ロバート・ラッセル


 魔王の高笑いが響くのを、動かない体で聞いていた。巻き上がる砂埃が口にざらついて、目は霞んで何も見えなかった。立ち上がれと、心の隅の方で声がする。ここで立ち上がらなければ、世界が終わってしまうのだと、自分の中の誰かが叫ぶ。その声に従って、どうにか体を動かそうとしてみるのだけれど、頭を上げることすら億劫で、まるで蓑虫のように地面の上で緩慢に身を捩るのが精一杯だった。


 伸ばした指先に、硬くて冷たい物が触る。朧げな視界を凝らして初めて、それが自らの愛剣だということがぼんやりと分かった。赤地に金の装飾が美しい、王国一の聖剣。ずっと共に旅をしてきた、唯一無二の相棒だ。


 渾身の力を振り絞って腕を伸ばす。千切れ飛ぶのではないかという痛みが腕に走ったが、それでもロバート・ラッセルは剣に手を伸ばした。


 剣を手に取って、だからどうということでもなかった。それは、亡霊の執念と変わりない。それは己の手の中にある物だと、最後まで共にいなければならない物だと、そんな衝動がロバートの体を動かした。


 なんとか伸ばした手は柄に触れる。力の入らない腕で、それを手繰り寄せようと、ロバートは必死で目を凝らした。


 視界に入ってきたのは、見慣れた黒曜の髪色だった。


 愛剣の先、瓦礫の下、彼は埃と砂と血に塗れて、地に伏している。


「ウィリアム……?」


 返事はない。几帳面な彼らしく、いつもきっちりと着込まれた軍服が、見るも無残に汚れていた。


 彼の隣に、もう一つ人影が見える。子供ほどの背丈しかない体格で、無骨な鎧を身につけた、毛むくじゃらの男。まるでウィリアムに庇われるように、彼の腕の下にいた男は、ピクリと指を動かした。


「ゲオルク……。」


「その声は、ロバートか。」


 痛みに顔を顰めながら、唸るような声でドワーフのゲオルクが答える。


 奇跡だ。生きていた。


 ロバートは叫びたい気持ちが抑えられなくて、無意識に息を大きく吸い込もうとしたが、喉と肺が言うことを聞いてくれなくて、盛大に咳き込んでしまった。なんとか息が整うのを待って、ロバートは声を絞り出す。


「ウィルは……ウィルはどうだ。」


 ロバートの言葉を聞いて、ゲオルクが小さく身動ぎした。祈りながら、ロバートは答えを待つ。一縷の望みを抱きながら歯を食いしばっていたロバートに返ってきたのは、ゲオルクの小さな嘆きだった。


「ワシなど庇わんでも良かったものを……。ドワーフは頑丈なんだと、言っただろうが。」


 ゲオルクの微かな嗚咽が、ロバートの耳に届いた。


 これが旅の結末なのかと、虚無感がロバートの胸を苛む、長い旅路を終えて、激戦の果てにたどり着くのは、自分たちの勝利だと思っていた。この時になって初めて、その未来想像図には何の根拠もなかったのだと思い知らされる。ウィルが死んだ。ゲオルクは瓦礫に挟まれて動けず、ロバートもまた身動きができない。


「そうだ、クリスティーナは。彼女はどこだ……?」


 そんな中で思い浮かんだのは、エルフの女性のことだった。先ほどまで隣で戦っていたはずなのに、彼女の姿が見えない。彼女は、優秀な魔道士だ。だからもしかしたら、先ほどの魔王の攻撃にも耐えられたかもしれない。ロバートには、最後に魔王が放った魔術が何か分からなかったが、彼女であればそれを理解し、対処していた可能性はある。


「クリスティーナ……!」


 思うように声が出ない。それでもロバートは、声を振り絞って彼女の名前を呼ぶ。


「クリスティーナ、どこにいるんだ……!」


 ロバートの叫びに答えたのは、彼女ではなかった。


「煩い。まだ生きていたか。」


 冷酷で、感情を含まないその声は、姿を確認するまでもなく怨敵のものである。転がるロバートの側に、魔王が立つ。じっとりとした視線で見下ろして、鼻で笑った。


「だがまあ、じきに死ぬ。殺虫剤は撒いておいた。とは言え、自分の家の中で羽虫がのたうち回るのを眺める趣味はない。さて、どうしようか。」


 口元を邪悪に歪めて、まるで思案するかのような態度を取る。思わせぶりにしていながら、その余韻を楽しんでいるのが分かって、ロバートは拳を握り締めた。


「将軍!ここへ!」


 魔王が叫ぶ、一人の魔族が彼の元へと参じて膝をついた。


「火を放て。炙って殺せ。」


「かしこまりました。」


 それだけ告げて、魔王は悠然と歩き出す。彼の行き先が王都であることは分かっているのに、ロバートにはもう、成す術はなかった。剣は握れず、満足に立ち上がることもできない。仲間は地に伏して、人々の期待を一身に背負った勇者パーティなど、見る影もなかった。


