6日目
東の山稜から朝日が顔を出し、闇が次第に綻びて、空が白み始めた。まだ冷たさが残る空気を浅く肺に吸い込みながら、俺は物音一つしない街道を、目前に迫る村の入り口に向かって一心不乱に駆ける。
魔王軍との長い戦いの中で、大抵の村には石壁が築かれており、この村もまた例に漏れずそのようにして防備を固めている。そして関所というほどでもないが、村の手前には立派な櫓が建てられており、夜間外敵に侵入されるのを防ぐために門が設置されていて、そこからしか出入りができない。どれだけ夜が更けていても、いくら朝が早くても、そこには誰かがいるはずだった。
縋り付くように門を叩いて、俺は声を張り上げる。
「山奥のルロワだ!開けてくれ!」
返事を待たずに、今度はドアノッカーを何度も叩いた。
「門番!ルロワだ!病人がいる。先生に往診を頼みたい!」
何度叩いても、どれだけ激しく叩いても、応える者はない。門番は一体何をしているのか、苛立ちが募る。寝入ってしまっているのか、持ち場を離れているのか、どうしたのかは分からないが、しかしそれは、こちらの知ったことではない。とにかく早く中に入りたくて、無理矢理にでも扉をこじ開けようと、俺は両腕に力を入れた。
門は、不気味なほど簡単に開いた。
地面の土を掘りながら、力を入れた分だけ門が動く。
施錠するのを忘れているのか?
門番が回り番を忘れて、どこかで眠りこけている?
様々な疑問が頭の中をぐるぐると回って、何一つ答えは出ないが、それでも目の前で門は開いて、俺は村へと入ることができる。
大切なのはそれだけだ、と思い直して、村の中へ一歩踏み出す。
それは、異様な光景だった。
家が倒壊している。
道には木材が散乱して、足の踏み場もない。
服や寝具やカーテンや、そういうものだった布が、聳り立つ家の残骸に引っかかってはためいていた。
そんな風景が、見える限りずっと続いている。
「何だ……何があった……?」
最後にこの村に来たのはいつだっただろうか。そんな考えが頭の隅を過った。よく覚えていない。もしかしたら、半年以上前だったかもしれない。普段はパウロが山奥まで持ってきてくれるから、訪れる用事がなければ本気で来ないのだ。
パウロは、どうしただろうか。
彼はいつも、俺の家にやってくる前の日にはこの村に泊まって、登山の準備を整える。彼は無事なのだろうか。そもそも、村がこの状態になったのはいつのことなんだ……?
「誰かいないか!」
必死で声を荒げる。瓦礫を避けながら、俺はとにかく前へ進んだ。風に乗った土埃が舞い上がって顔に吹き付ける。袖で口元を覆いながら、見覚えのある道をどうにか医者先生の家まで歩こうとするが、あまりにも変わり果てた町並みに、正直自分が今どこにいるのかも分からない。途方に暮れて、俺は小休止のつもりで近くの壁に手をついた。
崩れたレンガ塀に手をついたつもりだった。ざらりとした手触りを予想していたのに、何故かぬるりと手が滑って、俺はたたらを踏む。
何だ?
慌てて顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、鮮やかな鮮血だった。一瞬、思考が停止する。血だ。レンガ塀に血が滴っている。破壊された無人の村に、ただ、血の色だけが鮮やかに飛び散っている。
「なん……で……。」
「あァ?さっきから騒いでんのはテメェか、人間。ったく、潰しても潰しても湧いてきやがる。一体どこに隠れてンだか。」
その声は、突然背後から聞こえてきた。地を這うようなおぞましさが形をとって現れたような威圧感と、その中に滲む怒りと、微かな呆れ。
身動きが取れなかった。本能が頭の中で喧しく警告音を鳴らす。今すぐ逃げなければ殺されるが、少しでも身動きすれば命がない。蛇に睨まれた蛙のように、俺はどうしようもなく立ちすくんでいた。
「オイ、聞いてンのか?」
強い力で肩を引かれる。逆らわずに体の向きを変えると、正面からそれが俺の顔を覗き込んだ。浅黒い肌、赤い瞳、そして頭から伸びる鋭い角。間違いない、魔族だ。魔王軍の主力兵。その中でも最も人間を屠ってきた種族が、今目の前にいる。
「旅装束だと……?お前、どっから来た?」
恐怖から声が出ない。歯の根が合わずにガチガチと鳴り、気を抜くと今にもへたり込みそうだった。
