忘らるる怖さ

 六月も終わり、いよいよ本格的な夏が始まろうとしています。

 私が初めてシュレディンガーさんに会ってから、早くも二週間が経ちました。青井くんは相変わらず怠惰で無気力なままですが、以前と違って日常の全てに投げやりになることは無くなりました。休み時間を寝て過ごすことは減り、放課後は私と二人で帰るのが恒例となりました。ハルちゃんは帰り道の方角が違っているために、伊藤くんは友人が多すぎるために、下校時はほとんど二人きりでした。どこかに寄り道することが多く、そこらの喫茶店だったりファミレスだったり、あるいはシュレディンガーさんのところだったりしました。

「お前ら、付き合ってるのか?」

 シュレディンガーさんに会うたびに二人きりでいるものですから、そんなふうにさえ言われてしまいました。

「そう思っていただいて差し支えないです」

 青井くんの返答は不愉快を極めるものでした。

 そう、とても不愉快。

 不愉快なはず、なんです。

 ──私は最近、なんとなく変なんです。

「ほたる、最近元気ないね。なんかあったの?」

 これはハルちゃんから。

「浮舟さん、だいじょぶ?体調悪いの?」

 これは伊藤くんから。

「なかなかやつれてるよ。もしかして生理?」

 これは、アホの青井くんからです。

 周りから見ても最近の私は調子が狂っているようでした。

 すべては、鏡の中の自分に会ってしまってからです。いや、正確にはその後、妙な夢を見てからでしょうか。判りませんが、とにかく、いつもの調子で胸を張ることもできなくなりました。それどころか皆に──特に青井くんに助けられてばっかりで、困った時には彼を呼んでしまいそうになるのです。自分が優れた人間であるという絶対的事実に対する確固たる自信も、日に日に欠けていく気がしています。

 このままじゃダメだ。

 こんな弱気な私じゃあ、誰からも忘れられてしまう。

 頭を過るのは、そんなことばかりでした。


 今日の三限目は物理でした。

「…はい、じゃあ問二と問三、誰か解けるかー?」

 普段ならグループごとに実験をしたり演習問題を解いたりするのですが、期末テストが近づいてきたために、今日はこれまでの総まとめのような内容でした。先生が板書にて授業を振り返り、みんなに問題を与えます。そうして随時、解けた人が黒板に答を書きに行くという方式です。

 私は、疾うに全ての問題を解けていたのです。

 ──ダメだ。

 それなのに、手が挙がりませんでした。

 解答なら確認済みで、やはり私の答は正答であるはずでした。黒板に書きつけてやれば、きっと先生も褒めてくれることでしょう。

 でも、なんででしょう。

 できる気がしないのです。

 引っ込み思案なんて言葉は私の辞書にないはずなのですが、今の私は引っ込み思案そのものです。いったい、恥ずかしいのか自信がないのか、単にクラスじゅうの視線を浴びるのが嫌なのか、自分でも見当つかないのでした。

 悶々としながらも行動を起こせないでいると、背後で椅子が鳴りました。

「お、青井、珍しいな」

「いやあ、それほどでも」

「褒めてないぞー。ほら、書いてみろ」

 青井くんがふらふらと歩いていくのを、私はじっと見ているだけ。

 彼の背中には相変わらず覇気がありませんが、それでも、今の私が失ったものの片鱗を感じさせました。

「先生、俺もやりますよ」

「よし、じゃあ伊藤は問三だな」

「あーい…っておい、デカルト、お前もう全部できてんじゃん!なにサボってんだよ」

「おま、ちょっ、まだ答え合わせがだな…」

「いいから行くぞ、ほら」

 伊藤くんが強引にデカルトくんを引っ張り、教室に和やかな笑いが起こります。

 私も顔だけで笑いながら、えも言われぬ後ろ暗い感情に押しつぶされそうになります。私も、本当だったらあそこにいるはずなのに。あそこにいるべきなのに。

 しかし、考えてみれば不思議なことでもありました。

 いったい、私は何のために、立派であろうとしてきたのでしょうか。

 そもそも、私ってどうして、こんな考え方をするようになったんでしたっけ?生まれつき?いや、それはあり得ません。

 だって私は──。


 時間は等速で流れていって、四限目も終わり、昼休みを迎えました。

 青井くんを中心にいつもの四人が集まって、各々の昼食を机に広げます。ちなみに青井くんは相変わらずカロリーメイトばかり食べています。本人曰く、食事というパラメーターは彼の人生に大きく寄与しないのだとか。謎です。

