忘る勿れ
「凪、どうせ週末ヒマだろ?」
などとまったく失礼で無神経な質問を晴樹に投げかけられたのは水曜日の昼休み、いつもの四人で昼食を摂っている最中であった。
「お前、僕だったら傷つけてもいいと思ってないか?」
「ダメなのか?」
「いや、お前みたいなクズに期待した僕が馬鹿だった」
「ひどい言われようだな。これでもお前を信用してるから、フランクな言葉遣いになっちまうんだぜ」
「そうかそうか。それで、いったい何なんだ、藪から棒に」
僕が至極真っ当な質問をぶつけると、彼はニヤッと、そういうオノマトペを使ってしか表現できないような、とても趣味と意地の悪い笑みを浮かべた。誠に遺憾である。
「遊ぼうぜぇ」
「ぜー」
彼の語尾に重なるようにして聞こえた声に、僕は耳を疑う。
しかしながら浮舟の隣でふくふくと微笑んでいる少女の笑顔で、僕の耳が正常に機能していたことを知る。
バカな、良識人枠の晴原さんがこの阿呆に賛同しているだと?
「…晴原さん」
「なぁに?」
「いくら渡されたの?」
「お前さ、三十秒前の自分を思い出してみ?」
「なんだと?とうとう晴原さんにまで手を出したのかこのジゴロめ」
「聞けよ」
「どうなの晴原さん」
僕は晴原さんの顔をじっと見つめた。視界の端で、菓子パンを咥えた浮舟が怯えたハムスターみたいな様子で僕らを見比べている。正直かわいいと思う。
晴原さんは「うふふっ」とやわらかに笑って、顔の前で手を振る。
「何もされてないよぅ。でもまあ伊藤くんとは、強いて言うなら同志って感じで」
「同志?」
「こっちの話だから気にしないで。でさ、私たち仲良い割に、休みの日とか遊んだことないでしょ?だから、近いうちに遊びたいねって、伊藤くんと話してたの」
「そういうことだ。お前みたいな童貞野郎はすぐに色恋にもっていきたがるから敵わん」
「貴様のような節操無しよりはマシだ。例の話をデカルトにチンコロするのは容易いんだぞ?」
「それだけは勘弁してくださいお願いします」
机に額を擦りつける晴樹を見て溜飲を下げる。このネタはしばらく脅迫に使えそうだ。
「あ、あのぅ」
浮舟がおずおずと手を挙げた。
「どうしたの?」晴原さんが首を傾げる。
「具体的には何をするんでしょうか?」
「えーと、今のところ映画を観て、ご飯を食べるところまでは決まってるんだけど」
それだけ決まっていれば十分じゃないかと思う。目的や理由もなく面を合わせるのが友達というものだろう。
僕はそう思ったのだけど、浮舟は浮かない顔をする。
「あの、観る映画は決めてるんですか?」
「うん」
「な、なんの映画でしょう?」
「当日のお楽しみだよ。うふっ」
いまひとつ意図の判らない茶の濁し方をして、晴原さんは笑った。浮舟がとてもとてもイヤそうな顔をする。今の彼女には棘がないので、その顔は怒られる直前の子供みたいな表情とも形容できる。
僕は思わず笑った。
「よく解らないけど、そんな顔してあげないでよ、浮舟」
「そうだよぉ、私たち友達でしょう?」
「むー」
しばらくそのままの顔で晴原さんを見つめていた浮舟だったが、ふとこちらを向くと、かるく頬を膨らませた。そうして、ふいっとそっぽを向いてしまう。
彼女の怒りを解せない僕が怪訝な表情を浮かべていると、晴樹の右手が肩に乗っかった。
「そういうことだから、週末は空けとけよ。あ、ちなみに映画以外にもなんか考えとくわ」
「…まあ、わかったよ」
頷きながら、僕は浮舟の不貞た横顔を眺めて、やっぱり彼女は可愛いんじゃないかと思った。
…あれ?
