3日目
玄関を開けるとロバートが雑草を抜いていた。
まだ日の上り切らない、早朝のことである。
彼は寝ぼけ眼を擦りながら家を出てきた俺の姿を認めると、爽やかな笑顔で「おはよう!」と叫んだ。うるさい。まるで昨日のことがなかったかのように、ロバートはいそいそと雑草抜きを続ける。そんな彼の正面にしゃがみ込むと、俺も隣の畝の雑草を抜き始めた。
「あれ、今日は水やりはいいの?」
「なんか雲行きが怪しい。昼頃から雨が降りそうな気がする。」
いつもより強く吹きつけてくる風を体に感じながら、俺が空を見上げると、ロバートもつられて上を向いた。空はまだ真っ暗で、見上げても上には何もない。ただどこまでも、ほんの少し闇が綻びた空が広がっているだけだ。
「雨、降ったら何する?」
ロバートが問うた。
「仕方ないから仕事する。」
「仕方ないからかぁ。」
「人間はな、みんな仕方なく仕事してんだよ。やらんで良いなら誰もやらん。」
雑草を優しく掴んで、根っこから抜く。ブチブチと繊維の切れる音がして、地面にポッカリと穴が開いた。
「そうだよねぇ。考えてみれば俺も、仕方なくやってたのかなぁ。」
「いや、知らねぇわそんなこと。何?仕事好きじゃなかったの?」
ロバートは一旦「うん。」と頷いたが、間を置かずに「うーん。」と首を傾げる。自分でもどう返事をして良いか考えあぐねているようだった。
「ロバートさ、家に農園があるって言ってたじゃん。なんで実家出たんだ?親の跡を継いで、農家やってれば食いっぱぐれなかっただろうに。」
「まあ、いろいろあって。」
昨日は嬉々として子供の頃の思い出を語っていたのに、今日はそんなに乗り気ではないようだ。ここに来た時からすっかり見飽きた、曖昧な笑顔で笑っている。
「でも、家を出て、いろんな人と会って、すごく楽しかったのは本当なんだよ。」
「へぇ、楽しかったんだ。」
「そう、特にパーティを組んでた人たちが面白かった。俺と、あともう1人の人間と、ドワーフと、エルフの5人でずっと旅をしてたんだけど、そりゃもう面白い人ばっかりで。ドワーフとウィルが……ああ、ウィルっていうのはもう1人の人間なんだけど、会った時から喧嘩ばかりするんだ。会ってすぐだよ。取っ組み合いの喧嘩になって、あの時は本当に驚いたなぁ。ウィルが、ドワーフの足の遅さを馬鹿にするものだから、ドワーフがすごく怒ってね、次の日の朝に突然ロバを買ってきた。」
「馬じゃなくて?」
「そう、ロバ。足が届かないからだって。でも長旅になるからロバを連れて行くことはできなくて、その日のうちに寄付をした。始まった時から大赤字で、エルフの娘が呆れていたよ。」
「初めから波乱万丈だな。」
「本当に!どうなることかと思ったけど、なんだかんだ、ずっと一緒にいた。」
「羨ましいしいねぇ。俺はもうずっと、この山で1人ぼっちだよ。」
そう言って笑うと、ロバートも柔らかく微笑んだ。
「誰もマルクを訪ねて来ないのかい?」
「訪ねて来れないように、山奥にしたの。」
「それは絵描きの仕事の都合で、ということなのかい。」
「まあ、そうだな。」
力任せに雑草を引き抜くと、根っこを引き抜く前に根元でバッサリと葉がちぎれてしまった。根を掘り起こさなければいけないので、近くの地面に放置していたスコップを手繰り寄せて、手に握る。先端を地面に突き立てると、シャクリと鈍い手応えがあった。
「それにしても、今日はパウロ来るかなぁ。」
約束の日からもう既に5日経つ。保存庫にある食料も心許なくなってきているし、そろそろ来てくれないと本気で困る。ロバートと約束した期限も残り4日。ちょうど折り返し地点というところだ。
「パウロというのは、確か行商の人だったね。」
ロバートが尋ねる。
「そう、行商のパウロ。早く来てくれないと、追加の寝具と、ロバートの服も買わなきゃなんないのにな。」
「え。」
ロバートが戸惑った声を出した。昨日もこんなことがあったな、と思いながら俺は苦笑する。初対面で図々しく「ここに置いてくれ。」と頼んだくせに、本当の彼は小心者なのだろう。いつか来るかもしれない否定の言葉を受け入れるために、できるだけ希望を持とうとしない臆病者だ。
だから、俺は笑ってやる。
「いつまでも床でタオルケット被って寝るつもりかよ。服だって、俺と共用じゃ不都合が出てくるだろうし、冬が来る前に一通り揃えないとな。今回来たパウロに、次回分として発注したらギリって感じ。」
「でも、君は初め1週間って。」
ロバートが紡いだ言葉に、俺は「ああ。」と相槌を打った。これでようやく合点がいった。なんだ、彼はそんなことを気にしていたのか。
「1週間っていうのは、食料が尽きるまでの期間だから。別にロバートが滞在する期間を区切ったつもりはねぇよ。後1週間で、1回買い出しに行くよって話だよ。」
「そう……だったね……。」
彼の表情が俄かに翳る。安心させるつもりで言った言葉が、彼の何かに刺さってしまったようだった。置いて欲しいと言ったのは彼なのに、どうして一週間後の話をすると困った顔をするのか、俺にはよく分からない。聞いて良いのかも分からないし、聞いたところで答えてくれる気がしなかった。