「晴樹、数学の課題やった?」

「おう」

「見せて」

「お前な、自分で解けるだろ」

「昨日は眠すぎたんだ」

「相変わらず体と脳が直結してるようなヤツだな」

「体と脳が繋がってない人間なんていないさ」

 呆れる伊藤くんを歯牙にもかけず、彼は微笑んでカロリーメイトを齧りとりました。やれやれ、伊藤くんはかぶりを振ります。

「だが残念だったな。今日の出目によればお前にノートは貸せない」

 出目?

 私がそうするのと同時に、ハルちゃんも首を傾げました。

「出目ってなあに?」

「あ、いや、それは…」

 伊藤くんは髪の毛をくしゃりと掴み、苦虫を噛み潰したような表情を見せました。あまり訊かれたくないことだったようです。

 ああ、まただ。

 近頃、こんな時には、心臓の右の辺りが奇妙に苦しくなるのです。

 気まずさ。

 そんなものなんだと思いますが、以前の私は、いい意味でもっと鈍かったはずです。そういう感覚を理解した上で、上手に対応することができるはずでした。

 自分が責められているわけでもないのに何かを誤魔化したくて、私は薄く笑います。早くこの蟠りが解けてくれるように願いながら。

 私の気持ちを知ってか知らずか、青井くんは優しく微笑んだままで、小さく首を振りました。

「こっちの話だ。まあ解ったよ晴樹。自力でやる」

「なんだお前、妙に物わかりがいいな」

「まあね。僕は人生を点検し直すことに決めたんだ」

「はあ、なんだそれ?」

 青井くんはちらと私に目をくれてから、「或る種の思想だよ」と呟きました。たぶんこの場で私だけが、彼の発言を理解できたことでしょう。と言っても私だって深いところは知らないのですけど、なにせ本人の口から聞いていたので、それほど驚きはしませんでした。

 人生を点検し直す。

 彼が変わってしまった原因は、それらしいのです。

「自分の理性が届く範囲にあるものが、全てだとは限らないってこと」

「どうしたどうした、デカルトの悪い病気が感染ったか?」

「断じて否だね。僕は正気だ」

「ほお、じゃあ詳しく聞かせてみろ」

 青井くんは最後の一欠片を口に放り込むと、もったいぶった感じでゆっくりと咀嚼しました。この人はだらしないくせに、所作の一々が奇妙に堂々とした感じを与えますから不思議です。

 ややあって口の中を空にすると、彼はあからさまに格好つけて口を開きました。

「世界の形は、自分が決めるんだよ。世界は初めから決まりきった形をしてるわけじゃない。小説に対する読みみたいなものさ」

「読み?」

「そうだ。本来、物事は言葉や数字によって切り取られるべきじゃないんだよ。切れ目なく続く連続値であるはずなんだ。この世の全てがそんな格好をしているけど、僕らは、それらをそのままには理解できないから、言葉や数字を当てはめて切り取る。一冊の文庫本を理解するために、自分の感性が届く限りの解釈をする。本来の姿を見失わないようにと願いながらね」

 解るような解らないような、微妙な印象を受けます。確かに彼の言うことには一理あるかもしれませんが、それは、ただの屁理屈であるような気もするのです。

 伊藤くんも同じような感想をもったらしく、首を傾げます。

「解らんな。例えば頭の上にあるこの青いやつを俺たちは空と呼んでいるが、その性質はいくらでも列挙できる。言葉や数式を使って、客観的に正しく表現できる。その表現を足し合わせていけば、おおよそ対象の全部を記述できるんじゃねえの?」

「その大雑把な考え方が、本当のところでは正確じゃないってことが言いたいんだ。本物の数学みたく、無限の和にだって答を与えてやれれば一番良いけれど、僕らには不可能だ。人間の観測には、必ず手落ちが存在する」

「はあ。それが、どうして人生を点検することに繋がるんだ?」

「つまりね、僕らは往々にして自らに見えるものだけに依って生きてるんだよ。だから自分自身を作り上げているのは世界じゃなくて、自分なんだ。意味があることなんて何処にもなくて、意味を見出すこと自体が人間の責務で、すなわち生きてるってことなんだね。人生の一つ一つを点検しないまま、その落ち度について世界を責めたてることは、ただの欺瞞で、ひどく子供じみてるのさ。僕はそれを嫌だと思った」