なんだ、この気持ちは。
いったいいつから、僕は。
次の日は雨で、その次の日は晴れた。
体育でバドミントンをしたり日本史の授業を寝て過ごしたり、浮舟の横顔をぼんやり眺めたりしているうちに、早くも週末を迎えた。
寝坊してしまわないようにとセットしておいた目覚ましを止めて、寝ぼけ眼を擦る。午前九時。やっぱり朝は苦手だ。どれだけ寝ても眠たい気がしてならない。
枕もとに放り出してあったスマホを手に取る。晴樹からメッセージが届いている。
「今日は浮舟さんもいるんだからな。遅れんなよ!」
「はいはい」と誠意も生気もない返事を送りつけてから、ふと気づいた。
僕は目覚ましを仕掛けたのだ。
こんなことのために。
それは、以前の僕ならばありえない行動のはずだった。友達なんて存在するだけで十分で、それ以上の何者でもないと思っていた。どれだけ春樹や浮舟と仲良くなろうとも、それは揺るがなかった。
そんな僕がいま、自分から友達と遊ぼうと思って、目覚ましなんてかけてやがる。
然るに、僕は僕の内面における平衡状態を逸したのだ。
あのシュレディンガーさんの金言によって、僕は何かを得た。だから心は安定な位置を離れて転がり始め、これまでは気にも留めなかった瑣末ごとが、まったく違ったふうに見えるようになった。そうやって変化することで違った場所に安定することを、他ならぬ僕自身が求めていた。
時計の針が見えないように、見えないように。
シュレディンガーさんは、そうやって目を瞑っていた僕を揺り動かし、障壁を越えさせたのだ。僕はそれだけのエネルギーを貰っていたわけである。
これから僕は何処に落ち着くのだろう。
それを考えることには一抹の不安が付き纏ったが、それでも僕は胸を躍らせていた。その反応過程は人生に向き合っているのと同義だと言わんばかりに、ひどく正しいことであるような感じを僕に与えていたからだ。
ふふっと独り笑ってから、身支度を始めた。
集合は午前十時、駅前で。
そう言われていたので僕は九時五十分に駅を訪れたのだけど、そこにいたのは晴樹だけだった。
こいつは意外と律儀なヤツで、待ち合わせに遅れたりすることはしない──とまあ、人から伝え聞いた話だったが、嘘ではないようだ。こういうところも男女問わず好かれる理由なのかもしれない。
だが実際のところで彼が決して約束を破らない理由を、僕は知っている。彼は杞憂という言葉が嫌いなのだ。本当は、ただそれだけのことなのだと思う。
歩み寄る僕を認めると、ベンチに座っていた彼は無言で右手を上げた。左手にはスマホが握られていて、両耳にはワイヤレスイヤホンが突き刺さっていた。
「おはよ」
「おっすおっす」彼はイヤホンを外しながら応えた。
「女性陣は未だみたいだね」
「うむ、ハルちゃんから連絡があった。十分くらい遅れるそうな」
最近になって彼は、晴原さんのことをハルちゃんと呼ぶようになった。そういう距離の詰め方が自然とできてしまうのが陽キャという生き物なのである。僕などには到底できそうにない。
しかし、そのくせして入学当初から親しい浮舟に関しては呼び方を変えようとしない。理由はなんとなく想像できるが。
できるが──。
なんだ、この苛立ちは。
「晴樹」
「ん?」
「金玉ぶっ壊していい?」
「俺お前になんかしたっけ?」
「いや、お前の顔が漠然と腹立たしかった」
「どうしたどうした、変人っぷりに磨きがかかってるぞ。どういう思考回路なんだ」
なぜかと訊かれると、しかし僕は何も言えなかった。ただ、好意を寄せているが故に彼女を名前で呼べないことを、無性に腹立たしく思ったのだ。
「解らないが、イケメンはみんな死ねばいいと思ったんだ」
「おろ、それだと俺もイケメンになっちゃうけどいいのか?」
「どうみてもイケメンだろ」
「…お前のそういうところ、俺は好きだぜ」
「やめろ、野郎に言われたって嬉しくない」
