破
結局のところ、雄矢の家にいても何の進展もないということで、まだバランス感覚が掴みにくいということもあり、僕は背負われて自宅まで帰ってきた。顔を真っ赤にしてぶつぶつとつぶやいていたのは妙だったけど、どうせ女の子背負ったのなんて僕が初めてなんだろう。役得だと思えばいいのに。
「にしても、女の子かー」
洗面台の鏡を見ながらぼんやりとつぶやく。髪は男のときよりずっとつやつやだし、肌もぷにぷにしてる。指も武骨な感じはなくて、細く滑らかだ。見れば見るほど男のときとの違いに打ちのめされる。
「早く男に戻りたいなー」
だけど、女の子になれて得した感覚は全くない。兄貴が帰ってきたらぶん殴ってやろうってくらいには男に戻りたい。
それでも、まぁなかなかない体験ではあるし……。
シャツのすそを掴む。その手を持ち上げれば現れるのはまぎれもない桃源郷だ。それを見ずして何が男か。
おそるおそるたくし上げていく。目線は鏡に釘づけだ。手が胸の下まで上がる。
そこまで来て、突然電話が鳴った。思わぬ電話に肩が跳ね、冷や汗が頬を伝う。今、家にいるのは僕だけ。兄貴が出ることはできない。電話が知り合いだったらその時点で詰みだ。お腹が痛くなってきた。
ならどうするか。
「出なきゃいいんだ」
簡単な結論に達して無視することにした。電話の呼び出し音を耳をふさいでやり過ごし、鳴らなくなったことを確認してから電話機に駆け寄る。もう、自分の身体を楽しもうなんて考えは明後日の方向にすっ飛んでいた。
電話の履歴には見慣れない番号が記されている。よく見れば、留守番電話には一通の録音があった。留守番電話のあたりでセールスではなさそうだ。
再生ボタンを押してみる。
「新戸晶君。いや、この場合は新戸晶さんが正しいでしょうか」
どこか威厳に満ちた声だった。朝会でも聞き慣れた校長先生の声だ。
「あなたの事情は聞かせてもらいました。こちらでの手続きは私に任せて、安心して学校に来てください――」
「いや全然安心できないんだけど」
即行で録音を消した。というかなんで事情知ってるんだ。兄貴か、兄貴なのか。
「これは感謝すべきなのかぶん殴るべきなのか……」
本来は感謝すべきなのかもしれないけど、すごくぶん殴りたい。
そもそも。そもそもだ。
「学校に事情を説明すれば、安心して行けるとでも?」
いやそれは無理だ。とてもじゃないけど行ける気がしない。クラスメイトにどんな目で見られるかなんて考えた日にはいっそ倒れたくなる。でも女の子として転入生みたいに行ったら周りの反応に違和感抱いてそのままボッチになりそう。
なんだこれ詰みじゃん。
一人で頭を抱える。さっき雄矢のところにいてもなんの進展もないって言ったけど少し訂正。少なくとも一緒に悩んでくれる人がいたほうがマシだ。
ただ、また雄矢の家に行こうという気は起きない。バランス感覚は何とかなってきたけど、あまりに色々なことが起こりすぎて疲れた。
そう考えるとなんだか眠くなってきた。身体が動くままに自室まで歩いていき、布団に倒れる。兄貴が洗濯をやってくれたみたいで布団からはいい匂いがした。
その匂いにつられるように、僕は眠りに引き込まれていく。
目覚めは最悪だった。なまじ寝心地がいい布団だったせいで、遠くにある目覚まし時計を止めようにも止められない。早起きの習慣をつけようとベッドから手の届かない位置に目覚まし時計を置いたのが間違いだった。
「あー。視界がぼんやりしてるー」
ぬくぬくの天国から抜け出して、叩き起こしてくださった憎いアンチクショウを黙らせる。時計のタイマーを切り、そのままリビングに向かった。
リビングには誰もいなかった。代わりに、大きな紙袋とその上に一枚の紙切れが置いてある。中にはビニールで保護された、僕の通っていた学校のセーラー服が。そして紙切れにはこう書かれていた。
『明日からこれで通学してくれ 兄』
「死ねぇ!」
紙を破って、セーラー服と一緒にゴミ箱に投げ捨てた。なんでセーラー服なんぞ着なくちゃいけないんだ。男子制服っていう手段だってあるのに、よりによってなんでセーラー服。こんな露出狂みたいな格好をしてられるか。これを着るくらいなら外で四つん這いになりながら三回まわってワンって言ったほうがまだマシだ。
そうだ。燃やそう。服なら無くしましたみたいな感じで言い訳すれば何とかなるかもしれない。そうと決まればマッチを探そう。この際火事とかそんなの度外視して盛大に燃やそう。キャンファイヤーくらいいけばいいかな?
知らず知らずのうちに口から不気味な笑い声が漏れていた。それでも今は体裁より焼却処分が先だ。親友に見られようものなら着てくれと言い出すに違いない。だってこの女の子わりと可愛いし。
セーラー服をゴミ箱から取り出し、ビニールから引き出す。ビニールが溶けるとくさいし有害らしいから念のため。セーラー服がどうとか、そんなことは知らない。
セーラー服を持って玄関を出る。灼熱地獄に踏み出しながら、ふと寝ていた部屋がまったく寝苦しくなかったことを思い出した。たぶん、僕が薬で寝てる間に、兄貴がエアコンを買い換えてくれたんだろう。なんであんなに気が利くのにあんなにキチガイなのか。理解に苦しむ。
それはそうとして、たき火の準備をしないと。夏場だけあって、たき火が出来そうなものはどこにも落ちてないけど、どこかに何かしら落ちているだろう。なければ家にある雑紙を引っ張り出してきてそれで燃やせばいい。
そこで、僕はその後回しが間違いだったことに悟った。
「晶か? なにしてんだ?」
「あっ」
雄矢に見つかった。雄矢は、僕が手に持つセーラー服と何か探すような僕の態勢を交互に見て、だんだんニヤニヤ笑いを深めていく。
「はっはーん。さてはセーラー服を着る羽目になりそうだから焼き捨てようとしたんだな?」
お見事。でもできれば雄矢にだけは気づかれたくなかった。
ニヤニヤ笑いの親友は歩み寄ってきて、肩を優しく叩いてくる。
「諦めろん」
「死ね」
ド直球に罵倒した。だけど雄矢はまるで諦める気配を見せない。
「おいおい。昨日は諦めたって言っただろ? ならそこらへんも諦めろよ。似合うぜ?」
「似合いたくなんてない。あと、ここを諦めたら色んな意味で男に戻れなくなる」
「女装趣味に目覚めてもいいんだぜ?」
「それこそ死にたくなる」
身長170センチ越えの男が女装って、どう考えても似合わなすぎる。体格が明らかに女の子じゃない。もはや
「着てみようぜー。着てみようぜ晶ちゃんよー」
雄矢がうるさくまとわりつく。あまりにウザったいので、股間を蹴り上げようと足を振り上げた。しかし、足にはさまれて逆に転ばされ、後頭部を強打して悶絶する羽目になる。
「大丈夫かー」
「芝生じゃなかったら即死だったよ……」
後頭部を押さえながら元凶をにらみつける。反省の色がなかったから、拘束が弱まったのを見計らって足に力を込めた。足は拘束を離れ、見事に股間を直撃。変顔で固まった雄矢がそのまま崩れるように芝生に倒れた。
「うぉぉおぉお。あっきらぁ……貴様ぁ」
雄矢がこちらに恨みがましい視線を向ける。無駄にラスボスっぽい声だった。
僕はそれに、馬鹿にしたような笑いを返す。