「お前、やっぱりデカルトのヤツ貰ってんじゃねえの?」

「そう聞こえるなら、あるいは彼もこの真理に気づいているのかもしれないね」

「はあ、どっからその自信が湧いてくるのか判らんな」

「お前にはまだ早かったようだな。ねえ、浮舟」

 えええええー。

 こんなタイミングで振らないでほしいのです。頷いても首を振っても齟齬が出ちゃうじゃないですか。というか、私にも解らないんですけど。

 刹那、私は誰にも気づかれないようなやり方で唇を軽く引き結び、小さく首を傾げました。

「あ、あはは…」

 これが精一杯の反応です。

 アホの青井くんはしたり顔を見せましたが、伊藤くんは私の感じる気まずさに気づいてくれたらしく、頬杖ついたままで青井くんを軽く睨みました。

「お前な、浮舟さん困ってんだろ」

「そんなバカな。僕が彼女を困らせるなんてあり得ない」

「どの口で言ってる」

「まー確かに、ほたるは青井くんのこと迷惑だなんて思いっこないけどねぇ」

 唐突にハルちゃんが投げこんだ火薬付きの横槍は私の心臓をまっすぐに貫きました。その激震が喉へ込み上がり、口に含んでいたお茶を噴き出しそうになって、それを無理やり引っ込めた拍子に今度は喉に引っ掛かり、むせます。

「うえ、浮舟さん大丈夫?」

 空いた片手を軽く上げて平気だという意思を伝えながら、ハルちゃんに目を遣りますと、なんと朗らかな笑顔が返って来たのですから驚きです。

「ハルちゃん、突然なにを──」

「ん、私なんか変なこと言った?」

「言いました!」

 あの日以来、ハルちゃんは私が青井くんに恋をしているのだと高を括ってしまったらしいのでした。具合の悪いことに、最近の気弱な私は凛とした対処もできず、こうして、彼女にチクリと刺激されれば噴き出してしまうような有様で──悲しいことに冷静な私は、それが恋する乙女の姿に似ていなくもないということを解ってしまうのでした。だから余計に動揺するんです。

 当の青井くんは不思議そうに首を傾げ、けれども、ハルちゃんの発言について追及することはありませんでした。伊藤くんも、なんだか困ったような、安心したような笑顔で私と青井くんを見比べるばかりで、なにも言いません。

「し、失礼しました。つい…」

「素直になればいいのに」

「うるさいです」

 私が睨むと、ハルちゃんは「ごめんごめん」と言いながら、野菜ジュースの紙パックにストローを突き刺しました。反省の色なしです。情状酌量の余地無しなのです。

「ところで」彼女はストローを口へ近づけます。「みんな知ってる?最近話題の行方不明事件」

「あー、テレビで見たわ。ここ二週間くらいで二十人も消えてるってね」

「それは僕も見たよ。若い子たちが多いから、誘拐の可能性もあるとかなんとか」

 私は特に喋らず、無言で頷きました。

 そのニュースは最近、私たちの町を騒がせています。

 もともと私たちの町はこれと言って特徴のない、どちらかといえば田舎っぽく、しかしまあ田舎と言ってしまうと過剰になってしまうような、中途半端に栄えた町です。それゆえか、少なくとも私の記憶にある限りではそれほど大きなニュースはなく、殺人事件だとか、そんな物騒な話はあまり聞いたことがありませんでした。ですので、今度の事態は異例といえます。