つっけんどんに応えながら、苦笑を浮かべる彼の隣に座った。蝉の声が日毎に大きくなっている。高校二年の夏、青春ど真ん中だ。
うん、我ながらまったく似合わないな。
「んで、今日はどうするの?」
「あー、それなんだがな、結局何も浮かばなかったんで、とりあえず昼まではテキトーに時間潰して、それで飯食ってから映画に行くことになった」
「へー、いいんじゃないか?」
「相変わらずテキトーなやつだな。ま、俺は気楽でいいけど」
誰かと外出するときに自分の目的を最優先に考えるのは何処かズレているような気がする。そんなに目的の遂行を優先したいなら一人で行動を起こすべきで、連れて行くのは友人ではなく協力者であるべきだ。友人との外出は、それ自体が目的であるべきだ。
なるほど。
「だから僕は、お前からの誘いを蹴り続けてたわけだ」
「よく解らんが失礼なこと考えてないか?」
以前の僕はそんなことを行動の目的に、つまりは駆動力に設定することができなかったのだ。家で寝ている方が安楽だと思ってしまうから。結局のところ、僕は出不精だったというよりも、欲求に素直すぎただけなのだろう。
「だが心配するな。今の僕は一味違うからな」
「さいですか…それにしても暇だな。何かやることないか?」
「そうだな、なら人間失格ゲームなんてどうだ?」
「なんだその絶望的な名前のゲームは」
「知らないのか?」
「待て、お前に呆れる権利はないはずだろ」
「しゃあない、説明して進ぜよう」
人間失格ゲームとは、かの名作『人間失格』に登場する非常に雅で奥深い遊びだ。なんでもいいから一つ言葉を選んで、それに対する
「ほー、なるほどな、やってみるか」
「よし、じゃあお前から言ってみろ」
「俺のシノニムは?」
「男娼」
「待て待て待て」
「なんだ金玉野郎」
「よくもまあドヤ顔で答えられたもんだな。誰が男娼だ、誰が」
「イヤなのか?」
「…そう訊かれると、あながちイヤだとも言えないな」
それみろ、やっぱりただのジゴロじゃないか。
僕が溜め息をもって嘲笑の意を表明してやると、彼は苛立った様子で僕を小突いた。
「ほれ、次はお前の番だ」
「金玉のアント」
「おまえ金玉好きだなぁ…もう銀玉とかでいいんじゃね?」
「それはシノニムだろう。風流の解らんヤツめ」
「てめえにだけは言われたくねえよ。てか、お前は解んの?」
「もちろん。金玉のアントは墓石だ」
「すまん、ぜんっぜん解んねえわ」
どうやら彼には風流というものが解らないらしい。これではゲームにならない。
「なんかもっと面白い遊びねえの?」
「野球拳とか?」
「どっからツッコめばいいのか判らんボケはやめろ」
ふと、そこで言葉が途切れた。
人間の会話において時々こういうことが起こるのを、僕は以前から不思議に思っていた。別段に示し合わせたわけでもなく、学校で習ったわけでもなく、けれどもどうして、僕たちは自然に会話を止めることができるのだろう。そうしてこの沈黙がもたらす居心地の良し悪しが仲良しの程度に大きく左右される気がするのは何故だろう。
いま僕は、沈黙を心地悪いとは思わなかった。ふっと小さく空を仰ぐ。
いい天気だなぁ。
「…なあ、凪」
自然な沈黙を壊したのは春樹の方だった。
「なんだ?」
「時々さ、不安になるんだ」
彼の生涯において完全に安心できる時などあるのだろうかと疑問に思ったが、口には出さないでおく。そんな時もあるのかもしれない。
「俺は、俺を忘れていくんじゃないかってな」
「どうした、頭でも打ったか?」
「いや。だって人間って変わるじゃんか。俺はそれが怖いんだよ」
「まあ、そりゃあ、な」
近頃変わり始めた僕にも、その感覚は理解できた。
住む場所が変われば生活が変わる。所属が変われば会う人間が変わる。いつまでも同じままでいるのは不便だから、人間はその度に自らを最適化する。
当たり前のこと。人間は変わる。
「こういうことを考えてるとよ、いつも俺は変な妄想に囚われるんだ。こう、どこかで、俺の忘れちまった俺が、今も生きてるんじゃないかっていうふうな」
