5日目

 朝になってもロバートの熱が引かない。


 苦しそうに呼吸を乱すロバートの面倒を見ながら、俺は頭を抱えていた。原因が分からないのだ。咳もくしゃみもない。熱はあるが、高くはない。しかし呼吸は荒く、いつも辛そうに目を閉じている。


「ロバート、どうだ?」


 声をかけてみるが、彼は顔を歪めて、喉から声にならない音を漏らすだけだ。あまり構っても迷惑だろうから、額に当てていた濡れ布を取り替えて、サイドテーブル替りの椅子に置いていた水を新しいものにしてから、俺は静かに部屋を出た。


 今日もパウロは来ない。


 食料の問題もそうだが、目下どうにかしなければならないのは、ロバートの容態だ。もしこのまま熱が下がらなければ、俺にはどうすることもできない。パウロが来てくれればワンチャン、何か薬を持っているかもしれないが、もう8日過ぎても来ないのだから、それを頼りにしてはいけない気がする。


 いろいろと考え込んでいると、寝室からカタリと物音がして、おぼつかない足取りでロバートが出てくる。咄嗟に駆け寄って体を支えると、彼は掠れた声で「ごめんね。」と言った。


 ひとまず彼を椅子に座らせて、冷たい水を持ってくる。それを手に取ったロバートは、少しずつ水を口に含んだ。


「大丈夫か?何か食べる?」


 俺の問いかけに、ロバートは小さく頷く。


「そうか、よし。オーツ麦を粥にしよう。すぐに作るから。」


「ごめんね、迷惑かけて。」


 息を整えながら、ロバートが苦しげにそう言うものだから、俺は努めて明るい声で返事する。


「人間なんだから、具合悪い時もあるって。」


「マルクが居てくれて助かった。もし一人だったらと思うと、ゾッとする……。」


 そこまで言って、急に黙り込む。ロバートは思案するように口元に手をやって、戸惑うように瞳を揺らしていた。それはまるで、言葉の道筋を辿るような仕草で、朗らかに笑っていたロバートにはあまり似合わない。所在なさげに虚空を彷徨っていた彼の瞳が、急にある一点で定まったのに気がついて、俺もつられてそちらに目をやる。


 そこには、俺が描いた絵が飾られていた。


 木立の緑が、朝日を浴びて柔らかく光る。それを、ロバートは見つめていた。


「俺、畑から香草取ってくるわ。一人で大丈夫?」


 何だか居た堪れなくなって、俺は席を立つ。庭のハーブを、ロバートの粥に入れよう。早く何かお腹に入れて、しっかりと寝ればきっと具合も良くなる。


「大丈夫。ちょっと落ち着いたよ。」


「ん。じゃあ、すぐ戻るから。しんどくなったらすぐベッドに戻れよ。」


 それだけ告げて、俺はそそくさと外に出た。


 いつもならとっくに朝食を食べ終えて、寝室に籠もって筆を取っている時間だ。昨日の間に絵が出来上がっていて良かったと、心から思った。


 農園の隅に置いている植木鉢でひっそりと育てているハーブを摘んでいると、秋風が山間を通り抜けて強く吹き付ける。家の周りを取り囲んでいる木々をガサガサと揺らして、数多の落ち葉を舞い上げながら、遠くの方へ去っていった。


 ガサリと、音がした。


 それは、茂みの葉を揺らす音だった。


 突然入り込んだ異質な音に、俺は慌てて振り返る。風ではない。鳥でもない。それよりももっと重量のある物が、足を踏み出す音だった。


 音がした方向から決して目を離さずに、俺はゆっくりと立ち上がる。自然と息が詰まる。願わくば、野生の草食動物でありますように。最悪でも熊がいい。刺激せずに家の中へ入れば、まだなんとか活路が開けるからだ。


 だが、その望みが潰えることを、俺は知っていた。


 だって、昨日の晩から家と畑を囲んで設置している野生動物除けの魔術道具を、ずっと起動したままにしているのだ。ロバートの具合が良くないのに気づいた時から、何かあっては困るからと思って、普段は夜にしか起動しないそれを、朝になっても切らずにいた。だからきっと、この足音の主は最悪の、それ以下だ。