「怖いねー。私たちも気つけた方がいいのかな」

「そうだね、女子は特に気をつけた方がいいかも」

「このまま行方不明者が増えたらさ、学校休みになったりせんのかね?」

「ワンチャンあるかも」

「こ、怖いこと言わないでくださいよ…」

 誘拐だか何だか知りませんが、消えた人たちは帰ってくるのでしょうか。忽然とこの世から消えてしまうなんて恐ろしいことです。

 青井くんは意図の判然しない優しい微笑を私に向けます。

「心配しなくても、浮舟は毎日僕が家まで送り届けてあげるよ」

 ああ、もう。

 この人は、ひとの気持ちも知らないで、ほんとに。

 理由は解りませんし解りたくもないのですが、とにかく私は顔が火照って、彼から目を逸らしました。近頃は人の顔を見ながら話すことも苦手になりつつあります。

「そっちのが心配だわ」

「失礼な。僕が誰よりも紳士なのはお前も知ってることだろ」

「だってさほたる、よかったね」

「…うるさいです」

 ハルちゃんが顔を覗き込もうとするので、ほっぺたをつねってあげました。


 青井くんはアホです。

 それは疑いようのないことだと思います。

 しかしながら最近の彼が言うことには、若干の正当性が認められます。人生を点検する、というアレです。もとはと言えばシュレディンガーさんから賜った金言によって青井くんが導き出した絶対普遍の真理なのだと彼は言っていました。絶対普遍の真理とかいうアホっぽい日本語はさておき、この、人生を点検するというやつ、実は、私にも必要なことなのではないかと思い始めたのです。

 私は優秀ですが、その優秀さの由来を考えてみたことはありませんでした。ただ私にとって、高みにあることは人生そのものであり、それ以外の生き方について考えることをしませんでした。

 そもそも、私が当たり前だと思い込んでいた、この私の人生観は、いったい何処からやってきたのでしょう。

 きっかけは覚えているのですが、今に至るまでの発展があんまり思い出せないのです。考えれば考えるほど泥沼にはまっていくようで、それらしい答は見つかりそうにありませんでした。その思考は水面に映った月を掬い上げるような作業であって、まったく掴みどころがないのです。

 灯台下暗しとはこのこと。我思うゆえに我ありとか言ってる場合じゃないです。かくして私は、私にとって一番自然なことについて、もう一度考えてみることにしたのでした。

 ただ、考えるにあたって手掛かりが欲しいところです。

 それを教えてくれそうな人物は、私の知っている人の中で一番賢い人──やはり、シュレディンガーさんだと思いました。


 放課後、私は一人で件の路地へ向かいました。もちろん、シュレーディンガーさんに会うためであります。

 ちなみに青井くんは一緒に帰ろうとせがんできましたが、男の子には言えない用事があるのだと言ったら、不承不承引き下がってくれました。それを見た私は安心しながらも、ちょっと寂しくなったりするのでした。

 自己矛盾。何だかモヤモヤしてばっかりです。

 ともあれ私は一人きり、軽く汗ばんでしまうような気温の中をトコトコ歩いていって、ついに、路地の入り口にたどり着きました。

 この路地は薄暗くて気味が悪いので、正直一人で入り込むのは気が引けますが、やむを得ません。こればかりは、青井くんに頼るわけにはいかないのです。

 恐る恐る一歩、足を踏み入れました。

 体感にして二度くらい、気温が下がったのが判ります。

 三度目の呼吸で、ようよう私は腹を決めました。

 なんとしてでも、シュレディンガーさんに会わなくてはなりません。私の思想の起源なんて訊いても彼は困ってしまうかもしれませんが、なぜだか、彼なら何か解るような気がしているのです。理屈ではなく、本能のはたらきによって。

 初めて青井くんに連れてこられた時には大層複雑な経路を辿って、どうやらシュレディンガーさんのもとにたどり着きました。しかし最近ではすっかり道も覚えてしまいましたので、私一人でも迷うことはありません。壊れて錆びついた常夜灯を見て、私は左に曲がります。その次は右、右、左。何だか古いゲームの裏技みたいな感じです。

 それにしても、シュレディンガーさんって何者なんでしょう?

 青井くんは親しい知人のように話していますが、実際には知り合って間もないらしいのです。しかも、青井くんは彼の本名すら知らないのです。

 何だかへんな感じです。

 まあ、細かいことを無視すれば、シュレディンガーさんは良識的な大人でした。たくさんの物事を知っていて、特に物理学に造詣が深く、私は感心させられてばかりです。その賢明さゆえか、ときおり突飛な言動をとることもありますが、私は概ね彼を好ましく思っています。