 魔族が周囲に火を放つ。


 それは次第に燃え広がって、パチパチと爆ぜながらロバートたちに迫る。激しく煙が吹き出して、みるみるうちにロバートを包む。喉が焼け、息ができないが、ロバートの体はもう既に熱さを感じることもできなくなっていた。


 終わるのか。


 ここで、俺たちの旅は終わったのか。


 それはあまりにも残酷な結末でありながら、しかしそれでもどこかで、ロバートは安堵している自分に気がついていた。こんな形だったけれど、終わったのだという事実は、それはそれで安らかなものに思えた。


 真っ暗になった視界の隅に、柔らかな光が灯る。暖かな体温が指先に触れた。


 もうすっかり瞳を閉じて、来るべき死を受け入れようとしていたロバートは、瞼の裏から伝わる優しい光に気がついて、もう一度だけ瞳を開けた。


「ロバート、ごめんね。」


「クリスティーナ……?」


 美しく微笑むクリスティーナが、一人で立っていた。それはまるで夢のような光景で、ロバートは何度も瞬きを繰り返す。


「無事だったのか。」


「私、貴方に酷いことをするわ。」


 ドレスの端を押さえて、彼女はそっと膝をつく。白魚のような指先で、ロバートの大きな手に何かを握り込ませた。


「な……に……?」


「これが最後。一度きりしか使えない、私が持てる最高魔術。」


 彼女は側に転がっていたロバートの愛剣を拾い、しっかりと彼の胸の上へ置く。そうして何事かを懸命に呟いて、天を仰ぎ見た。光が満ちる。まるで暗闇の中で行く手を照らす、ただ一つの月のように。


「ごめんなさい、ロビン。」


「クリス……!」


 最後の最後、消えゆく視界の中で、彼女の唇が「生きて。」と言った。






 あの日。始まりの日。王が勇者としてロバートを王宮に招いた日。勇者という大任を与えられて、緊張からガタガタと震えるロバートの横に立ったのは、王宮騎士のウィリアムだった。彼は生真面目そうな顔を不愉快そうに歪めると、チラリとロバートを一瞥して、憤慨した。


「勇者の資格だと……?よく見ろ、震えている。彼はただの素人だ。昨日まで農民だった男に今日から突然世界を託すと、王はそう仰せか。魔王の元へ彼一人を放り出すと?」


 誰からの答えも、ざわめきすらも返らないその場で、ウィリアムは声を張った。


「私が共に行く。」


 驚いて顔をあげたロバートに、ウィリアムは興味を示さない。両手を広げて、周囲を見渡し、周りを煽る。


「他にはいないのか?魔王が怖いか?各々方は、このド素人より臆病と見える。」


「私も行くわよ。」


 誰もが目を逸らして気まずげに顔を背ける群集の中から、勇足で飛び出してきたのは鎧姿をしたエルフの女性だった。彼女は王の前へと躍り出ると、ウィリアムを睨みつけながら膝をつく。