「ざまぁ」
「てめぇ、覚えとけよ」
いも虫みたいに動く雄矢が、かなりブチ切れた声で脅迫してきた。その気持ちはわかるけど、今回はそっちが悪い。
しばらくにらみ合いをしてから二人して立ち上がる。おしりについた草を払っていると、目の前で股間の調子を確かめていた雄矢が朗らかに笑った。
「にしても、よかった」
「よかったって何が? 蹴られたこと?」
だとしたら、このマゾから早く距離を取らないといけない。
「ちげぇよ! ただ、今までずっと笑ってなかったから、やっと笑ったなって思っただけだ」
「あれ? 僕、そんなに笑ってなかった?」
「あぁ、そりゃもう仏頂面だったぜ」
そんな顔してたんだ。今までいっぱいいっぱいだったからかもしれないけど、まったく気づかなかった。
不意に、雄矢の手が僕の頭の上に乗った。手は僕の頭を撫で、なんだかくすぐったくて目を細める。懐かしい感覚に浸っていると、噴き出すような笑いが上から聞こえた。
「やっぱ笑ってんのが一番だ。可愛い顔してんだから、笑わなきゃ損だぞ」
「可愛いとかいうな! 僕は男だぞ!」
「わかってますよぉ」
ねっとりとしたいやらしい声が降りかかってくる。背筋に寒気がして、思わず雄矢の腕を払って後退した。
「今のすっごい気持ち悪い!」
「やめろ! 今のお前に言われるとダメージがデカい!」
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」
「やめろぉ!」
雄矢の声も顔もマジだった。えぇ……。
「頼む……。これ以上そう言うのはやめてくれ。俺からしたら知らない女の子から罵倒されてるようなもんだから。俺マゾじゃないから……」
しまいには泣きそうな顔で懇願された。いくらなんでもオーバーすぎると思ったけど、ここで追撃したらそれこそ泣きそうだからやめとこう。僕もそこまでサドじゃない。
「わかった。気持ち悪いね」
「うわぁああぁあああ!」
最後に追い討ちかけたらそれがトドメだったらしい。泣き叫びながら自分の家に戻っていった。道行く人たちの視線がこっちに向いたので、笑ってごまかす。雄矢のメンタルが弱くなければこんな目にあわなくて済んだのに。
「まぁ、面倒事は片付いたし。いっか」
改めてセーラー服の焼却にかかろうとして、そこで気づく。
「セーラー服がない……」
雄矢が走り去ったときに一緒に持ってかれたようだ。それにしても、セーラー服掴んで往来走ったんだアイツ。すごい。
素直に感心していると、すごい勢いで汗だくの雄矢が戻ってきた。
「晶! 悪い、間違えて持ってきちまった!」
「いや、別にいいんだけどね。こっちにあったら燃やすだけだし」
「やっぱこっちで管理してるわ!」
セーラー服を持ったまま、反転してまた走り去っていった。そんなにセーラー服が好きか。姉にでも着せるのか。
「まぁ、いっか」
燃料探しを切り上げて家の中に引き返す。家の中に入ると同時に、涼しい風が身体を包み込んだ。それに安心感を覚えながらリビングのキッチンまで行き、甘いコーヒーを入れる。コップの半分くらいまで注いでから、テーブルまで持っていった。コップを置き、ソファで横になる。さっき起きたから眠くはなかった。ただ無性に横になりたかっただけだ。
「にしても、明日どうなるんだろう……」
明日学校に行かないと皆勤賞が取れなくなる。だけど今の状態で皆勤賞とか言ってる場合じゃない。でも兄貴が帰ってこないことには進展も何もない。やっぱり詰んでる。
無意味に寝返りを打ちながら、約数分。僕は行動を起こすことに決めた。何かしていないと気が重くなる。そうだ、男のときの制服を着てみよう。
自室まで行き、クローゼットから男のときの制服を取り出してみる。なんとなく結末は見えていたけど、とりあえず羽織ってみた。
「なんだろうこの彼シャツ状態」
見ててなんだか虚しくなってきた。制服を脱いで元あった場所にしまう。今の光景は、黒歴史として忘れ去ろう。
「昔の制服も使えないかー」
となると、方法は一つだ。
階段を駆け下りて、電話の着信履歴を確認する。着信履歴から昨日の着信を確認し、校長先生のアドレスを表示させると同時に受話器を取った。数秒のコール音がして、相手と電話がつながる。
「新戸晶さんですか。何か御用でしょうか?」
一発で僕であると言い当てたことに内心驚きながら、手短に要件を伝えた。
「すみません。女子制服は抵抗があるので、寸法にあった男子制服を送っていただきたいのですが」
「あぁ、確かにいきなり女子制服は難しいでしょう。しかし、男子制服の手配には二日三日かかりますが、構いませんか?」
「はい。制服の手配はそんなに時間がかかるものなんですか?」
「そうですね。しかし、こちらも最大限の努力をいたしますのでご安心ください」
「わかりました。なるべく早くお願いします」
「善処いたします。頑張ってください」
最後にそう言い、彼は電話を切った。善処、か。すごいふわふわした言葉だ。受話器を起き、また部屋に戻る。冷房の効いた部屋でベッドに寝転がりながら、僕は天井を見上げた。
「セーラー服かぁ。着たくはないなぁ」
うつ伏せの姿勢で、ベッドの近くにあるセーラー服の入ってた袋を手にとった。服は雄矢が持っているはずなのに、なぜか重い。いやな予感を覚えながら、袋の奥に手を突っ込んで中身を引き抜いた。
「そういえば、兄貴は僕のスリーサイズとか知ってるのかな」
奥にあった袋の中身。
それは、簡素な女性用下着だった。
「これは、どうやるんだっけ」
明くる日の早朝、僕は早起きをして女の子の服と格闘していた。そういう経験がない親友も兄貴も頼れないし、雄矢のお姉さんはまだ寝てるから起こすのも悪い。
下着は、昨日の風呂で孤軍奮闘していたのですでにつけている。問題は、今手に持っているセーラー服だ。スマホを取り出し、セーラー服の着方を検索する。検索結果の最上部の記事から見ていき、使えそうな記事で操作する指を止めた。
「これがいいかな」
記事を見ながら、セーラー服に袖を通す。ある意味で全裸より恥ずかしい格好だ。しかもスカートが膝上丈だし。なんで女子っていつもこんな服装で生きてられるの。これって着てないのと同じじゃない?
答えのない自問を繰り返しながら、それでも着ないことには始まらないのでスカートに足を通す。スカートのホックを止めてスカーフをカラーの下に巻きつけ、セーラー服の着用を全て終えることができた。着け終わるまでのことは言いたくもない思い出だけど、上手くつけられないことを前提に早起きして助かったということと、そのせいですごく眠いことだけは言える。
よし、一個目の問題は片付いた。次の問題を片付けよう。
「まだ目の前がぼんやりしてる……」
まばたきをしても目をこすっても、結果は同じだった。朝からこんな感じだ。昨日の朝と似たような状態だったけど、昨日はすぐに治まってた。だけど、今日は起きたときから今までずっとこれだった。メガネを買ったほうがいいかもしれない。
「でも、なんで目が悪くなってるんだろ……?」
目に何かをぶつけたってわけじゃない。元々目が悪いわけでもない。
もしかして、女の子になったから?