 ええと、確かここを左に曲がれば──そう思って足を踏み出したのと同時に、直進した先に見える曲がり角に青井くんの姿を見つけました。

 思わず足を止めます。

 まったく意外なことでしたが、考えれみればおかしいことでもありません。私は今日、別に、ここへ来ることを彼に断っているわけではないのですから。

 嬉しいようで残念なようで、でもやはりホッとしたような気持ちになって、私は逡巡しました。だけども結局、私の弱虫は喉の奥から彼の名前を引きずり出してしまうのでした。

「青井くん?」

 ここから五メートルほど先に立っているのですから、私が発した音声は、少なからず彼の鼓膜を揺らすものだとばかり思っていました。しかしながら、青井くんはこちらに気づかない様子で、じっと、曲がり角の向こうからやってくる誰かを待っているようでした。彼の横顔は私に意地悪を言う時の、まさにその表情を呈しています。

 聞こえなかったのかしら。そう思い、もういちど彼を呼ぼうとした、その時。

 曲がり角の向こうから、信じられないものが顔を覗かせました。

「──!」

 脳がそれを認識する前に、私の体はすでに動いていたように思います。ああ、脊髄反射ってこんなことかもしれない。そんなバカで場違いなことを考えながら、私は来た道を走って引き返していました。

 なんで。

 や、何が起こってるんでしょう。

 もう何だか解りませんが、とにかく無理です。

 常夜灯の分岐まで戻った私は、先刻とは反対方向へ進み、そのまま走り続けました。蒸し暑いのであっという間に汗が噴き出して不快でしたが、それでも足を止めることはできませんでした。

 もしも神様か誰かが私の思考を読んでいるのだとしたら、もう、私が走り続けている理由はご存知かと思います。

 そうです。

 また見ちゃったんですよ、ドッペルのお化けを。

 しかも今度は鏡の中でもなんでもなく、まっさらな現実の中に現れたのです。彼女が物理法則に従って存在しているのならば、高確率で質量を持っています。肉体を持っているんです。それはつまり、ヤバいことであります。

 気づけば私はたくさんの分岐をめちゃくちゃな方向に進んでいて、立ち止まった時には、いつぞやにも見たような開けたスペースにたどり着いていました。しかし以前に青井くんのドッペルゲンガーが現れた場所とは少し違っているようでした──中央に見覚えのない東屋が建っているのです。その東家が落とす暗い影の中、コンクリートを突き破るようにして勿忘草が乱れ咲いています。

 ぜいぜい肩で息をしながら、私は背後を振り返り、泣きたい気持ちになりました。

「どこ、ここ…」

 あーあ、なんてこと。

 お化けを見てしまって、あたふた逃げ回って、帰り道が判らなくなるなんて。

 これじゃあ、艶麗繊巧どころか、ただの間抜けです。

「もうやだぁ…」

 今更に恐怖がじわじわと蘇ってきて、その場にへたり込みます。スカートが汚れることにも構わず、そこから動けなくなってしまいました。

「青井くん…」

 助けて──。

 涙が溢れそうになった刹那、ぬるい風が吹き抜けて、前髪を揺らしました。ひどく懐かしい、夏夕べの匂いがします。

 淡青色の燐光が辺り一面で揺れたような気がして、私は目を見開きました。そのはずみにポロッと雫が転げ落ちます。

 ああ、これじゃあまるで、あの時みたい。

「何してるの、こんなところで」

 オーバードーズな感情に頭がぼんやりしていたので、唐突に降ってきた声に驚くこともままなりませんでした。それでも私は声に反応して、ようよう、そちらを振り返りました。

 そこに立っていたのは勿忘草の鉢植えを胸に抱いた、髪の長い女性でした。私より歳上っぽく、二十代半ばといったところでしょうか。

 彼女は私と目を合わせると、きょとんと、何だか驚いたような表情を見せました。私の方は魂が抜けた感じで、じっと、彼女を見つめるばかりでした。

 ややあって小さく首を傾げると、何かを理解したかのように彼女は頬を緩めました。


 彼女は私をシュレディンガーさんのところまで連れて行ってくれましたが、あいにく、彼は留守でした。

「残念だったね」

 私に申し訳なさそうな苦笑を向けてから、彼女は胸に抱いていた鉢植えを引き戸の前に置きました。

「彼への、贈り物ですか?」

 率直に訊くと、彼女はまた、困ったように笑いました。ここへ来るまでに少し話しただけですが、彼女は言葉の一つ一つを秤に乗せて、きちんと点検してから口にしているような、そういう話し方をしているように思われました。私が言うのもアレですが、なんとなく気弱な印象を受けます。ちょっと親近感が湧いてしまうのです。