「独特だな。言いたいことは解るが」
「もしそうだとしたらさ、それは、すごくさみしいことだって、思うんだ」
忘れられた自分自身。
それは古い人格の一部とも言い換えられるのだろう。要らないから捨ててしまった自分自身。
「お前と一緒にいる今の俺も、いつか忘れんのかなぁ」
もーいーかい。
まぁだだよ。
──慌てて、僕は辺りを見回した。
かなり近くで聞こえた気がしたのに、子供の姿なんてどこにも見当たらない。
……空耳か。
僕は苦く笑んで、隣で真面目くさった表情を浮かべる友人の肩に腕をまわした。
「なんだよ、暑苦しい」
「心配するな、僕が憶えててやる」
「はあ?」
「今のお前が何処かへ行っても、僕が見つけてやる。だからお前も、僕を見つけてくれ」
もしかしたら寂しいという感情の根源は、そこにあるのかもしれない。
全部を抱えていられないから、誰かに憶えておいてほしい。
自分にとって不都合で、デカルトが言うところの虚部が大きすぎる、だけど確かに存在した自分を。
そうだとしたらドッペルゲンガーというのはまるで、自分を忘れた自分を呪う亡霊みたいなものであるように思われた。そうしてそれは、ひどく悲しいものであるような気がした。
ちらと僕を窺ってから、晴樹は遠くを見遣る。
「…ああ」
彼の瞳には、どんな僕が映っているのだろうか。
予告通り十分ほど遅れて現れた少女たちと合流したのち、僕らはふらふらと歩きだした。ここに集まった誰もが確固たる目的を持っていないが故に行動は鈍く、穏やかだった。屋外の暑さを嫌って、たいてい、店の中で時間を潰した。
時間が溶けていく。
その感覚は自室で微睡んでいる時と似ていて、だけども眠っているよりは楽しくて有意義なものであった。
「夏休みも近いしさぁ、新しい水着が欲しいんだー」
晴原さんがそう言ったので、僕らは服屋にも行った。
水着になど興味のなかった僕は適当に暇を潰すつもりだったが、何故だか晴原さんに強く引き止められて、彼女らの水着を一緒に選ぶこととなった。顔では億劫がりながら、内心で僕はガッツポーズを作っていた。美しいものはいくら拝んでおいても邪魔にならないのである。
とはいえ彼女らも華の女子高生、年頃の乙女がそんなに攻めた水着を選ぶわけもなく、ちょっとガッカリであった──とか言うともう一発ビンタを食らいそうなので口には出さない。
そう、叩かれたのである。
誰に?
もちろん浮舟に。
それは試着室から出て来た彼女を褒め称えた時のことだった。
「あ、えっと…ど、どうですか?」
「うん、とても似合ってると思うよ。浮舟は細いから、それくらい肌を出しても違和感ないね」
「へっ、あの、えー…」
体を隠すように身を縮めた彼女は、頬を紅く染めて僕を見つめた。
そんな反応をされたら、ダメ押ししたくなるじゃないか。
「最高にエロいよ、浮舟。特にお腹から尻の辺りが最高だ」
そう呟くや否や、僕の左頬が高らかに鳴ったのだ。
痛かったなぁ、あれは。
心配する晴樹を横目に、僕は浮舟に微笑みかけた。すると彼女は目を見開いて、怒ったような照れたような微妙な表情を浮かべてから、ふいっと顔を背けると、そのままカーテンを閉めてしまった。一部始終を見ていた晴原さんは、よく解らないけれども喜んでいた。
それから僕は晴樹と一緒に店を出て、入り口のそばに設置された自販機で缶入りのサイダーを買った。彼はコーラを買った。
僕は左頬をさすりながら、彼は静かに苦笑しながら、日陰のベンチで缶を傾ける。
「お前は、ほんとブレんなあ」
「人として軸がしっかりしてるからね」
「ひん曲がった粗悪品の軸だけどな…で、実際どうなん?」
「何が?」
「水着。可愛いと思った?」
「そりゃあ、まあ。浮舟には大抵なんでも似合うし可愛いよ」
「…そうか」
自分から訊いておいて素っ気のない返事だった。僕が訝しがると、彼は微笑んでコーラを含んだ。