「いや、関係ないでしょ」
そんなんだったらメガネっ娘で世界が埋まってる。
「まぁ、いいや。帰りに安いメガネでも買っておこ」
じきに男に戻るんだし、あんまり高いのを買っても意味が無い。
一通りの準備をすませてから時計を確認する。登校時刻には、少し余裕があった。朝ごはんも食べたし、制服も着た。二日三日辛抱すれば、晴れて男子制服に戻れる。前向きに考えれば、学校も楽しめるだろう。
いや、無理だ。引きこもりたい。
僕の弱音にトドメを刺すように、インターホンが鳴った。深い深いため息を吐いて、バッグを肩にかけて階段を降りる。
玄関を出ると、金髪に着崩した学ランという、相変わらずの不良スタイルをした雄矢がいた。
「晶、迎えに来たぞ」
「ありがと」
言いながら、ローファのつま先を地面で叩く。うん、サイズも合ってる。
「なぁ、晶」
神妙な声がして顔を上げた。親友は、いつになく真剣な顔をしている。
「すごく可愛いぞ」
「いや、それは僕に向けるべきじゃない」
真面目な顔で何をのたまってるのか。
「馬鹿なこと言ってないで行くよー」
「あ、あぁ。……行こうかお姫様!」
今まで混乱してたっぽいけど、やっといつものお調子者みたいな笑顔を浮かべた。さっきの真面目は調子が狂うから、こっちのほうがちょうどいい。
並んで通学路を歩く。周囲の視線が気になったけど、雄矢との会話でごまかした。今の僕にとって、雄矢は一番信用できる理解者だ。僕みたいなやつに嫌悪感も出さないで接してくれるし、何より反応も面白いし一緒にいて楽しい。
あ、そうだ。いいこと考えた。
走って雄矢の前に行き、身体の向きを反転させる。僕の突然の行動に対して不思議そうな顔をした親友に、出せる範囲での最大の笑顔を見せてやった。
「しっかり守ってね。騎士様」
雄矢がその場で固まり、一気に顔がリンゴみたいになった。口をパクパクさせて、その姿は金魚のようにも見える。
面白くてついつい眺めてたけど、いつまでたっても金魚みたいなままでフリーズしているので、肩を揺すって正気に戻すことにした。
「ごめん。やりすぎた」
「やりすぎだよこの野郎」
頭を振って恨み言を言う雄矢の顔は、まだ赤い。
「そんなに破壊力あった?」
「この、可愛さ自覚してるところが腹立つ……」
でも実際可愛いし。
「こういうのは最大限活用しませんと」
「開き直ってやがる……」
心底呆れた表情で僕を見てくる。失礼な。
「まだまだ不安だけど、ここまできたら楽しむべきだよ」
「じゃあ、その開き直りで水着デビューもすぐそこだな。今は夏だし」
「それは無理」
「なんでだよ!?」
「まだ笑顔を振りまいて男を釣るのは面白いだけですむけど、服装は無理。僕にダメージが来る」
「お前最低だな!」
雄矢の言葉に知らぬ存ぜぬを貫き通す。
その態度に親友が呆れたような顔をしたとき、見知らぬ少女が僕らを追い抜いた。彼女は走りながら振り向き、こちらに手を振ってくる。
「友部くん、おはよー」
「おはようさん」
女の子のあいさつに雄矢も返し、彼女はそのまま走り去ろうとして、ふと僕を見て立ち止まった。
「友部くん、そこの女の子誰?」
「ん? 俺んちの近所に引っ越してきた子。今日から通うんだとよ」
「へー! 可愛い子だね! 一瞬、彼女かと思ったよ!」
「彼女じゃねぇよ!」
僕の横で、顔を真っ赤にした親友が猛抗議している。しばらくその抗議を見ていたけど、ぜんぜん前に進まないから僕は先に行くことにした。知らない同級生と顔を合わせるのは、なんか気が進まない。
やがて、後ろで抗議の声が聞こえなくなった。振り向けば、思ったより遠くから二人が走ってくるのが見える。あの感じだと、止まって話してたのかもしれない。
片方は荒い息を吐きながら、もう片方は余裕の表情で僕のところまでたどり着いた。余裕の表情の女の子は、ふと僕の胸元に目を留めた。
「あ、スカーフの結び方おかしいよ? もしかしてセーラー服初めて?」
「う、うん。前の学校はブレザーだったから」
もちろん嘘だ。姿見の前で着替えられなかったから、今の今まで気づかなかった。
「よし、じゃあ私に任せて! 友部くんは捕獲!」
そう言って、僕の肩を掴む見知らぬ女の子。逃げようとしたけど、背中を雄矢に掴まれて逃げるに逃げられなかった。
ただ、されるがままにスカーフを結ばれる。シャンプーだかわからないけど、女の子からいい匂いがして思わず顔が赤くなった。
「動かないでねー。キレイに結べないから」
「は、はい」
ガッチガチに固くなりながら、ただ結び終わるのを待つ。結び終わるのには一分もかからなかった。
「はい終わり! どうよ友部くん。確認してみて」
「おぉ、キレイに整ってるな。流石だよ」
満足気な女の子は、雄矢の賞賛にダブルピースで返答した。覗きこむような姿勢の雄矢に視線を向けると、少し赤い顔でそっぽを向かれる。
「それじゃ、私がやるべきことはやったし、そろそろ行くね―!」
「おう、じゃあなー」
女の子は元気に手を振りながら走り去っていく。僕はその背中を追ってから振り向いた
「可愛い子だったねー。知ってる人?」
「んー? 彼女」
「はぁ!?」
そんなの初耳だ。今まで隠してたとしたら、なんて水臭い。言ってくれればいいのに。
「そう妬くなよ。嘘だ嘘」
「妬いてないし!」
というか嘘なんだ……。
「やっと雄矢にもモテ期が来たと思ったのに」
「おい、それ今までモテ期がなかったって言ってるみたいじゃねぇか」
「幼稚園から今までずっと一緒だけど、モテてるのを見たことがないよ?」
「そうだったか? やたら女子と話してた記憶があるぞ?」
「覚えてるけど、確か半分以上がパシリだったよ」
雄矢がマジか、とでも言いたげな顔で固まった。ついで考えこむように眉をひそめる。
「いや、それはないだろ……。あ、でも確かにやたらものを頼まれてたような気がしなくもない……。幼稚園の頃なんてあんま覚えてねぇからなぁ」
「おーい」
返事がない。うつむいて集中しているせいか、顔の前で手を振ってもダメだった。
仕方ない。考え込む雄矢の手を掴み、無理やり前へと進ませる。い、意外と重い……。
「おい! 手を掴むなよ!」
「別にいいじゃん」
歩きにくいのはわかるけど、早く行かないと遅刻するよ?