「だんまりかァ。俺、のたうち回る人間見んの嫌いなんだけどな。」
腰に手をやって、魔族はスラリと帯刀していた剣を抜いた。
「まず、腕だ。」
脳が急速に意味を理解する。俺は今、拷問にかけられようとしてるのだと。もしかしたら、拷問なんて言葉を使うほどキッチリとしたものではないのかもしれない。こいつはただ、俺から情報を聞き出そうとしているだけだ。ただ、手段が常軌を逸しているだけで。
肺の奥から息を振り絞って、俺は必死で声帯を震わせる。そうしなければ、今にもあの剣は俺の片腕を切り落とすだろう。
「や……山……。」
「山だァ?そういや、探索に出したゴブリンが一匹、まだ帰ってきてないか。チッ、人間が通った形跡はなかったから、無人だと思ってた。シクったな。お前だけか?」
何度も必死に頷く。魔族はそれを信じたようだった。
「何で……、魔族がこの村にいる?」
また恐怖で喉が枯れてしまう前に、俺は懸命に言葉を紡ぐ。村の凄惨な様子と、魔族がこの場にいることから考えれば、おそらくこの魔族が村人たちを襲ったのだろう。それは間違いない。だが、理由が分からなかった。
高位の魔族がいるのは魔王の根城の周辺であり、その根城はここより遠く離れた西の彼方にある。どう考えても、突然この村に魔族が降って湧くわけがないのだ。
「何でってお前、何を言ってる。そんなモン、こっちが勝ったからに決まって……。」
そこまで言って、何かに思い当たった魔族は、その顔に醜悪な笑みを浮かべた。唇の端を持ち上げて、こちらを見て楽しそうに言う。
「そうかそうか。お前、山にいたって言ってたな。どンくらいだ?」
「半年……。」
「はっはー!そりゃ何も知らないわけだ。可哀想に。」
やけに陽気に魔族は天を仰ぐ。まるで全知全能の神を気取るように、無知な俺を見下して喜んでいる。
「この戦争、魔王軍の勝利だ、人間。魔王様が勝ち、お前らの王は殺され、人の世界は俺らのモンになった。」
「人間が負けた……?」
頭の中が真っ白になる。意味が分からなかった。それは、対魔戦線のことを言っているのだろうか。でも、だったら、そんなのはおかしい。だって、あの日、あの城で宰相が言ったのだ。勇者が、数年内に魔王を討伐するだろうと。
「勇者が……。」
「勇者な、死んだよ。10日ほど前だ。」
頭を鈍器で殴られたようだった。これではまるで、出来の悪い悪夢だ。勇者は死んで、魔王が勝利し、魔王軍が世界を蹂躙しているなんて、今時寝物語にもなりはしない。しかし、話が飲み込めない俺を置いて、魔族はご機嫌で喋り続ける。
「勇者パーティは全滅した。一つ一つ死体の確認をしたわけじゃないが、呪詛受けて爆発で大火事だからな、まァありゃ死んでるだろ。報復もねぇし。そういうわけで、俺たちの勝利だ。残念だったな、人間。」
魔族の赤い瞳が満足そうに弧を描いた。絶望している俺を見下ろして、押しつぶされそうになる様を楽しんでいるのが分かる。
だが、俺にはそれに争うだけの力はなかった。魔族が思っている通り、現実に絶望しているのだ。これで全て、合点がいった。
だからパウロは来なかった。今から9日前のあの日、人間の世界は既に滅んでいたのだ。
だからロバートは俺を山から出したくなかった。山を下りれば、そこは既に生きられる場所ではなかったから。初めて会った時の、ロバートの様子を思い出す。ボロボロに煤けた服を着て、俺の姿を認めたときは信じられないというように、唖然としていた。あの時彼は「人がいるなんて。」と戸惑っていた。今ならその意味が分かる。彼はこの地獄を抜けて山へ逃げ、いるはずのない俺を見つけた。
「さて、状況は把握したか?今俺は、この村のいるものといらないものを分別してる最中なんだが、お前はどっちかねぇ。」
底の見えない薄暗い赤色が、俺の顔をじっと見つめた。
「見るからに体力なさそうだし、奴隷には使えないか。処分だな。」
不穏な単語を吐き出して、魔族は剣を振り上げた。何が起こっているのか脳が理解する前に、今まで恐怖から固まっていた足が、咄嗟に動いた。魔族が立ち塞がる方向から反転して、必死に走る。走ってどうなるのかは分からなかったが、とにかく逃げなければと、それだけが頭にあった。
「あァ!?」