「西方の森に住むエルフ。クリスティーナと申します。魔王相手に剣士二人なんて、とてもじゃなけどパーティとは呼べないわ。」


 威勢よく噛みついてくるクリスティーナを見て、ウィリアムがため息をつく。ロバートには、彼が小さな声で「いるじゃないか。」と呟くのが聞こえた。


「ならワシも行こう。人、エルフが立つというのに、知らんフリもしてられぬわ!」


 次いで現れたのは、ドワーフの男だった。彼はヨタヨタと歩み出ると、絨毯に躓いてたたらを踏む。人が歩くよりも長い時間をかけて、彼はようやくロバートの隣に並んだ。


「ゲオルクと申します。南の鉱山に住んでる鍛冶職人だ。」


 ゲオルクの挨拶に、ウィリアムが不機嫌そうに「待て。」と声をかける。何事かと彼を見たドワーフに向かって、ウィリアムは憮然とした顔でいった。


「このエルフの娘はともかくとして、お前も素人ではないか。なんだ、鍛冶職人って。」


「職業軍人じゃないだけじゃわ。お前よりは役に立つ。」


「なんだと……?」


「戦うだけが旅路じゃなかろうて。鍛錬、野営、路銀稼ぎに武具作成、その他諸々を踏まえても、どう考えてもワシの方が有用だわい。」


「ヨチヨチ歩きのズングリムックリが偉そうに。ここまで満足に歩けぬ間抜けに言われる筋合いはない。」


「言いよったな!」


 そのまま取っ組み合いの喧嘩が始まって、王の御前で騎士とドワーフが殴り合いをするという、前代未聞の大惨事となった。どう仲裁していいものか分からずに、オロオロと彼らの周りを行ったりきたりするロバートを見て、クリスティーナが声を上げて笑う。


「笑ってないで、なんとかしてくれないかな!」


「嫌よ、面白いもの。楽しい旅になりそう。」


 彼女は太陽のように笑うと、まだ騒然とする部屋の中で一人、ロバートに手を差し出して言った。


「これからよろしくね、ロバート!」






 懐かしい夢を見た。


 目を覚ましたロバートは、流れる涙を手で拭った。


 地面に倒れている自分の側を、怒号を上げた誰かが走り抜けていく。悲鳴と断末魔が周囲に満ちていた。そこかしこから煙の匂いがする。どこかで火の手が上がっているのだろう、周囲は酷く暑かった。時折、土砂が崩れるような音がする。慌ただしく荷馬車が側を駆け抜けて行ったかと思えば、今度は幾人もの老若男女が逃げ惑う。誰も、倒れているロバートの事など気にもかけず、我先にと走り回っているようだった。


 ここがどこなのか、周囲の人々が何をしているのか、それが気にならなかったわけではないが、それを確かめるだけの気力など、今のロバートにはもう無い。確かめなければならない事など、一つしかなかった。


 握り込んだ手をそっと開く。最後の時、クリスティーナが自分に託した物が何なのか知りたくて、そしてもしかしたら、彼女が何か状況を打開するための切り札を手渡してくれたのではないかと期待して、ロバートは眼前で拳を開いた。


 現れたのは、ペンダントだった。乳白色に磨き上げられて不思議な光彩を放つトップが上品にあしらわれた、華奢なペンダント。


 記憶の中の彼女が笑う。


「綺麗でしょ、お父様から頂いたの。お父様は、お母様から貰ったんだって言ってたなぁ。我が家は代々、自分から配偶者へ、配偶者から子供へ、子供はまた自分の配偶者へ、魔除のお守りとしてユニコーンの角のネックレスを贈るんだって。」


 ロバートは慟哭した。喉が切れそうなほどに声を上げて、皮膚が千切れるほど全身に爪を立てながら、ずっとずっと叫び続けた。


 気が狂ったよに泣き叫ぶロバートに注意を払う人間なんか、この場には誰もいない。ロバートの嘆きは、自分の生にしがみ付こうと必死になっている人々の耳を素通りして、虚空へと消えていった。雑踏の中でただロバートだけが、世界の終わりに絶望していた。



 

 涙が枯れ果てたロバートに残ったのは、どうしようもない虚無感だけだった。のそりと力なく身を起こして、周囲を見渡す。ここがどこなのかは分からない。分かっているのは、ここは魔王城ではなく、自分たちは魔王に負けたのだということだけだった。


 自分だけ他所の土地へと放り出されたのは、おそらくクリスティーナの魔術だろう。彼女は最後の最後に、火の手が回る魔王城からロバートだけを逃した。


 なぜ、と思う。


 なぜ彼女はあの時、自分だけ助けたのだろうか。


 ロバートは迫り上がってくる嗚咽を噛み殺しながら、立ち上がった。手の中にあるペンダントを優しく指で撫でて、そして自分の首へつける。胸元で揺れる乳白色を見下ろせば、あまりの似合わなさに笑いがこみ上げてきそうだった。


 何を思って、彼女が自分を助けたのか分からない。どうして彼女は最後に、生きろだなんて言ったのか、考えるのも億劫で、ロバートは惰性で足を動かす。相変わらず周囲には恐怖が満ちていたし、おそらくそれが魔王軍の侵攻によるものだと頭の隅では分かっていたが、もうそんなことはどうでもよかった。