「それでいい」
と、彼は言った。
その意味は判然しなかったけれど、追随しないでほしいと顔に書いてあったので、僕は何も言わなかった。
代わりに、浮舟の水着姿を頭の中で再生してみる。
うむ、確かに可愛かった。想像以上にプロポーションが良かったことにも驚かされた。
そして何より、顔を真っ赤にして僕に平手を喰らわせる、あの姿。
僕には、何よりそれが嬉しかった。
だって、あんなにも恥ずかしがって、必死な顔した彼女に平手打ちを見舞ってもらえる人間は、僕だけだろうから。彼女に軽蔑されながら、それでも彼女が見放さないでいる、僕だけだろうから。
それが、僕には嬉しかった。
「…ん?」
「なんだ?」
「浮舟は、あの水着を買ったのだろうか」
「さあ、たぶん買ったんじゃないか?」
「あれは、かなり露出度が高かったよな?」
「水着だからな」
「…やっぱりダメだ」
ベンチに缶を置いたまま、僕は立ち上がった。
「おいおい、どこ行くんだ?」
「ちょっと待っててくれ、すぐ戻るから」
そう言い残し、僕は店内へ戻った。
そんなこんなで、気づけば昼時である。
僕らは高校生らしく、近くのファストフード店で昼食を摂ることにした。
「しっかし、ほたるも容赦ないよねぇ。いきなりビンタって」
「当然の報いです」
チーズバーガーに噛みつきながら、僕はジト目で浮舟を見つめた。彼女は怒った様相でこちらを睨み返していたが、やがて気弱な表情に戻ると、ふっと目を逸らしてしまった。可愛い。
「まあ、この変態には良い薬だと思うぜ。股ぐら蹴り上げてやっても良いくらいだ」
「やめろ、金玉がひっくり返ったらどうしてくれるつもりだ」
「ちょうど良いじゃねえか、悪い芽は早いうちに摘まんとな」
「発芽する前に判断するのは倫理的にどうかと思う」
「優生思想反対だとでも言いたいのか?」
「それは難しい問題だね。今度みんなで考えてみよう」
「なんの話してんの、君たちは…」
晴原さんに呆れた視線をもらって、僕らは顔を見合わせた。
こいつと居ると、つくづく毒されていることを自覚する。
「…なんか、あれだね」
「なんだ?」
「お前と居ると頭がおかしくなりそうだ」
「同感だな、俺もそう思ってた」
「ほんと仲良しですね」
「だねぇ。男子のこーゆーところ、ちょっと羨ましいかも」
晴樹と睨み合っているうちに、浮舟まで呆れた様子で僕らを眺めていた。まったく心外だ。頭がおかしいのはコイツの方だというのに。
「ところでさ」晴原さんがフライドポテトを咥える。「青井くんは、伊藤くんのこと晴樹って呼んでるよね?」
「ん?うん」
「なのにどうして、ほたるのことは苗字で呼ぶの?」
「へ?」
予想外の質問に面食らって、僕は間抜け面を晒した。率直に言って、そんなことは考えたことがなかった。
これまでの経緯を思い返してみる。
入学当初、初めて浮舟に話しかけた時はこうだった。
「浮舟さん、だよね。はじめまして、僕は青井凪。よければお昼いっしょに食べない?」
三ヶ月後の休み時間はこうだ。
「あれ、浮舟さん教室にいたんだ。次、体育だよ。一緒に着替えよう?」
そして半年後。
「浮舟。パンツ見せてくれないか」
……ふむ、確かに彼女を名前で呼ぶことはなかった。『さん』づけで呼ぶのをやめた時も、名前で呼ぼうとは思わなかった。
どうしてだろう。
「解らない。確かに、名前で呼ぼうと思ったことは無かったな」
「そっかそっかー。いやね、あんなふうに冗談言える仲なのにどうしてなのかなぁって、気になってたの」
これには浮舟も首を傾げている。そんな顔されても。
そもそも呼び方なんて気にするような人間じゃないのだ。僕の発した音が対象を指定していればそれでいい。実際、僕はそのくらいにしか考えたことがなかった。晴樹を名前で呼んだりデカルトを渾名で呼んだりするのは、たぶんそっちの方が発音しやすいからだ。
あれ、でも『浮舟』よりは『ほたる』の方が発音し易くないか?