「お前、今は女だろ!?」
「過剰だよ過剰。今でも女の子とスキンシップとってるでしょ?」
「それとこれとは話が違うというか……」
「どう違うの?」
僕の問いに、雄矢は首を傾げた。
「どう違うって言われてもなぁ。ほら、彼氏彼女みたいに見られたらお前が迷惑だろ?」
僕と雄矢が彼氏彼女? 確かに今の感じだとみんなに疑われそうではあるけど。
「気にしなくていいよ。気遣ってくれたのはありがたいけど、僕はもともとは女じゃないから気にしない」
「だからそういう意味じゃ……あぁ、もうわかったよ! その前に手を離せ歩きにくい!」
僕の手を振り払って不機嫌そうに鼻を鳴らす親友が面白くて、思わず笑ってしまった。それにさらに突っかかってきて、ひらりとかわしたらドンドン不機嫌になっていく。十回くらいかわしたあたりで、そろそろ本気で怒り出しそうになっていたので、いい加減にやめて横並びに戻る。
そこからは、他愛のない話をしながら歩いた。雄矢に金髪似合わないって言ったらあっさり黒髪にするって宣言が来たり、道中の旧友とか見知らぬ男女から彼氏彼女扱いされて雄矢が真っ赤な顔で抗議したり。
なんで、そんなに赤面したり目をそらしたりするの?
そう思いはしたけど、口には出さなかった。また追いかけられると面倒だし。
だいたいは雄矢が赤面していただけの通学路も、やっと終わりを告げた。目の前にはコンクリの固まりでできた学び舎が待ち構えている。帰りたくなったけど、雄矢に引きずられる形で中に入らされる。職員室に行くと、そのまま校長室に案内された。
校長先生の説明は手短だった。兄貴から薬で性転換したことを説明されたこと。それで色々な場所に便宜を図ったこと。そして、これからは偽名を使って生活してほしいということ。以上の三点を守ってほしい、と頼まれた。校長先生の目の下にできたくまを見れば、それが大変な仕事だったことは明白だ。僕と雄矢はいつか校長先生にお礼をしようと誓い、新しく必要になったものをバッグに詰め込んで教室に急ぐ。校長先生曰く、僕は転校生として扱われるらしいので、今の教室は転校生が来る話で持ちきりだろう。
「ねぇ、雄矢」
「なんだ?」
少し前を歩いていた親友が振り返る。
「僕はこれからどうすればいいかな?」
「そんなこと俺に言われてもなぁ」
困惑顔の雄矢は首を掻きながら、それでも考えてくれた。
「まぁ、お前がやりたいようにやればいいだろ。決めるのも悔やむのもお前だしな」
「確かにねー」
雄矢の言葉にただうなずくしかない。
そこからは無言で歩き、階段を登ってやっと教室にたどり着く。イベント特有のうるささが聞こえてきて、気が重くなってきた。
「先に入ってるぞ。覚悟決めたら入ってこい」
「う、うん」
覚悟決めろって。そんなこと言われたらずっと悩む自信がある。それでも、頼みの綱は教室に入っていってしまった。もう、僕の悩みを受け止めてくれる人はここにいない。
どうしよう。その考えだけが頭を駆け巡る。それでも自体が好転するわけでもなんでもなく、ただ時間が過ぎるだけだ。
息を吐き、吸う。そして頬を叩いて覚悟を決めた。勢いよくドアを開ける。クラスメイトはみんな面食らった顔でこっちを見ていた。それでも足は止まらない。
クラスメイトと同じような顔をした担任を横目に、チョークをとって黒板に一気に名前を書き上げる。
そこに書いてある名前は『新戸晶』。背後で吹き出すような音が聞こえてやっと我に返った。
あれ、なんで本名書いてるんだろう。
「あぁ、その……だね」
困惑気味の担任が、言葉を探すように天井を見上げた。たぶん、事前に聞いていた名前と違ったからだろう。大丈夫、僕も困惑してる。
どうしようもなく詰んだ状況で考える。ここをどうやって切り抜けよう。唯一の味方も机に突っ伏して笑ってるし。っていうかなんで笑ってんのさ。
クラスメイトの視線が僕に集まる。まったく嬉しくなかった。
うん、もういいや。腹を括ろう。校長先生ごめんなさい。
「元クラスメイトの新戸晶です。ちょっと女の子になっちゃいました!」
直後。耳をふさぎたくなるような驚愕が教室に響き渡った。
ホームルームが終わると同時にクラスメイトに囲まれた。当然のように、なんで女の子になっちゃったのかという質問が来たけど、兄貴のせいって言ったら全員が納得した。便利すぎる。
「ねーねー。女の子になったってどんな気分?」
僕にそんな質問を投げてきたのはクラスの女の子だった。ちっちゃくて、茶髪をゆるくカールさせたような見た目の、確か体育が苦手な子だ。
彼女は子供みたいにキラキラした目でこっちを見てくる。
「違和感しかないよ」
「だよねー」
のんびりとした口調で彼女も同意した。この子、ゆるふわ系の匂いがする。
そのとき、教室のドアが開いて一限目の先生が入ってきた。僕に群がっていたクラスメイトは蜘蛛の子を散らすように席に戻り、僕はゆるふわ系女の子に連れられるように自分の席に案内された。席は男のときと変わらない席だった。妙に高い椅子に違和感を覚えながら座ると、ニコニコ笑顔のゆるふわ系女の子は笑顔を花咲かさせる。
「じゃあ、これからよろしくね晶ちゃん!」
「そこ、席につけ」
「はーい」
先生の注意に元気に返答した彼女は身体の向きを変える。しかし、不意に顔をこちらに向けた。
「じゃあ、また更衣室で会いましょー」
そう言って、今度こそ彼女は自分の席に向かった。
あれ? もしかして今日って水泳?