ポツリと、顔に滴が当たる。
パチパチと数度弾けるような音がして、雨粒が地面を叩き始めた。
「降ってきたな。」
予想よりも随分と早い。隣でロバートも空を見上げていた。
夜はもうすっかり明けたはずなのに、頭上には暗雲が立ち込めていて、光一つ地上には差し込まない。頬を冷たく叩く雨粒の勢いが酷くならない間に、俺とロバートは家の中へと駆け込んだ。
集中していた俺の耳に、ノックの音が飛び込んだ。
昨日の晩もこんなことがあったな、と部屋に置いてある時計を見ると、いつの間にか時刻は夕飯時を大きく回っていた。
「マルク、晩ご飯どうする?」
扉の向こうからロバートの声がする。
やってしまった。仕事に集中しすぎて、昼から何も食べていない。何も食べていないどころか、寝室にあるこの椅子から、一度も立ち上がっていなかった。ため息をついて、よっこらしょっと立ち上がる。心なしか、エネルギー不足で足が震えていた。
朝、雨に降られてから、俺は今日という日を仕事の日として定めた。今日は一日絵を描くから、ロバートはロバートで勝手にしてくれと言って、あの後すぐに寝室に篭ったのだ。そして気がつけばこの時間である。あまりにも筆が乗りすぎて、時間が経つのを忘れていた。
げっそりとした顔で寝室から出ると、香ばしい香りが俺の鼻をくすぐる。テーブルの上に、一人前の暖かな夕食が用意されていた。
「これ、ロバートが作ってくれたの?」
問いかけると、ロバートが申し訳なさそうに笑う。
「床下の貯蔵庫を勝手に開けさせてもらったよ。ごめんね。」
「全然良いよ!むしろありがとう。夕食のこと、すっかり忘れてた。」
「蒸してマッシュしたペルナトと、えっと、ライ麦の……そう、ルイスリンプ。それと、キャベツがあったから、ひき肉を包んで焼いてみた。この辺りでは、そういう調理法があるだろう?」
「カーリカリュレート。美味いよな。」
「そう、それだ。昔、旅の途中で食べた記憶があったから、一度作ってみたいと思ってたんだよ。それにしても、君の家の貯蔵庫はすごいね。あれも魔術で作られているのかな。」
「村の爺さん作『凍』と『蔵』の魔術の合わせ技、命名『フリーズドパック』だってさ。箱の中に冷気を生成して、密閉して閉じ込めてるって言ってた。おかげで、俺は山奥で生活しながらムナやマイトが口にできる。開ける度に効果が弱まるのが玉に瑕だけどな。」
「エッグとミルクか。それは、素晴らしいね。」
ロバートの故郷は、どうやら遠いところのようだった。ただ、長く旅をしてきたというのは本当らしくて、彼はいろいろなことに順応しようとする。別に彼の国の言葉で、「マッシュポテトとライ麦のパン」だと言えば良いのに、わざわざ言葉も調理法も、この山に合わせてくれる。長い間、そうやって生きてきたのだろうなと、俺は思った。
「ロバートはもう食べたのか?」
テーブルに置いてある食事は一人分。そのことから考えると、尋ねるまでもなかったが、それはそれとして俺は彼に声をかける。ロバートは申し訳なさそうに眉を下げると「うん。」と答えた。
「じゃあ、ちょっとだけ待っていてくれるか。すぐに戻る。」
そう言って俺は寝室へと飛び戻る。ベッドの上のシーツを敷き変えて、ついでに枕も変えた。キャンバスを小脇に抱えて、仕事道具を手繰り寄せ、急いでリビングへと戻ると、所在なさげなロバートが俺を見て目を見開いた。豆鉄砲を食らったような顔が痛快で、少しだけ気分がいい。
「今日はリビングで仕事するから、ロバートがベッド使えよ。」
「いや、でも。それは。」
「徹夜になりそうなの!もうちょっとで出来上がりそうなんだ。だから、今日は俺、寝る予定ないから。ベッド余ってる。寝ろ。」
無理やりに彼を寝室へと押し込むと、彼が振り返る前に寝室のドアを閉めて封印した。中ではしばらくロバートの声と、扉を叩く音が聞こえていたが、俺がしばらくドアノブを押さえてじっとしていると、ついに諦めたのか小さな声で「おやすみなさい。」と言って、足音がドアから離れていった。
静かになったリビングで、暖かな食事を口に運びながら、俺は横目で椅子に立てかけたキャンバスを見た。
もう少し。もう少しで出来上がる。
絵描きとしての、俺の悲願。この作品の完成を、俺自身がこの世界で一番心待ちにしている。4年間の山籠りの集大成。これを完成させるためだけに、俺はこの山へ来た。その夢にまで見た日が、今晩遂に訪れようとしているのだ。
それと同時に、考える。これが出来上がったら、俺はどうしたら良いんだろう。こんなに早く、その時が訪れるとは思っていなかった。なんなら、一生完成しなくてもよかった気さえする。
「ベッド買ったらどこに置こうかなぁ。」
完成間近の絵を前にして、俺は暖かなカーリカリュレートを一口頬張った。
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