「うーん…響きが気に入ってるのかもしれない」
「響き?」
「そう。浮舟って、すごく綺麗な言葉に思えるから」
きわめてシンプルに答えたつもりだったけど、晴原さんは実に嬉しそうな、ふくふくとした笑みを浮かべた。隣の浮舟は対照的に、ちょっと照れたような感じで目を伏せている。
「んふふ、そっかそっかー。ね、青井くん」
「なに?」
「私も凪くんって呼んでいい?」
「いいよ」
「やった。じゃあ私のことも、ハルって呼んでくれる?」
「ハルちゃん?」
「ちゃんは無しで」
「ハル?」
「はい、それでよろしいです!」
なぜだかハルはご機嫌だった。謎だ。
僕や晴樹が変人なのは周知の事実だが、ときどき、ハルも何を考えているんだか解らないことがある。またもや類が友を呼んでしまったのかもしれない。
「ふへへへへ」
そうしてご機嫌な彼女は、浮舟に絡みついた。酔っ払いみたいだ。
「ほたるはそのままでいいの?凪くんって呼んでみたくない?」
「…ハルちゃんなんて嫌いです!」
あからさまに不貞た表情の浮舟は、しかし頬を薄く染めていた。もはやどういう感情なのかさっぱり判じかねるが、どうやら僕にも怒っているみたいだった。こちらを睨む目が怖い。もしかして水着の件をまだ根に持っているのだろうか。
「そんなに怒らないでよ浮舟。君の水着姿を称賛する気持ちに嘘はなかったんだから」
「…青井くんはもっと嫌いです。話しかけないでください」
取りつく島もなかった。
苦笑して、僕は窓外の空を見上げる。
本当にいい天気だ。
こんな平凡な幸福を理解できるようにならなければならないのだ、僕は。
それからしばらくして映画を観始めた僕は、あの日、浮舟が浮かない顔をしていた理由を知った。
ホラー映画だったのだ。
劇場の前でしばらく抵抗していた浮舟だったが、今の彼女には強引な誘いを断るだけの気力も無いらしかった。以前の彼女ならありえないことだ。力なく項垂れた浮舟はハルに引き摺られるようにして、薄暗い部屋へと入場させられた。
そうして、僕、浮舟、晴樹、ハルの順に座って映画を鑑賞しているというわけである。
実際、僕だって怖いものは得意じゃない。しかしお化けというヤツは滅多に物理的干渉をしてこないらしいので、なんとか耐えられるのだ。血みどろのお化けよりは股ぐらを蹴上げられる方が、僕にとっては恐ろしいのだった。
しかし浮舟は、流石に可哀想だった。
『ノリ』という目に見えない不可思議な力は、時に若者の行動を強烈に支配する。それに逆らうことはご法度であり、それが解らない者は糾弾される。いじめられることだってある。そんな常識は陰キャの僕にさえインプットされていて、基本的にはノリに従って生きるようにプログラムされていた。
だから僕は止めなかった。
止めなかった、けど。
──浮舟は、滅多に弱みを見せない。
少なくとも以前の彼女はそうだった。
それゆえに、この二人は彼女の怖がりを甘く見ているのだと思う。
思えば、晴樹もそうだった。
変人どもは僕を見て妙な安堵を覚えるからか、あるいは浮舟の場合は僕を見下していたからかもしれないけれど、僕には素直な感情を見せてくれる。
浮舟のホラー嫌いと家の場所を知ったのは、高校一年の冬だった。
あの頃の浮舟は今よりもっと気を張っていて──というか自信に満ちていた。当然、他人に弱みを見せることなどありえなかった。
そんな彼女が放課後、僕のところへやって来た。それ自体は珍しいことでもなかったのだけど、彼女の浮かない顔は可笑しいくらいに珍しかった。何事かと思って、僕は首を傾げたものだ。
彼女は散々二の足を踏んだ後で、ポツポツと事情を語ってくれた。