目配せでゆるふわ系女の子に確認をとるが、相手はそもそも僕の行動に気づいた様子はなかった。
教師が黒板に数式を書いていく中、僕は彼女に視線を向ける。今まで女の子と全然話したことなかったけど、すごい話しやすい子だった。ただ、名前が全くわからない。心の中でゆるふわちゃんと呼ぶことにしよう。
そんなことより更衣室の話だ。時間割とかド忘れしちゃったし、休み時間とかに聞いてみよう。
だけど、結局聞き出せる時間がないまま昼休みになってしまう。僕と雄矢は、ゆるふわちゃんに誘われ、机をくっつけてお弁当を食べることになった。雄矢とゆるふわちゃんは意気投合して色々と話している。なかなか会話は終わらなかったけど、雄矢とゆるふわちゃんの会話が途切れたところを見計らって、彼女に質問を投げた。
「で、更衣室ってどういうこと?」
「そのままの意味だよー。水泳の授業があるから更衣室で水着に着替えるってことー。水着持ってきた?」
「一式は渡されてるけど……」
いや、いきなり水着って難易度高すぎるでしょ。いきなりラスボス登場かい。
僕の悩む横で、雄矢が身を乗り出した。
「っていうことはあれか? 今日は晶の水着姿が拝めるってわけか?」
「そういうことだね」
「よっしゃ、よくやった時間割!」
何に対して感謝してるんだコイツ。天に拳を突き上げている親友に冷めた目を向ける。それすらも雄矢にとっては心地いい目線だったらしく、ニヤニヤした顔でこっちを見てきた。やっぱり気持ち悪い。
「いやぁ、楽しみだなぁ晶の水着姿」
「いっぺん死んでみる?」
思わず語調がマジになった。ゆるふわちゃんが軽くのけぞるくらいには迫力があったらしい。雄矢も若干引いてる。
「冗談だよ冗談。にしても、更衣室って言ったって今までコイツは男だったんだぞ? どこで着替えんだよ」
「女子更衣室でいいんじゃないの?」
「はぁ!?」
あっさりとした回答に驚き、雄矢と言葉がハモった。
「いやいやいやいや。それはマズイ。色々とマズイ」
「え? そんなにマズイ?」
「元男が女子更衣室に入るのはマズイだろ」
僕と親友の苦言も虚しく、ゆるふわちゃんは首を傾げるだけでマズイことに全く気づいてない。常識的に考えて男が女子更衣室に入るっていう選択自体が意味不明だ。
「一人で教室で着替えるっていうのは?」
「男子がここで着替えるの忘れたー?」
「あ、じゃあ。トイレで着替えられないかな?」
「女子トイレ入れるー? 男子トイレ入ったらどうなるかわかってるー?」
「無理だね……」
代案がどんどんと潰されていく。プールに近い空き教室を使おうにも、許可が下りるかわからないし。
いや、諦めるのはまだ早い。
「空き教室が使えないか、これから校長先生に直談判してくる!」
「校長室の前に出張の張り紙があったし、今日は校長先生いないと思うよー」
詰んだ。
絶望する僕の横で、椅子を後ろに傾けて遊ぶ親友が声を上げて笑った。
「まぁまぁ。大人しく水着姿晒そうぜ晶ちゃん」
「うるさい」
ニヤニヤ笑いを浮かべる雄矢の額を殴る。椅子の足がずれる音がして、視界から親友が消えた。下で鈍い音がして、見下ろしたら腕を投げ出すような形で白目を剥いている。
「え、大丈夫?」
雄矢の額をつついてみる。白目のまんまで返事はない。
机越しにこちらを覗き込んでいたゆるふわちゃんが、どこか非難めいた視線で苦笑いした。
「流石に、やりすぎだと思うなー」
「ちょっとやりすぎた……。でもさ、朝っぱらからこんな感じで絡んでくるんだけど、もし僕の立場だったら一発くらい殴らない?」
「一発は殴るかもねー。それでもこれはやりすぎだよー」
まったくもって、言い返せないくらいの正論だった。現状で数少ない信用できる理解者だし、なによりやらかした罪悪感もあってここで放置できない。
「こいつ保健室に運んでくるね」
「いってらっしゃい。早く帰ってきてねー」
ゆるふわちゃんの言葉に頷き、運ぼうとしてそこで気づいた。
「ごめん。誰か運んで」
僕の腕力じゃとても運べない。幸い近くの男子が快く引き受けてくれたので、その人に任せることにした。
改めて椅子に座り、ゆるふわちゃんに向き直る。
「じゃあ、どうやってこの危機的状況を切り抜けるか。一緒に考えよう」
「諦めればー?」
それができたら苦労はしない。
「それでねー。お兄ちゃんの同僚さんってすごいんだよー」
「あぁ、うん……」
水着の入ったバッグを持ち、僕とゆるふわちゃんは更衣室を目指す。
結局、試練からは逃れられなかった。
「色々と発明してて、ちょっと前に侵入者警報装置とか、って聞いてるー?」
「ごめん、あまりにこの先が不安すぎて聞こえなかった」
「無理ないけどねー。もともと男の子だったのに今じゃ女の子だし」
それもあるけど、それ以上にこれから女子更衣室に入ることへの不安だ。
「無理。体調不良を訴えて休みたい」
「いいの? 確か晶ちゃんって成績不振を体育の成績でギリギリ補ってたって聞いたけど」
「うん。正解」
だから、今すごく休みたい水泳すら休めない。騒ぐ筆頭になりそうな親友がいないだけマシだけど、それでも男子の前で肌を晒す気なんてさらさらない。それもこれも男のときの成績を受け継がせた学校側が悪いんだ。滅びろ。
僕が学校に全力で恨み言を吐いていると、横のゆるふわちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「ねーねー。なんでそんなに休みたいの?」
「それは、男の前に出るのが……」
ここで、すごく致命的なことに気づいた。
絶対に回答間違えたし、なんで女の子の思考なんだろう。
「男の前に……?」
「いや、女子更衣室に行くのやだなー、って思っただけだよ!? 男の前になんて言ってないからね!?」
わかりやすいごまかしを言いながら、内心頭を抱えた。なんで女の子みたいなこと考えたんだろう。女の子みたいなことなのかは無視して、男が男の前で肌を晒すのをためらうはずがない。つまりはちょっとくらい女の子に寄ってきたということで……。
「いやいやいやいや」
それはない。断じてない。僕は男だ。肌を晒すのなんて問題ない。むしろどんと来い。でも、なんであんなこと考えたんだろう。
「意味わかんない」
「なにが?」
ゆるふわちゃんに聞き返されて、返答に迷った。二秒くらい考えて、答えを返す。
「身体が女の子になったこと」
「割り切っちゃえば楽しいと思うよー」
それができたら苦労しないんだって。
思いながら肩をすくめたとき、見慣れない通路に出た。通路の壁には向かい合うような二つのドアがあり、それぞれの札には男子更衣室と女子更衣室と書かれている。僕はゆるふわちゃんに連れられて、女子更衣室の前に向かった。
「さーさーご対面!」
「いきなりやめてよ!」
僕の制止も虚しく、ゆるふわちゃんは更衣室のドアを無慈悲に押し開ける。待っていたのは女の子が着替えてる天国とも地獄とも言えない場所……って。
「あれ、いない?」
女子更衣室には誰もいなかった。本当にここなのかはわからないけど、ゆるふわちゃんが連れてきたくらいだし確かなはずだ。
なら、なんで誰もいないんだろ?