「贈り物というか、私が勝手に贈ってるだけっていうか」

 緩くウェーブのかかった髪の毛を指でクルクルしながら、とてもとても恥じらって、彼女は答えました。よく解らないけれどあんまり触れてほしくなさそうなので、それ以上追求するのは止します。

 ただ、彼女はヒントを残すように一言、

「いつか思い出してくれないかな、なんて、未練がましいね」

 と呟きました。それは、ため息にも聞こえるのでした。

 ははあ、どうやら大人の恋事情が絡んでいるようです。何だか素敵です。

「ところで」彼女は私のほっぺの辺りを見ながら続けます。「あなた、どこから来たの?」

「えっと、それが…」

 私が言い淀むと、彼女は眉を顰めました。

「もしかして、帰り道が判らないの?」

 ここにきて強がる意味もないので、無言で首肯します。

「かわいそうに。怖いでしょう」

「まあ、ええ」

「それじゃあもう、あなたも忘れられてしまうかもしれない」

「忘れられる?」

「うん」

 迷子は私の方だというのに、彼女の方が泣きそうに顔を歪めています。話はさっぱり解りませんが、それを見て、私はひどく不安な気持ちになりました。

「どういうことですか?」

「…ついてきて」

 そう言って、彼女は踵を返しました。

 言われるままについていき、やがて私たちは一軒の小さな平家の前で足を止めました。童話の世界に登場しそうな木造の家で、シュレディンガーさんの研究室があったところとよく似たスペースにぽっかりと建てられています。

「こんなところに家が?」

「うん。私の家なの」

 彼女は先にドアを開けて、「どうぞ」と私を促しました。すぐそばに置いてあるプランターには、やはり勿忘草が咲いているのでした。

「お邪魔します」

 軽くお辞儀しながら敷居を跨ぎ、中を覗き込みます。

 家の造りは恐ろしいほどシンプルで、玄関に当たるスペースを除けば空間の区切りらしいものが一切ありませんでした。つまり、一部屋で構成されているのです。それ自体にも驚かされましたが、それに加えて強烈な既視感が、私を心底から驚愕させます。

「似てる…」

 靴を脱ぐのも忘れて私は呟きました。

「何が?」

「あ、いえ、私の部屋にそっくりだったものですから、びっくりして」

「偶然もあるものだね」

 彼女は気弱に笑います。

 偶然。

 確かにそうなんでしょうけど、家具の配置とか見た目とか、ベッドの上のでっかいマグロのぬいぐるみとか、ほとんど全てと言っていいほど、その光景は私の記憶のものと合致していました。違うところといえば、窓の下にガスコンロとシンクが備え付けられていることくらいです。

 なんだか不思議。そんなこともあるんでしょうか。

 ともあれ、気を取り直して上がらせてもらうことにしました。これに関しては私のとは違って、部屋にはお菓子のような甘い香りが漂っていました。

「てきとうに座って」

 柔らかくて眠たい声で言われ、私は部屋の真ん中に置いてあるローテーブルに向かって座ります。彼女の声は柔らかくて優しくて、聞いていると眠くなってしまいそうです。

「ちょっと待っててね」

 言いながら、彼女はガスコンロに向かいました。お茶でも淹れてくれるようです。ここは素直にいただきましょう。

 ややあって部屋に漂っていた甘い香りが、新鮮なそれ自身によって塗り替えられるのが判りました。どうやらこの香りの正体は、彼女が淹れている何かしらによるものみたい。

「すごく良い香りですね」

「キャラメルラテだよ」

 へぇ、すっごくお洒落な響きです。ていうか、そんなの一般家庭で作れるのかしら。

 日頃から淹れ慣れているのでしょう、あまり待たされることなく、彼女はマグカップを二つ持ってきました。湯気が立ち上るそれは、この暑いのに、しかし何故だか私の喉を渇かせます。そういえば結構な距離を走ったことを、今更思い出しました。