 そして、それは現れた。


 痩せこけた貧相な体躯に、灰色の皮。尖った耳と、手に持った粗末な刃物。ギョロリと醜悪さが滲む目がこちらを見た。


 地底から這い出た地獄。ゴブリンだ。


 最悪の展開だった。4年間暮らしてきて、この山には一度も魔物が出たことはない。魔物どころか、魔獣と遭遇することもなかった。ゴブリンといえば、魔王派の歩兵として徴用されていることで有名で、俗に対魔戦線と呼ばれている魔王軍と衝突する最前線でもなければ、出くわすことはない。


 つまりアレは、魔物の中ではプロの軍人である。それに比べて、こちらは丸腰の素人だ。どう考えても勝ち目はなかった。


 奇声とも雄叫びとも分からない鳴き声を上げながら、ゴブリンがこちらへ向かって走ってくる。手には錆び付いた刃物を持ち、それを振りかぶりながら迫る。


「クソッ!」


 手に持っていたハーブを投げ捨てて、代わりにその辺の砂を手一杯に握った。恐怖で足がわななくが、歯を食いしばって時期を待つ。そうしてゴブリンの間合いに入る直前で、手に持っていた砂を思いっきり頭部目掛けて投げつけた。


 この世のものとは思えない邪悪な悲鳴を上げて、ゴブリンが一瞬足を止める。その隙をついて、俺は必死に家に向かって走った。


 兎に角一度立て篭もって、緊急SOS用の魔術を打ち上げなければならない。打ち上げたところで、救援隊が来るのは明日になるだろうが、それでも今殺されるよりはマシだ。


 足を縺れさせながら、必死で走る。毎日通っていた道のりが、今は気が遠くなるくらい長い。後ろからゴブリンの足音が追いかけてくるが、振り向いている暇はない。ただひたすら、家の玄関に向かって一直線に走った。


 しかし、現実というのは無情である。後一歩踏み出せばドアノブに手が届くというところで、俺の体は一気に後方へと引き戻された。首元を掴まれて、地面に引き倒される。背中を強く打ち付けられて、一瞬呼吸ができなくなった。


「……ァッ!」


 悲鳴をあげようとしても、喉が引きつるばかりで声になんてなりやしない。視界を埋めるゴブリンの姿。振りかぶられた刃物。それが振り下ろされようとしていることを理解して、俺はなけなしの力で瞳を閉じた。


「マルク!」


 不意に俺を押さえつけていた力が消えて、ゴブリンが悲鳴を上げながら地面を転がっていく音がした。恐る恐る目を開くと、俺を庇うようにゴブリンと対峙する背中が見える。


「ロバート……?」


 ロバートはチラリとだけ俺の無事を確認すると、すぐにゴブリンに向き直る。マルクに突き飛ばされたゴブリンは、既に起き上がって、戦闘の構えを見せていた。


 急死に一生を得たが、まだ安心してはいられない。なにより、先ほど少し見えただけだが、ロバートの顔色は依然として青白く、それはまだ体調が優れないのだということを明確に示している。きっと、満足に走ることもできない。どうにかして二人で逃げなければいけないのだが、方法が全く思いつかなかった。


「マルク、大丈夫だ。」


 ぐるぐると考える俺の思考の隙間に、ロバートが声を挟む。息が上がって苦しそうにしているが、その声は不思議な安心感に満ちていた。


「これくらいなら、今の俺でも対処できるよ。」


 彼はそっとポケットの中に手を入れると、一つの丸いガラス玉を取り出して、そっと握り込んだ。ロバートの周りに、一条の風が吹く。初めは、山間を吹き荒ぶいつもの秋風だと思った。しかしそれは次第に渦を巻き、触れれば切れる鋭さで荒ぶり始める。獰猛な生物のようでありながら、しかし清涼な空気を纏って、ロバートが歌う。