その疑問に、着々と着替えの準備をしていたゆるふわちゃんが答えてくれた。
「晶ちゃん集中してたから気づいてなかったっぽいけど、あたしたちゆっくり歩いてたからもう授業始まってるよー?」
「あ、そうなんだ。え、でもそれってマズイんじゃない!?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。先生は事情知ってるから、ちゃんと言ったら五分十分なら授業に遅れてもいいっていう許可もらってるよー。あたしも付き添いとして許可されてるし」
そう言いながら、あくどい笑みを浮かべてるゆるふわちゃんを見て気づいた。この子、僕をダシにしたな。
それでもありがたいことに代わりはない。お礼を言って、僕も更衣室に入ろうとした。途端に、形容できない香りがただよってくる。なんだろう、この入りにくくなるような香りは。
「なにやってんのー?」
「あ、ううん。なんでもない」
下からゆるふわちゃんが覗き込んでくる。彼女はいつの間にか水着に着替えていた。
「いつ着替えたの?」
「これ? 服の上に着てたのだー。女の子の常識だよ?」
「え、そうなの?」
「さー、どうでしょー?」
くるくると回るゆるふわちゃんは心底楽しそうだ。こっちまで楽しくなりそうな雰囲気だったけど、今は急がないとマズイ。
「お願い。ちょっと後ろ向くか外に出るか先に行っててくれる?」
「先に行くと逃げちゃいそうだから、外で待ってるねー」
そう行って入れ違いに彼女は外に出ていく。ドアが閉まる音がして、部屋の中が静かになった。
部屋に衣擦れの音が響く。頑張って音を耳に入れないようにしながら、ふと思い出したことを口にした。
「そういえばさ」
「どうしたのー?」
「いや、雄矢が明らかに無理してるから、誰かフォローしてくれないかな、って思ったんだ。無理させてる人じゃフォローできないし」
「それであたしに頼もうって思ったの?」
「うん。可能なら」
「いいよー頼まれた!」
話してみて人柄がいいとはわかっていたけど、この快諾は素直にありがたい。なんとか身体を触らないように着替え終えて、更衣室にある姿見を視界から追いやりながら部屋を出た。部屋の外では、ゆるふわちゃんが準備運動らしきことをしている。
「終わったよ」
「終わったんだー。おー、可愛いねー!」
見下ろす気はさらさらないけど、どうやら可愛いらしい。
それより、今はお礼を言わないと。
「頼まれてくれて、ありがとね」
「いいよー。それより早く行こ! そろそろ十分過ぎちゃう!」
「うん。……ズル休みしちゃダメかな?」
「ダメでーす」
ダメかー。
裸足で冷たい廊下を走ること一分足らず。一気に熱気に包まれた外の空気に身を晒す。視界にはプールが映っていたけど、僕達はまだプールサイドにすら入っていなかった。
みんなが楽しそうに水泳をするのを、物陰から遠巻きに見る。レーンが区切ってないから、今日は自由時間なんだろう。
僕の行動に巻き込まれる形で一緒にいるゆるふわちゃんの顔には、少し焦りの色があった。
「早く行かないと怒られるよー」
「いや、最後の決心がつかなくて」
いざ行くとなると怖い。元男が女の格好って気持ち悪すぎるし。上辺で歓迎しているように見えて裏で色々言われてたりしないか、ただ不安だった。元をただせば黒板に本名書いてその場の勢いでしゃべっちゃった僕が悪いんだけど。それとこれとは話は別のはずだ。
「まどろっこしいなー。えい!」
「うわっ!?」
後ろから押され、思わず物陰から身体を出してしまった。
第一発見者の鬼教師が、険しい顔で時計と僕らを交互に見ている。
「授業始まって……十二分だお前ら! 俺が許した時間とはだいぶ違うなぁ? 新戸はともかく、お前まで遅れてくるとはいい度胸だ!」
「二分くらいなんとかならないんですかー!?」
「遅刻は遅刻だ! ほれ、これから俺が直々に教育してやるから覚悟しろ!」
鬼教師に体育嫌いが連行され、それについていくように僕もプールサイドに足を踏み入れる。クラスメイトの視線が集まり、また物陰に戻りたくなった。それをなんとか耐えて、男子の集団に行こうとしたところで足を止める。
「どうしよう……」
今の僕は男じゃないから、男の集団に行くと浮くだろうし、たぶんみんな遠慮する。でも、女子の集団に僕の居場所はないだろう。雄矢もいないし、ゆるふわちゃんもあっちで泳ぎの訓練中だ。なんでこう、僕って自分で自分の首を絞めるんだろう。
思わずうつむく。そのとき、不意に肩を叩かれた。
「おい。こっちきて遊ぼうぜ晶」
「雄矢!? なんでここにいるの!?」
てっきり、まだ保健室で寝てるもんだと思ってたけど。怪我は大丈夫なんだろうか。
「そりゃ、今日は自由時間だからな! 遊ばなきゃ損だろ」
理由になっているようななってないようなことを言いながら、笑って僕の方を乱暴に叩く。痛い。
「もう大丈夫なの?」
「大丈夫だよ問題ない。頭打っただけだし」
「やーい不死身! ゾンビ!」
遠くから手メガホンで男子生徒たちが茶々を入れる。
「うるせぇ黙ってろ! まぁ、大丈夫だから気にするな」
「うん、そっか。さっきはごめんね」
「いいさいいさ。それより今は遊ぼうぜ!」
「そうだね!」
雄矢はプールに飛び込み、手招きした。本来は飛び込み禁止だけど、今日くらいは羽目を外そう。あとで怒られれば済む話だ。
「待て新戸……!」
飛び込む寸前、鬼教師の切迫した声が聞こえた。なんでそんなに焦ってるのかわからなかったけど、水の中に入った瞬間にその疑問は氷解する。
泳げない。いや、正確には水の中でバランスが取れなかった。足が水を蹴ろうと動くものの、虚しく水を切るだけだ。必死に空気を吸おうと顔を上げるせいで、余計にバランスが崩れて水の中に沈んでいった。
息が苦しい。息が、できない。誰か、助けて。
だんだんと目の前が黒くなっていく。僕の視界に最後に映ったのは、必死の形相で僕に手を伸ばす雄矢だった。
口の中に水が溜まっていることを自覚した。思わずせき込んでそれを吐き出す。
「あ! 気がついたみたいだよー!」
ゆるふわちゃんらしき声がして、続いて色んな人が驚いたり喜んだりする声が聞こえる。目を開けると、男衆に寄ってたかって肩を叩かれたりしている雄矢が見えた。
「よくやった! よくやったぞゾンビ!」
「そのやっつけのアダ名やめねぇか!?」
新手のいじめみたいに身体中を叩かれながら、それでも雄矢は嬉しそうだった。やっぱりマゾだったか。
「友部くんすごかったんだよー。晶ちゃんが溺れたときに真っ先にプールの中に入ってたんだから。引き上げたときに呼吸してなかったときにみんなオロオロしてたのに、友部くんは冷静に対処してたんだー」
「そっか。雄矢、ありがとう」
僕は未だにこづかれている親友に笑みを向ける。その顔が赤くなって、こづきがフルボッコに変わった。
「てめぇ!」
「いてぇよ! やめろバカども!」
「うるせぇ!!」
男子全員が唱和して、フルボッコが激しくなった。最終的に鬼教師が止め、流れるようにお説教タイムに入る。特に僕が集中して怒られたけど、自業自得なので甘んじて受けた。
お説教が終わるとタイミングよく授業終了のチャイムが鳴り、みんな慌ただしく着替えに走る。次の授業は時間にやかましい先生だから、遅れたくはない。
雪崩れ込むようにして更衣室に駆け込み、みんな僕の存在を忘れたかのように着替え始める。左隣の女の子は、僕を気遣ってか目隠しの布を渡してくれた。それを目の前に巻きつけて、急いで着替えに入る。
「急げー!」