 カップを受け取って飲みますと、それは当たり前のように甘くて美味なのでした。なんだか落ち着きます。

 ほうっと息を吐いた私を見て、彼女は小さく笑いました。

「美味しい?」

「はい、とっても」

「よかった」

 彼女も一口含んでから、カップをテーブルに置きます。その音がはっきり聞こえるくらい、部屋は静かでした。

 急かしているようにも思われて気が引けますが、本題を切り出すことにします。

「あのぅ、それで、忘れられるというのは、結局どういうことなんですか?」

「どうやって伝えればいいのか判らないけど、あのね、人間に見えていることって、全部が正しいわけじゃないの」

 いきなり行間が広くなったものですから、私は落とし穴にハマった気分です。戸惑う様子が顔に出ていたのでしょう、彼女まで困った顔をしてしまいました。

「えっと、もう少し易しく教えてください」

「うーん…」彼女は顎に指を添えて、明後日のほうを見つめました。何やら考えている様子です。奇妙な緊張を覚えて、私は姿勢を正します。

 ややあって、おもむろに彼女は口を開きました。

「あなたは、自分が好き?」

「え?」

「自分に見える、自分が好き?」

「…まあ、概ね、好き、です」

 あ、ヤバ、恥ずかしい。もう、どうして胸を張れないのかしら。

 彼女は意図のわからない微笑みを浮かべます。

「それは、素敵なことだね」

「はあ」

「でもそれは、あなたの全部じゃないの」

「どういうことですか?」

「あなたに見えるあなたと、誰かに見えるあなたは、きっと違っているでしょう?」

 それは、あんまり考えたことがありませんでした。自信満々だった頃の私は自分を完璧な存在だと自負していましたので、人からどんな風に見られているかなんて、あまり気にしなかったのです。

「そう、かもしれません」

「うん。でもそれも、あなたなの」

「はい」

「忘れているあなたも、見えないあなたも、あなたは、全部のあなたの足し算で出来ているんだ」

 言葉遊びみたいな言い回しですが、言いたいことは解ります。でも。

「それが、どうして忘れられることに繋がるんですか?」

「その足し算の答はね、いつも同じなの。全てのあなたを含んだ、たった一つの答を返す計算」

「ふむふむ」

「でもね、帰り道が判らなくなると、答が変わってしまうの。あなたは、あなたがどんなだったか忘れてしまうから」

「そんな、バカな──」

「本気だよ」

 気弱そうな彼女は、この時ばかりはとても真剣な眼差しをもって私を貫きました。それで何も言えなくなった私を見て、また困ったように笑います。重苦しい空気を恐れているみたいでした。

「あなたがあなたを忘れるように、全部のあなたがあなたを忘れるとね、計算が狂って、でも神様はそれを許さないの」

「…あの、へんな宗教じゃないですよね?」

「そう思うかもしれない。でも真実なんだ」

 どうにも話が胡散臭くなってきました。彼女の言うことはなんとなく哲学的ではありますが、それが現実を侵すことはあり得ません。朝日は普通に昇るもので、昼は長くて、夜は眠いんです。それが揺らぐことなんて、在っちゃいけない。科学の根底を覆すようなことなんて、在ってたまるものですか。

 彼女のことを悪く言いたくはありませんが、さっさと話を切り上げて帰ることにしましょう。

「…なんとなく解りました。ありがとうございます。ところで、とても言いづらいんですけど、私、ほんとに帰り道が判らなくて。出口まで案内してくれませんか?」

「たぶん、その必要はないよ。きっと、今なら帰れると思う。でも…」

「でも?」

「あんまりオススメはできないね」

 はあ、次はいったい何かしら。

 失礼ながら苛立ってしまいます。とはいえ会話の流れ的に仕方無く、私は訊ねました。

「どういうことですか?」

「街のほうとは反対向きに進めば、きっとあなたは傷つかないと思う。だけど引き返すなら、あなたは傷つくかもしれない」

 彼女の声は相変わらず優しいままでしたが、私はえも言われぬ違和感に戦慄しました。

 あれ、ちょっと待って。

 シュレディンガーさんのところからここまでって、いったいどうやって来たんだっけ。

 それはつい先刻の記憶であるはずで、だから簡単に思い出せるはずでした。

 なのに、どうして。

 考えてみれば暑いはずなのに、それもよく判らなくなっています。汗が引いた、なんてレベルではなく、数秒前にベッドから起き出してきたとも思えるほど、肌はさらりと乾いていました。

 全身に鳥肌が立って、矢も盾もたまらず立ち上がります。

「あ、あの、私…えっと!失礼します!」

 言いながらサッと踵を返すと、急いで靴を履いて外に飛び出しました。




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