見栄を張って、オカルト好きの友達から心霊モノを借りたのだと。そうして、是非とも感想を聞かせてくれと言われたのだと。
「あの、それで、ですね。い、一緒に見てくれませんか?」
「うん、いいよ」
心底から安堵したような表情を彼女が浮かべていたことは憶えているけれど、そのとき、僕の心臓は揺れなかった。今だったらどうだか判らないけど。
ともあれ、僕らは学校を後にして浮舟の家へ向かった。
そこで初めて、僕は女の子の部屋というものに入ったのだった。なんかいい匂いがしていたけど、特に感慨はなかった。彼女が生着替えでもしてくれない限りには、僕はまったくの素面を保てた。そういうヤツだったのだ、僕は。
ただ、適当な位置に腰をおろして、ディスクをセットする彼女の尻を眺めていた。それくらいにしか興味が無かった。
ややあって流れ始めたのは安っぽいテレビ番組だった。呪いのナントカというような、アレである。僕は一ミリも表情を変えずに画面を眺めていたが、冒頭の脅迫めいた警告文にさえ、浮舟は露骨に怯えていた。
それからしばらく、彼女は僕の隣にピッタリくっついて番組を鑑賞していた。
しかし、二十分を過ぎたあたりで彼女の呼吸が浅く、激しくなった。
「大丈夫?」
僕が隣を見遣ると、彼女は文字通りに震え上がって、僕の袖をぎゅっと掴んでいた。その顔は真っ青で、真冬だというのに額には汗が滲んでいる。
これには、さすがの僕も胸が痛んだ。
空いていた右手で自分の股間を指さす。
「ここ、来る?」
当時の僕にしては珍しく下心ゼロの提案だった。そんな僕の気持ちが伝わったのか、背に腹はかえられなかったのか、彼女はよろよろと立ち上がり、僕の股ぐらに腰を下ろした。そのまま体重を預けてくる彼女を支える程度に抱きとめる。
それでも未だ怖いのか、彼女は僕の袖口を引っ張ると、僕をして自身を抱きしめさせるような格好になった。
ひどく甘い匂いがする。
思わず僕は笑った。
「…ぶきっちょだね、浮舟は」
「う、うるさい、です」
揶揄いついでにぎゅっと抱きすくめてやったけど、彼女は抵抗しなかった。ただ、ちょっと震えた声で「ありがとう」と呟いた。
それから、律儀で強情な彼女は、三十分ほどの恐怖映像に耐えたのであった。
彼女には申し訳ないけど、内容は興醒めするほど人工的で、物語としての面白さもなかった。はっきり言って酷い出来だった。
疲れ切った様子の浮舟がディスクを取り出したのを見届けて、僕はやや白けた気持ちで立ち上がった。
「じゃあ、僕はこれで」
「ま、待って!」
「ん?」
「お母さんたち帰ってくるまで、一緒に居て、ほしいです」
なんともタイミングの悪いことに、この日に限って彼女の両親の帰りが遅かったのだ。
「いいよ」
どうでもよくて──強いて言えば彼女が不憫で、二つ返事で引き受けた。すると彼女は、見たことのないやり方で笑った。僕がそれまでに見たどんな表情よりも、それは魅力的だった。
彼女の両親が帰ってくるまで、僕らは努めてどうでもいい話をした。ほんとうに下らない話ばかりを。彼女は積極的に科学的な話をしたがった。まるで自分に言い聞かせるように、物理や数学において正しいとされる真実を嬉しそうに語った。
そのあいだはずっと、彼女の手を握っていた。
そうすると安心できるのだと、彼女が言ったからだった。
お化けが出そうな雰囲気になってきたところで、僕は浮舟の腕を突っついた。今にも泣きだしそうな顔がこちらを向く。
「これ、着ける?」
こっそりと囁いて渡したのは耳栓である。どこでも眠れるように、僕は日頃から耳栓を持ち歩いている。イヤホンよりは耳栓の方が落ち着くのだ。