みんなの気持ちを代弁するような誰かの声で、衣擦れの音が一気に早くなった。ちなみに、ゆるふわちゃんはとっくに着替え終わって、僕の服を掴んだり離したりしながらぐるぐる回っている。早く行きなよ。
「ねーねー。いい加減に目隠し取ったらー?」
「お願い。頼むから僕を追い詰めないで」
ただでさえ目隠ししてるせいで自分の肌を意識しちゃうのに。あ、柔らかい。
「どうしたのー? 顔赤いよー?」
「なんでもない。なんでもないから、早く教室戻って」
「教室は男子の巣窟だよー?」
そうだった。僕ならともかく、女の子はあんな場所に入れないだろう。
「あたしはお兄ちゃんの全裸とか見慣れてるからいいんだけど、それで堂々と入ったら男子がかわいそうだしねー」
「そっちの配慮!?」
想定とは斜め上の言葉に驚いていると、後ろから肩を叩かれる。
「私は別に気にしないから、目隠しとってもいいよ?」
「いや、流石にそういうわけにも……」
「みんな別にいいよねー?」
その声の呼びかけに、少なくない人数が賛同の声を上げた。今はその優しさを恨みたい。
いよいよ逃げられなくなった。女の子と仲良くできたはいいけど、ほとんどが痴女ってどういう状況だ。しかも、誰かが僕を拘束して身体の向きを反転させた。必然的に、目隠しを外せば女子を視界に入れることになる。
なんだろうこの詰み。覚悟を決めるしかないのか。
拘束された腕を曲げて目隠しを外す。視界に入ってきたのは痴女集団、というわけではなく、すでに着替えを終えた女子の集団だった。全員がニヤニヤ笑っている。
「どうしたの? そんなポカーンってしちゃって。あれかな? 変な想像でもしてたのかな?」
してました。痴女なんて思ってごめん。
「ほら、早く着替えないと先生に怒られるよ! 早く早く!」
「は、はーい」
やたらテンションの高い女子の促しで着替えを再開する。全員が僕の身体を品定めするように見回していた。すごい恥ずかしい。着替えを中断して逃げたい。
それでもなんとか着替え終えて、次からは空き教室で着替えようと心に誓った。僕が着替え終わったころには女子生徒はほとんど教室に向かっており、残っているのは僕と数人の女子だけだ。
「じゃあ、教室で会おうねー。そういえば、胸の柔らかさは元男子でも変わらないんだね」
「残念ながら、今の僕は女の子の身体だからね!」
胸を隠しながら、ひらひらと手を振る女子をにらみつける。
不意に、薄ら寒い視線が背中に突き刺さった。振り返ると、黄土色の髪をした女の子がこちらをにらみつけている。見覚えのない女の子だったけど、髪が濡れてるからクラスメイトだということはわかる。すでに着替え終わっていた女の子は、もう一度僕をにらみつけて去っていった。
姿が見えなくなってから、率直な感想を口にする。
「なんか、キツネみたいな女の子だったなー」
キツネ耳が似合いそうというか、そんな感じの女の子だ。よくわからないけどキツネっぽい。
そんなことを考えて、僕は背中から抱きついてくるゆるふわちゃんを軽く叩く。行くことを伝えようと思って、そこで彼女が震えていることに気づいた。
「震えてるけど、どうしたの?」
「ちょっと冷えちゃったかなー」
背後で苦笑いする声が聞こえる。どことなく苦しそうだ。
「無理しないでね? 熱出たら保健室行くんだよ?」
「ありがとー。なんか晶ちゃん、お姉さんみたいだねー」
「今までずっと雄矢の世話してたしね。ほら、行くよ」
ゆるふわちゃんが、うなずくように顔をこすりつけてくる。
さっきの女の子がキツネなら、この子はネコだな。
心の中で確信にも似た思いを抱きながら、教室に向けてひた走る。
すでに、本鈴は目前だった。
昼休み。男子連中にどこかに連行された雄矢を抜いて、ゆるふわちゃんと二人で昼食を食べていた。ゆるふわちゃんは弁当、僕は学食で買った惣菜パンだ。益体もない話をしながら食べ進め、一段落ついたところでゆるふわちゃんが話を切り出してくる。
「そういえばー。あとでお買い物行かない?」
「え、なんで?」
「女の子になって衣服とか色々足らないでしょー? 女子としてなにかお手伝いできればなー、って思ってこの結論にたどり着きました!」
ゆるふわちゃんがニコニコ笑顔で胸を張る。小さい身体が、そのときとても頼もしく見えた。
「そっか、ありがと。ご厚意に甘える事にするよ」
「おっけー。じゃあ下校するときにねー」
うなずこうとして、そこで重要なことを思い出す。
「ごめん。お金持ってない」
「いいよー。貸してあげる。これでもお金は持ってるほうなのです!」
そう言って、また胸を張ってみせる。さっきとは違って、小さい妹みたいで微笑ましい。
そのとき、ちょうど予鈴が鳴った。
「じゃあ、またあとでー」
「またあとでねー」
弁当箱を片付けたゆるふわちゃんは、机を元の位置に戻して自分の席に歩いていく。その途中、黄土色の髪の女の子が話しかけていた。キツネみたいと思ったけど、改めて見ると少し不良っぽい。でも二人は楽しそうに話してるし、仲がいいのかな。
二人から視線を外し、勉強道具を取り出す。次の授業は……世界史だ。名前覚えるの面倒だなぁ。
無意味に伸びをしていると、本鈴が鳴って日直が起立を促した。授業前の挨拶を終えて授業が始まる。授業内容は特筆するまでもなく、ただ一つ僕が偉人を一人忘れて恥をかいたくらいだろう。
放課後を告げる放送が流れ、僕とゆるふわちゃんは学校を後にする。雄矢は男友達にカラオケへ連行されたらしい。
ゆるふわちゃんに連れてこられたのは、最近できた巨大なショッピングモールだった。僕としては商店街のほうが性に合ってるけど、ものを揃えるのならこっちが最適だろう。
「えーっとー。下着と上着と、それから学校外で着る水着とか必要かなー?」
「そんなに買わなくていいよ? 来年の今頃には男に戻ってるはずだし」
「お兄さんが男の子に戻るお薬作ってるんだっけ? 信頼してるんだねー」
「信頼してるってほどでもないよ。普通だよ」
「そうかなー?」
ゆるふわちゃんはコテンと首を傾げた。可愛いなぁ。
隣を歩く女の子の仕草に癒やされながら、女性服の階を目指して歩く。雑貨中心の一階から女性服の階へ行くと、女性だらけの場所にたどり着いた。何人かいる男はカップルの片割れか店員かもしれない。流石にお一人さんはいないだろう。
それにしても、すごくいづらい。
「帰っていい?」
「ダメー」
即答されて、引きずられるように女性服売り場に連行される。逃げようとすればするほど周りが見てくるので、恥ずかしくなって逃げるのはやめた。
仕方なくゆるふわちゃんの横を歩き、彼女の物色を横目に見る。彼女が手に取るのはほとんどがフリルで覆われたような女の子女の子した服だった。それを着た僕がイメージできない。何度もフリルだらけの服を見せつてくるふるふわちゃんに、首を横に振って元の場所に戻させる。それを幾度となく繰り返して、やっと買い物を終えることができた。買ったのは青いTシャツと、妥協の末に買ったホットパンツ。ジーンズが欲しかったけど、スカートよりずっとマシだ。
次に向かったのは忌まわしき下着コーナー。僕はゆるふわちゃんにスリーサイズを伝えて、彼女の捕獲をなんとか振り切った。五分くらい間を置いて戻ってみると、フリルたっぷりの下着を山のように買ったゆるふわちゃんが、満面の笑みで手を振っていた。場の空気を理由に逃げたのは間違っていたかもしれない。
若干の後悔を抱えながら、上機嫌のゆるふわちゃんと歩く。お互いに無言で、周りは女性たちが思い思いの話題に花を咲かせていた。その空間が耐えきれなくて、 なにか話題を出そうと口を開く。