 民家が破壊されていく。炎が燃え盛り、誰かの悲鳴があちこちから響く。子供が泣く声、祈りの賛美歌、助けを求める小さな声。怒号と、悲嘆。そのどれもが耳障りに感じて、ロバートはひたすら耳を塞ぎ、目を伏せながら宛もなく彷徨い歩く。


 誰もが助けを求めていた。魔王軍の攻撃から、自分たちを助けてくれる何者かを必死に求めていた。


 何者か、なんて白々しい。俺だ。彼らは、勇者を求めている。


 分かっていた。自分が誰で、どういう力を持っていて、何をすべきかは明確に分かっている。そしてきっと、それが正しい。彼女はそのために自分を生かした。勇者さえ生きていれば、自分が王都へ取って返せばまだ勝機があると、彼女はそう思ったのだろう。ロバートに、全てを賭けてくれた。だから、魔王戦でロバートが負った傷は治癒していて、敗戦の決定打となった呪詛が体から消えている。それは彼女の、もう一度戦えというメッセージに違いなかった。


 だけど、もう無理だ。


 ロバートは嘆く。


 もう一度剣を握る気力なんて、もうどこからも湧いてこない。世界を守る理由が、自分の中のどこを探しても見当たらない。頭の中を巡るのは、下敷きになったウィリアムと、嗚咽を漏らすゲオルクと、儚く笑ったクリスティーナの最期の姿ばっかりだ。


 行くあてもなく歩いて、ロバートは村を出た。喧騒は遠く、村の惨劇が嘘のように穏やかで、ロバートは憂鬱な気持ちで視線をあげた。


 そこには山が聳え立っていた。緑の道の上に、足の踏み場もないほど木葉が舞い散り積み重なって、誰の手も入っていないように見える。そして、何の気なしに、ロバートはその山を登り始めた。


 死のうと思った。


 死場所を求めて山を登った。


 山頂から、自分が守れなかった世界を見下ろして、ゆっくりと苦しみながら死ぬのも悪くないと思った。みんなの求めた勇者は魔王に殺された。勇者として立ち上がることを拒み、期待に応えることをやめた男は、死んだことすら誰にも知られず、名前のないままで死んでいくのが、この旅の結末としては正しい物に思えた。


 一晩かけてゆっくりと山を登って、そろそろ山頂につくのではないかと思い始めた時、ロバートの耳は誰かの足音を拾った。初めは、信じられなかった。


 山の上から手を振って、何かを叫びながら下りてくる男は、まるで地上の地獄など他の世界のことのように、軽快な足取りで木葉を踏み鳴らす。


 そしてロバート・ラッセルはマルク・ルロアと出会った。






 背後にマルクを庇って魔族に対峙するロバートは、愛剣を掲げて敵を見据える。戸惑うマルクをどうにかして、この魔獣の群れから連れださなければならない。それ自体はさして難しいことではなかったが、問題はそれを率いている魔族である。魔王軍において将軍の地位を持っているこの魔族がこの村にいるということは、今は姿を見せていないが、この魔族を先頭にして一つの部隊がこの村に駐留しているということを表している。それらを全て相手取って、マルクと共にこの戦況を潜り抜けるのは、少し難しい。


「ロバートお前、体は……?」


 気遣わしげにマルクが問いかける。ロバートは「うん。」と頷いて、首元からネックレスを取り出した。


「お守りが効いたみたい。」


 真意の汲みにくい返答にマルクが眉を潜めたのと、魔族が笑い声を上げるのは同時だった。


「ユニコーンの角か!どうりで、どうりで死んでないはずだ。」


「身につけている間、呪詛の効果を打ち消すらしい。これに気がついたのは、俺も昨日の晩だったけれど。」


 クリスティーナのネックレスがずっと自分を守っていたのだと、ロバートが気付いたのは昨日の晩、マルクが家を飛び出してしばらく経った頃だった。握らされたネックレスが淡く光って、ロバートの中に巣食っていた倦怠感をまるで吸収するように明滅を繰り返して、まるで嘘のように体が軽くなったことで、ロバートはようやく自分の不調の理由を理解した。すっかりと治癒したと思っていた自分の体にはまだ呪詛が蔓延っていて、ネックレスがそれを押さえ込んでくれていただけなのだと。