不機嫌な怒鳴り声が背後から聞こえてきて、次いで高い指笛の音が俺の後を追いかけてくる。何をしているのか確かめる余裕はない。とにかく振り返らずに、できるだけ遠くに離れたかった。
瓦礫の間を縫いながら、脇目も振らず、ただひたすらに前を見据えて走る。時折、木材の破片や瓦礫の残骸が擦れて服が破れたが、そんなことを気にしている暇はなかった。
チラチラと並走する影が見える。それは複数で、まるで俺を追い込むように付かず離れず、絶妙な距離を保って走る方向を誘導してくる。分かってはいた。だが、振り切る方法がない。ただ走れる方向にがむしゃらに走って、そして、終わりがやってくる。
目の前に一匹の巨大な獣が立ち塞がった。
それは真っ黒な毛並みを逆立てて、牙を剥き出して威嚇してくる。四足に力を漲らせて、今にも飛びつかんばかりの臨戦体制を見せていた。それが正面に一匹と、遅れて物陰から4・5匹姿をみせる。すっかりと俺は囲まれていた。
「ケルベロスだ。」
いつの間に追いついていたのか、魔族が獣の間を縫って姿を現す。文献でしか見たことのない魔獣の名を出して、残虐な笑みを浮かべた。
「丁度いいから、餌ってことで。狩りごっこでもして遊んでやってくれ。」
それだけ告げて、俺から興味をなくした魔族は、さっさと踵を返して背を向けた。それを合図にケルベロスが飛びかかってくる。
その一瞬、俺は走馬灯のように今までのことを思い出していた。
毎月1度、背丈を超える荷物を背負って、意気揚々と山を登ってくる行商人のパウロ。畑に実った野菜をしげしげと眺めては、「また腕をあげたな。」と言って笑った。
村へ行くと、結構な頻度で会う門番は「よう道楽先生!」と片手を上げて挨拶をしてくる。
魔術道具を作ってくれる爺さんは、孫が二人いて、どちらも女の子だと言っていた。
王都で肖像画を描いてあげたご令嬢は好きな人がいるって幸せそうに話してくれたし、完成した直後に自分のもと頼んできた彼女の父親は、娘の身分違いの恋に頭を悩ませていることを教えてくれた。
そして、ロバート。今なお家のベッドで苦しんでいる彼に、申し訳なく思う。せめてお前は山を下りず、そこで無事に暮らしてほしい。そしてできれば、俺の絵と共に。
死を覚悟して目を閉じる。魔獣はもうそこまで迫っていたけれど、想像したよりも穏やかな気持ちだった。
『其れは慈雨、北の方、神坐す丘陵、星の教会と祈り。』
聞き覚えのある声が、既視感のある魔術詠唱が、あたりに響く。しかし、そんなはずはない。だって彼は、ここにいるはずがないのだから。
『降星』
キラキラと輝く光が、剣となって無数に空から降ってくる。まるで俺を守るかのように円を描いて地面に刺さり、幻想的な檻を成した。怯んだ魔獣が足を止める。その場から離れようとしていた魔族が、不機嫌そうに振り返った。
「マルク、無事か!」
煤けてしまった朱色の剣を携えた男は、襤褸の外套を風に翻して、臙脂色の髪を靡かせながらそう言った。
「ロバート!」
俺の叫びに、ロバートはしっかりと頷く。
どういうわけか顔色はすっかり良くなって、足取りもしっかりしている。彼は足に力を漲らせると、地面を踏んで、一気にこちらへ駆けてきた。一匹の魔獣がそれに飛びかかるが、疾風ともいうべき速さで魔獣の牙を避けると、突進してくる巨体を軽くいなして、剥き出しの動体へと剣を叩き込んだ。吹き飛ぶ魔獣には目もくれず、その隙にロバートは俺の前へと躍り出る。そうして油断なく、残った魔獣と魔族に向けて剣を構えた。
「ロバート、何で……。もう体は大丈夫なのか?」
「うん、もうすっかり。マルクのおかげだよ。剣も、出しておいてくれてありがとう。おかげでこうして、俺は立ち上がることができた。」
ロバートの視線が真っ直ぐに魔族を射抜く。それを受け止めた魔族は、目を爛々と輝かせて、大きく口を開けた。
「人間、お前、見覚えがあるぞ。」
「俺もお前には見覚えがあるよ、魔王軍の第二将軍。」
「何故お前がここにいる?お前はあの時、死んだはずだ。魔王様の呪詛を受け、仲間もろとも消炭になった!何故生きている!勇者ロバート・ラッセル!」
ロバートは、自信に満ちた笑みを浮かべた。
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