『東の方、風の生まれる場所、学府の塔に乞い願う。人はかくも愚かしき。一度ひとたび知恵を貸し給え。』


 それは、魔術詠唱だった。これまで日常魔術しか身の回りになかったから、実際に見るのは初めてだが、おそらくそうだ。


『天ツ風』


 ロバートが手を突き出す。疾風がゴブリン目掛けて走る。


 それは一瞬のことだった。まるで刃物に切り刻まれるように、ゴブリンの体にみるみる傷が増えてゆき、不愉快な叫び声を上げながらゴブリンが地に伏した。


 声が出ない。何が起きたのかよく分からなくて、俺はポカンと口を開いたまま、倒れて動かなくなったゴブリンから視線が離せなかった。隣で、ロバートが息を漏らすのがわかる。安堵からなのだろうか、彼は地面へと座り込んだ。


「ね、身辺警護と魔獣狩りは得意って言ったでしょ。」


「ロバートお前、魔道士だったの……?」


 詠唱によって魔術を行使できるのは、魔道士だけである。それも攻撃魔術を実戦で使ったとなると、戦闘訓練を積んだ魔道士だ。出会った時に帯刀していたから、てっきり剣士なのだと思っていたのだが。


 意外すぎる事実に唖然としていると、ロバートが困ったように微笑んだ。


「資質があったから魔術も習得したけど、本職ではないかなぁ。」


「本職じゃなくてアレなの?やばくね?」


「いや。一対一で、相手が近接武器しか持ってなかったんだから、割とこっちに優位な戦いだったよ。運が良かった。」


「謙遜、謙遜。かなり実戦慣れしてる感じだったろ。冒険者って言ってたの、嘘じゃなかったんだな。」


 普段の朗らかな性格からロバートのことを舐めてかかっていたが、もしかして、このレベルの冒険者が大失敗した上に、意気消沈して山籠りを決意する仕事って、思っていたよりもヤバいヤマだったんじゃないだろうか。


「お前マジで、ここに来るまでに何したの……?」


「いやぁ。うん、いろいろと……。」


 往生際悪く誤魔化そうとするロバートを追求するのもいいが、今はそれよりも優先すべきことがある。もうちょっと話を聞きたい欲望を抑えて、俺はぐるりと周囲を見渡した。倒れているゴブリン以外に、異常は見当たらない。本当にこの一匹だけが、どこからか迷い込んできたようだった。


「このゴブリン、どこから来たんだろうな。」


 普通、ゴブリンは地底から現れる。コレは地下に住んでいて、洞窟や、他のモンスターが掘った巣穴などを使って移動することが多い。しかしそれも、ゴブリンのコロニーと繋がっているからであって、人里近くのこの山でゴブリンの抜け道が発見されたことはない。何故ならゴブリンのコロニーは通常、魔王の根城近くにあるからだ。ここからは遠すぎる。


「野生ゴブリンなんて、今や超希少種だよな。数十年前はいたらしいけど、今はほとんど魔王軍に徴用されてるって話だし。」


「それについては、俺の責任だ。」


 俺はギョッとしてロバートを見る。先ほどまで柔らかく微笑んでいた彼の顔は、今は厳しく顰められていた。


「なんでそういう結論になる?」


「詳しくは話せない。でも、これは俺の油断が招いた。」


「失敗した仕事と関係ある?」


 俺を見上げて、ロバートは曖昧に笑う。見慣れた笑顔に、俺は奥歯を噛み締めた。


「マルクは家にいて。俺は少し、周りを見てくる。」


 そう言ってロバートが立ち上がる。俺はギョッとして、彼を押し留めた。


「何を馬鹿なこと言ってるんだ。まだ熱があるだろ!寝てなきゃ駄目だ!」


「すぐに戻ってくるよ。」


「そんなフラフラで、物も食べずにいちゃ駄目なんだってば。とにかく、ベッドに戻って!お粥作ったら俺がやるから。」


「でも、それでは……。」


 突然、ロバートが言葉が途切れた。彼の体がふらりと傾いで、臙脂色の髪が視界の隅に消えた。ドサリという重たい音と共に、ロバートの体は地面に倒れた。


「ロバート!」


 慌てて体を抱き起こすが、ロバートは目を瞑ったまま動かない。体が酷く熱い。


 なんとか彼を担いで、玄関で靴を脱ぎ、寝室のドアを開けるとベッドへと寝かせる。タオルで彼の汗を拭って、新しく濡れた布を額へと置いた。一体、何が彼を苛んでいるのか見当もつかない。俺は医者じゃないし、ここには薬もない。