「俺は君に、酷いことをするよ。」


「ロバート……?」


 戸惑うマルクを尻目に、ロバートは剣を振るう。どこからか飛んできた弓を彼の剣が弾き飛ばした。


 包囲されつつある。もうあまり、時間がない。


「山を登って、ずっと東に行きなさい。東の果てには海がある。海を渡れば、その先にはまだ陸が続いているはずなんだ。そこを目指して、決して振り向かないで。大丈夫、君の足なら魔族であっても追いつけない。」


 倒壊した民家の影から、幾匹ものゴブリンが姿を現す。空にグリフォンの羽ばたく音が響いた。地鳴りのような足音が地面を震わして、視界の隅に松明の火がちらつく。


「マルク、ここは俺が抑える。さあ、行って!」


 突き飛ばすように背中を押す。つんのめるようになりながらも、マルクはロバートの言う通り、山を目指して必死に走り始めた。


 彼は振り返らない。それでいいと、ロバートは再び剣を正眼に構え直す。マルクの後を追おうとしたケルベロスの腹を、ロバートの剣が裂いた。酷くおぞましい断末魔を上げて、ケルベロスが息絶える。周囲の魔物たちが色めきだつのを、ロバートは肌で感じていた。


「何故今更、我らの前に立ちはだかる?もう決着はついただろう。」


 魔族の問いに、ロバートは答えない。ただ両足を踏み締めて、前を見据えて剣を強く握る。


 彼と過ごした日々を、どれだけ人に語っても理解される訳が無い。全てが終わってしまった世界で、終わったことを知らない彼の周りだけは、ただ毎日いつもと同じ日常が続いていた。


 だから、彼の家の周囲に自分ができる限りの結界を張った。毎朝マルクよりも早く起きて、綻びがないかを入念に調べた。万が一、麓の村にいる魔王軍が山を登ってこないように。


 ずっとこのまま、穏やかで幸せな生活が送れればいいと、誰もがみんな幸せに暮らしているのだと、そして自分もそう生きていいのだと、夢を見ているような日々だった。あの山で暮らす限りは、人の安寧は永久だったのだ。そしてその心地良さと、逃れようのない罪悪感。


 だが、それももう失われた。あの穏やかで取り留めもない日常は、2度と帰らない。それならば、とロバートは思うのだ。


 今ここで再び、勇者として立ち上がろう。彼は、マルク・ルロワは、今この世に残った最後の人間。勇者が守るべき王国の民なのだから。


 今なら分かる。クリスティーナが最後に生きてと言った意味が。きっと彼女は、俺にもう一度剣を取って欲しいと願ったわけじゃない。立ち上がって、立ち向かって、人の最後の防壁となれなんて、彼女は願ったわけじゃなかった。


 ただ、生きてと、そう祈ってくれた。


 だって、俺はそう思った。だんだんと小さくなるマルクの背中に、ただ生きて欲しいと、そう願ったのだ。


 彼が描いた森の絵が好きだった。清廉で高潔で生きる力に満ち溢れていたあの情景は、まるで彼女のようだ。マルクのおかげで、俺は再び勇者として立ち上がれる。君に会えて、助けられたのは俺の方だった。ありがとう、マルク。


 掲げた剣が光を増す。辺りの風がフワリと戦いだかと思うと、急に強く吹き付けた。土埃を舞い上げて風は踊り狂い、周囲の瓦礫も巻き込んで、互いにぶつかり合う度に火花が散る。それはまるで蛍のように軽やかで、花火のように鮮やかだった。


 かつてファング王国の空をこの世全ての災厄が覆った時、その災を一振りにして払い退けた伝説の聖剣。その渾身の一太刀に己の全てをかけて、ロバートは声を張り上げる。


「戦い続けることに理由などない。我が名はロバート・ラッセル。貴様ら悪魔を打ち滅ぼすために舞い戻った、勇者だ!」


 風が渦巻き、火花が散って、ロバートの持つ聖剣が輝きを増す。それはチカチカと明滅を繰り返し、まるで生き物のように荒れ狂うと、突然吹き荒んでいた風が嘘のようにピタリと止んだ。


 それを合図に、魔物たちは一斉に動き出す。空からはグリフォンとドラゴンの群れが迫り、無数のゴブリンが肉薄し、ケルベロスが牙を向いた。魔族の男が剣を抜くのを視界に捉えて、ロバートは聖剣を振り下ろした。

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英雄のジオラマ げんまえび @genmaebi

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