束の間、彼女は呆気にとられたように僕を見つめていたが、ハッと我に返り、耳栓を装着した。それを確認してから、僕は左手を差し出す。
おずおずと、彼女の手が伸びる。
上向けにした掌に彼女の小さな手が重なる。ハエトリグサみたいな素早さで、僕はそれをギュッと捕まえた。
「大丈夫」
きっと聞こえないだろうから、大袈裟に口を動かして伝える。
それと同時に大音量の悲鳴が僕らを包んだ。観客の声も混じっている。どうやらお化けが出たらしい。
完全な遮音は不可能なので、浮舟はびくりと肩を震わせる。
けれども僕の手を握りしめて、弱々しく笑った。
「ありがとう」
口の動きだけで、その五文字を聞き取る。
僕もちいさく笑って、スクリーンへ目を遣った。そこに映っていた、まさに金玉が縮み上がるような映像を見て、彼女が少しでも怯えずに済めばいいと思った。
午後四時、陽は未だ高かったけれど僕らは解散することにした。僕と浮舟は駅前で電車通学の二人と別れ、家路につく。
夕刻の風に夏の匂いが混じり始めると、夏休みが近づいているのだと感じる。小さな子供の頃から変わらない感触だ。
くたびれた、というか拗ねた感じの横顔に向かって、僕は同情の意を表する。
「いやあ、災難だったね」
「ほんとですよ!ハルちゃんにも困ったものです」
「たぶん、あの二人は君のホラー嫌いを甘くみてるんだろうね」
以前、浮舟がドッペルゲンガーを見て倒れたという話も、きっと半信半疑で聞いていたに違いない。バカにしているわけではないだろうし、突然倒れた浮舟の体調を憂いていたのも真実だろうけど、二人にはそのくらいの印象しか残っていないようだった。
「オオカミ少年みたいだね」
「誰がですか?」
「いや、なんでもない」
強がりばっかり言ってるから、ほんとうに辛い時には誰も気づいてくれない。とてもとても悲しいオオカミ少女である。
「それより、浮舟はホラーが苦手だって、どうして僕には教えてくれたの?」
つっけんどんに返されても、茶化されてもいいと思って訊いたのだけど、存外に彼女は考え込んでしまった。
一歩、二歩。もう慣れたけど、彼女の歩幅は僕より小さい。歩くときは、のんびり散歩しているイメージでいなければならない。
「そう、ですね」
顎にあてていた手を下ろすと、彼女は上目遣いにこちらを見た。それから、ふっと笑った。穏やかで、けれども僕をからかっているような笑顔だった。
「青井くんなら、私を見つけてくれそうな気がしたからです」
「見つける?」
「はい」
「ごめん、全然解んないや」
「解らなくていいです」
あっさりと言ってしまった浮舟だったが、その表情は朗らかなままだった。眉根を寄せる僕を見て、悪戯っぽく、意図の判然しない表情を浮かべる。
「青井くん」
「なに?」
「あなたは、ちゃんと憶えていてくださいね」
話が見えないけれど、僕は、駅で晴樹と話したことを思い出していた。忘れていくことは、怖いことなのだと。それを恐れることを、寂しいというのだと。
「よく解らないけど、わかったよ」
「はい」
彼女は両手を後ろへまわす。白いワンピースがふわりと揺れた。
「ところで、どうして水着を変えてほしいなんて言ったんですか?」
「そ、れは」
素直に答えてもよかった。実際、半年前の僕ならば率直に答えていただろう。
僕ははにかんだ。なんだか子供じみた顔をしていると、自分でも判っていた。
「言ったでしょう。君の水着姿が可愛すぎるからだよ」
浮舟も、ひどく子供じみた顔をした。
その頬が赤いのか照る斜陽が赤いのか、僕の目は判じかねた。
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