「それでさ、ゆるふわちゃん」
「んー? ゆるふわちゃんってあたしのことー?」
しまった。ついソウルネームが口から出てしまった。
「その、本名とか覚えてなくて、だから心の中でゆるふわちゃんって呼んでたんだけど……」
どんどんと墓穴を掘っていく。ここまでよくしてもらってるのに本名知らない宣言はなんだ。バカか。
一人で顔真っ青にして固まっていると、服の裾をゆるふわちゃんが引っ張った。
「別にそんなに気にしなくていいよー。昔にそのアダ名で呼ばれたことあるから。ちなみに、あたしの名前は
「ごめんなさい……」
僕の謝罪に、ゆるふわちゃん改め古川さんはまぶしいくらいの笑顔で応じた。天使か。
「それより、早くメガネを買いに行こー。目が悪くなってるんでしょー?」
古川さんに手を引かれ、エスカレーターで目的地を目指す。古川さんに連れていかれたのは真新しいメガネ屋さんだった。彼女はやたら高そうなメガネを勧めてきたけど、男に戻ったら無用の長物になるという理由で、安っぽいメガネを買うことにする。
メガネは面倒な手続きを踏んで買い終えた。明日ここに来ればメガネがもらえるらしい。今は仮のメガネを貸してくれるらしく、それを受け取って帰路についた。
「どう? どうどう晶ちゃん?」
「どう、って言われても。見やすくなったとしか言えないよ?」
メガネのつるを持ち上げて位置を調整する。枠が邪魔だけど、前より格段に見やすくなった。
「そういえば、なんでコンタクトレンズにしなかったのー?」
「目に直接つけるっていうのが怖かったからね」
試しにメガネを下にずらしてみた。ぼんやりした視界の中で、こちらに手を振る姿が見える。
メガネをかけ直すと、その人物が雄矢であることがわかった。雄矢は荒い息を吐きながらこちらに走り寄ってくる。カラオケをし終わるには早い時間だろうけど、どうしたんだろう。
「カラオケどうしたの?」
「テンション上げすぎて、俺を除いた全員が喉枯れて強制終了。現地解散で今帰るところだ。そっちは買い物だったか?」
「うん。古川さんが色々と教えてくれたよ」
「そりゃよかったじゃねぇか」
僕らが話している横で、古川さんは荷物を振り子のように振りながら暇そうに欠伸した。
「帰っていいかなー? もう眠いや」
「うん、いいよ。今日はありがとね」
「なんのなんのー。また明日ー」
「うん。また明日ねー」
古川さんから荷物を受け取り、彼女は僕らに背を向けて歩き出す。荷物を持とうと持つ位置を変えようとすると、横から雄矢にかっさらわれた。僕はわかりやすく不満そうな顔を作ってみるけど、まるで意に介さない。
「遊び足りねぇな。どこか行くか?」
「久しぶりに公園でも行く?」
「いいねぇ。行こうぜ」
僕らは、大荷物を持ったまま近くの大きな公園で遊ぶことになった。広大な芝生の上で、買ってきたオモチャを使って遊ぶ。紙飛行機を輪ゴムで飛ばして距離を競ったり、サッカーボールの取り合いをした。子供みたいな遊びだったけど、それでも僕らは楽しかった。
やがて日が暮れてきて、最後に僕らはブーメランで遊ぶことにした。今まで一度も遊んだことがなかったし、どんな風に帰ってくるのか楽しみだ。
「じゃあ、俺から先に投げるから。しっかり見てろよ」
そう言って、雄矢は空にブーメランを投げた。ブーメランは曲がり、しかしこちらまで曲がりきることなく地面に落ちる。
「あっれぇ?」
二人して首を傾げて、ブーメランを拾いに行く。ブーメランに目立って壊れたようなところはなかった。
「つまり、投げ方が悪かったってことじゃない?」
「そうなのか? 動画で見たとおりに投げたけど」
もう一度首を傾げて、今度は僕が投げることになった。水切りの石ようにブーメランを構えて、勢いよく投げる。ブーメランは低空飛行して、曲がる前に地面に墜落した。
「勢いが弱すぎるんじゃねぇの?」
「あれー?」
勢いよく投げたつもりなのに、なんでだろう。雄矢が呆れたように肩をすくめて、僕からブーメランを奪い取った。
「じゃあ、いっそのことブーメランをどっちが早く取れるか、競争しようぜ」
「また競争するの?」
「いいじゃねぇか。昔っから競争はよくしてただろ? それともあれか逃げんのか? 心まで女になっちまったのかよ晶ちゃーん」
挑発するような口調にイラッとする。そこまで言うならやってやろうじゃないか。僕が走る姿勢になったのを挑戦と受け取ったのか、雄矢も身体をひねって投げる体勢に入った。
「俺が走る体勢じゃないのはハンデだ。おらぁ、行くぞぉ!」
「女扱いは気に入らない……よ!」
投げられると同時に走りだす。遅れて雄矢も追いかけてきた。ブーメランは空に舞い上がり、ゆっくりと曲がっていく。
このまま戻ってきそうだなぁ。
そう思いながら、視線を前に戻す。
雄矢の顔が目の前にあった。
「え、ちょ!?」
僕の声で、雄矢も初めて気づいたらしい。見上げていた顔をこちらに向けて、驚きに目を見開いている。もう避けることは間に合わない。
思いきりぶつかって、絡まり合いながら地面に転がる。最終的に、僕が雄矢に押し倒されるような状態になった。
「ちょっと雄矢。早くどいてよ」
「……可愛い」
一瞬、耳を疑った。可愛い? 誰に向かって言ってんのこいつ。
僕は、おおいかぶさる雄矢と目を合わせる。その目はどこか上の空で、だけど生来の目付きの悪さが妙にかっこよかった。
いや、今はそんなことどうでもいい。
「雄矢!」
「はい!?」
周囲を見る。もうすぐ日没と言っても、広大な公園だけあってまだ色んな人が思い思いのことをしていた。そんな中でこんなことをしていれば、当然のように注目を集める。
「どいてくれない? 周りの目が辛い」
「お、おう」
心なし名残惜しそうに雄矢が立ち上がり、身動きが取れるようになった僕も立ち上がった。芝生を突っ切るようにして敷かれた遊歩道で、夫婦が僕らを見ながら微笑ましそうになにかを言っている。付き合ってるだとか恋人だとか、そんな言葉が聞こえてきた。
付き合ってる? 恋人? 僕らが?
僕と雄矢が恋人という風景を考えてみる。今日の買い物みたいに二人でデートして、家に帰って料理を作って二人で食べる?
あ、違う。これ夫婦だ。
「いやいやいや。ないないない」
首を振って変な考えを振り払う。そもそも、なんで恋人やら夫婦の想像なんてする必要があるんだ。すぐに男に戻るのに。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
僕の視界に入ってきた雄矢と自然に目が合った。振り払いきれなかった想像が頭の中を乱舞して、つい気恥ずかしくなって目をそらす。
「どうしたんだよ」
「いや、別に。ちょっとそこで僕たちを恋人だとか言ってた人がいて」
「え?」
「あっ」
口が滑った。
「俺とお前が……恋人?」
雄矢がついもらしたかのような言葉が、場の空気を完全に硬直させた。どういう返答をすればいいかわからず、黙りこくる。でもそうしていると、僕が雄矢の恋人なんていうバカげた妄想が頭の中で踊り始めた。
だから、なんでこんなことを考える必要があるんだ。僕は男。それ以外の何者でもない。
長い沈黙を先に破ったのは雄矢だった。
「今日は雨降るって言ってたなぁ。そ、そろそろ帰るか?」
「う、うん。そうだね」
顔が合わせられない。まだ、頭の中には変な妄想がこびりついて離れなかった。 気をそらすために空を見上げる。一面をおおう黒雲が、まるで凶兆のようだった。
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