 ハーブは駄目になってしまったが、とにかく粥を炊いて、ロバートのいる寝室へと持って行く。何か食べなければ、辛くなるだけだろうと思った。




 昼まで待っても、ロバートは目覚めなかった。だから俺は、一つの決断をする。玄関にはいつでも村へ向かえるように、旅立ち用の荷物がまとめられているので今すぐにでも出られるし、今から向かえば明日の朝には村に着く。


 どれだけ待ったって、ロバートの容態は良くならないし、パウロだって来ない。


 俺は、村へ医者を呼びに行くことにした。


 外套を纏って、リュックを背負う。家を出る前に、ロバートの様子だけ見ておこうと思って、寝室のドアを開けた。蝶番が小さく軋んで、ゆっくりとドアが開く。


「マルク……?」


 てっきり寝ているものと思っていたが、ロバートは目が覚めたようだった。弱々しい声で俺の名前を呼ぶ。


「良かった。目が覚めたか。」


「ドアが開く音がして……、どうしたの?その格好。」


 外套姿の俺を見て、ロバートが問いかける。安心させたい一心で、俺は笑った。


「村に行って、医者を呼んでくるよ。」


 ロバートが目を見開く。


「駄目だ。危ないんだ。そう……、道に、ワイバーンの巣が……。」


「飛龍も、病人を助けるためなら許してくれるさ、きっとね。明日の夕方には戻るから、少しだけ待っててくれ。」


「マルク……!」


 身を起こそうとしたのだろう。ロバートがシーツの上で体を動かすが、腕一本上がりはしない。随分と衰弱しているように見える。やはり、急がなければならない。


 さっさと家を発とうと立ち上がって、俺はふと、あることを思いついた。寝室の隅にそれとなく置かれた木箱の中、金庫と分からないように仕立てられたそれを開け、中から一つ、ペンダントを取り出す。


 乳白色に磨き上げられた、不思議な色のトップがついたペンダント。ロバートがここに来て2日目の夜に、彼から預かったものだ。そしてもう一つ、木箱の横に立てかけていた朱色の剣。その二つを手に取って、ロバートの眠るベッドの横に膝をついた。


 ロバートの手をそっと取って、彼の手の中にペンダントを握り込ませる。


「大切なものなんだろ。お守りに持ってろ。それと……。」


 煤けた朱色の剣を、ベッドの上へと置く。


「万が一何かあった時のために、これな。鍵はかけて行くけど、不審者が来たり、また魔物が出たら危ないから。」


 気休めであることは分かっている。ペンダントでロバートの容態は改善しないし、誰かが悪意を持って侵入してきたら、今のロバートでは戦えない。それでも、無いよりはマシだ。


 ロバートが何か言いたそうにしているのは分かっていたが、聞くつもりはない。そのまま踵を返すと、無言で寝室を後にする。後ろから呻き声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。


 家を出て、俺は必死に走る。村に行くための一本道は、すっかり落ち葉に埋もれてしまって、一歩足を前に出す度に、足の下でパキパキと賑やかに音を立てる。もうどこが道なのか一見しただけでは分からない有様になっていたが、ここは勝手知ったる山の中だ。4年の間に、何度もここを行き来した。迷わずに歩く方法なら知っている。


 幹の形、岩の数、小川の向きと太陽の位置を確認しながら、一歩一歩確実に、しかしながら最速で山道を下る。


 太陽が陰り、茜空が紺碧に満ちて、闇が辺りを覆っても、俺はスピードを落とすことなく一心不乱に村を目指す。



 ようやく人里が形となって眼前に現れたのは、東の空に朝焼けが見え始める頃だった。

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