって本音を暴露した雄矢が悪い。
心の中で意地汚く嘲笑っていると、階段を勢いよく駆け下りてくる音がした。階段の踊り場に目を向けると、古川さんが膝に手をついてこちらを見ていた。
「晶ちゃん……」
息せき切りながら、彼女は階段を駆け下りて僕を掻き抱く。
「どうしたの?」
面倒事の僕のところに、という言葉を飲み込んで、僕は尋ねた。僕のお腹に顔を押しつけていた彼女は、顔を上げて必死な表情で口を開く。
「あたしは、晶ちゃんのことを――」
「古川?」
ドスのきいた女声に、古川さんの言葉は遮られた。
「古川? 私のお気に入りの古川? 続けていいわよ?」
その声は、階段の踊り場からしていた。ちょうど僕らを見下ろすような状態で、金髪の女の子が腕組みしている。階段を降りているなんて気づきもしなかった。雄矢の表情を見るに、降りてくる音はしていたのだろう。
古川さんは、彼女の脅迫するような声に怯えて身体を縮ませる。何度か言葉を発そうと口を動かしてはいたけど、結局は口をつぐませた。
金髪の彼女は、無言の僕らを見下すように見て、重苦しく口を開く。
「新戸晶。私はあなたが嫌いよ」
返答すら拒むような強い口調。その圧力に、怯えきった古川さんは僕の制服の袖を掴んだ。
「今まで、私がクラスの女子を率いてきたの。でも、あなたが出てきてからはそれが狂い始めた。みんな、あなたについていくようになったのよ。……それがたまらなく気に入らない。お気に入りをかっさらっていったのも許せないわ」
彼女の目が、ねばついたような輝きを放っている。彼女のドロドロとした独占欲を表しているかのようだった。
「あたし、あの人は苦手……。だってあんな感じに追い詰めてくるんだもん……」
僕と雄矢にしか聞こえない声量で、震え声の古川さんは言う。僕は軽く腕を振り、袖を掴む彼女を引き離した。面倒事より面倒なことは丸投げなんて、虫がよすぎる。
僕は、ゆっくりと階段を降りてくる彼女を正面から睨みつけた。
「それで、僕を迫害しようって話? 子どもみたいだね。じきに露見するよ?」
彼女は、僕の言葉を鼻で笑う。
「証拠に残るようなことはしないわ。だってそれじゃ色々と面倒だもの」
首を傾け、彼女は妖しげに微笑む。
「私は、根回しして精神的に叩き潰すだけ。ね? スマートでしょ?」
どこがスマートなんだろう。ただ姑息なだけでしょ。
心の中でそうは思っても、口には出さなかった。それはただの挑発にしかならないし、口にしたって僕の利益にはならない。
ここまできて、もう何もかもが面倒になった。
頼ることがかなわない親友と友達。追い詰めようと画策する目の前の彼女。仲間のいない学校。誰もいない我が家。死に体の身体。どこにもプラスがない。果てしないマイナスの底に、想像したくもない絶望が固まっていた。
強迫観念とか、妄想でごまかすとか、もうどうでもいい。
「今日は帰るよ」
「二度と学校にこないでほしいわ。次きたのなら、全力で叩き潰させてもらうから」
言われなくたって、もう二度と学校になんてこないよ。無理してきた僕がバカだった。少しでも希望を持った僕がバカだった。
すそを掴み、必死に首を横に振っている古川さんを振りほどく。歯がゆそうに口を開けたり閉じたりする雄矢は、なにも言わなかった。雄矢は、なにを考えてここまで来たんだろう。
「友部くんは、おどされてなにも言えないだけだよ! あたしも友部くんも、晶ちゃんの味方だからね!」
ありがとう。その嘘だけでも救われるような気持ちになる。
階段の金具と杖先があたり、硬い音を立てた。家まで、何回この音がするか数えてみようか。
考えてもみれば、コンクリートと金具は素材が違う。結果として、階段を除けば二度とあの音が鳴ることはなかった。
午前中に早退したこともあって、当然のように日は高く、焼けるような熱さだった。いっそのこと、焼け死ぬくらい温度が上がればいいのに。そう思わなくもなかったけど、せめて苦しまないで死ぬ方法が良い。
そうだ。旅に出よう。どこか遠いところに行けば、なにか気分転換になるだろう。あるいは……。
確信にも似た思いで行動を開始する。家にある全財産を財布に突っ込み、荷物をまとめてそれを背負う。バランスをとるために前傾姿勢になって、ゆっくりと階段を降りて玄関を出た。
夏の日は高く、暑い。汗を拭くものを出そうとしたけど、面倒になってそのまま歩き出した。途中、家の鍵をしめたか気になったけど、もう関係ないことだと切り捨てる。病身でどこまでいけるかわからないけど、どこかで野垂れ死にするまで遠くに行こうと決めた。全財産を使えば、往復とは行かないものの北海道まで行くことが出来る。北の大地を回ってみるというのも、また面白いかもしれない。
アップダウン N.C @shijima666
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