透明人間
驚くべきことに、彼女が言っていたことには、少なくとも本当のことが一つ混じっていました。
「ウソ…」
帰り道はさっぱり見当つかないはずだったんです。
なのに私は拍子抜けするほどあっさりと、もとの大通りへと戻ってこられたのです。陽は今にも沈もうとしていて、私は藍色の空を見上げました。
単なる偶然かもしれない。
だけどもし、彼女が言っていたことが、全て本当だったなら。
考えると怖気が蘇ってきて、私は身震いしました。見慣れた町に戻って来られてホッとしたはずなのに、気分は一向に落ち着きません。
忘れられてしまう。
それが具体的にどのような状態を指しているのかは判りませんが、一般的な意味を参照するなら、私が忘れられているのかどうか確認するのは簡単です。
スマホを取り出して、電話帳を開きました。ハルちゃんの名前を見るや否や、すぐさまタップします。
無機質な呼び出し音が鳴り始め、規則的に耳もとで繰り返されます。
一回、二回、三回…。
出ない。
これも偶然?
だったら人を変えてみるまでです。今度は青井くんの名前をタップします。
一回、二回、三回…。
嫌な汗が滲みます。
なんで、出てくれないの。
ほとんど狂ったようになりながら伊藤くんの名前をタップして祈るような気持ちで耳にあてがいます。
ちょうど、五回目の呼び出し音が途切れたところでした。
「あ、えっと、浮舟、さん?」
「伊藤くん!聞こえますか?」
「あ、あの、うん、聞こえるんだけど」
「よかった…じゃあ私は──」
「えっと、今、ここにいるよね?」
ウソだ。
ヒュッと、経験したことのない鋭さで息を呑んでしまって、思わずむせそうになります。心臓はあり得ないくらい早鐘を打っていて、手足が震えているのが判ります。
「あれ、じゃあ、君は誰?」
スピーカーの向こうで、あからさまに伊藤くんが戸惑う気配がありました。喉を潰されてしまったみたいになって、私は浅い呼吸を繰り返すので精一杯です。
何も言えないでいると、微かに、伊藤くん以外の声が漏れ聞こえました。二、三言、彼は誰かと言葉を交わしてから、続けます。
「あの、ちょっとよく解らないけど、とりあえず代わるね」
まさか。
そう思うのが早いか、鼓膜が揺れたのが早いか。
「もしもし」
スピーカーから聞こえる声に、心臓が凍りつきました。
「…あなた、誰?」
ようやっと声が出ましたが、それは恐ろしいまでに震えた声でした。
ややあって、相手は答えます。
「私は浮舟ほたるです。あなたこそ、誰なんですか?」
「そんな──」
「誰だか知りませんが、タチの悪い悪戯はやめてください」
その声は、まるで私みたいに震えていました。どうしようもなく聞き覚えのある、声。
もう、絶句するしかありませんでした。
「失礼します」と告げて、私の名を騙る何者かは電話を切りました。取り落としてしまったスマホが、アスファルトに激突して小さく跳ねます。
強烈な目眩がして、よろよろと後退りました。
「ウソだ…」
そのまま路地の入り口にあるブロック塀に背中をつけて、地面へ吸い寄せられるように座り込みます。
そんな、バカな。
あり得ないのです。そんなことは。私が信じていた日常が足元から崩れることなんて、あってはならないのです。
ひどく狭窄した視界に捉えるものは尽く作り物めいて見えました。通りを行き交う人々も、そばに立っている電柱も等しく、まるで、つい先刻作られたみたいな、そんな心地悪さに胸焼けがします。
やがてショックで認知が歪んでしまったのか、照明を落としたように目の前が真っ暗になって、私はその場に倒れ伏しました。意識が薄れていくのを感じながら、脳裏では、あの日見た鏡の中の私自身が再生されているのでした。
誰かの足音で、ふと目を覚ましました。
「んん…あれ」
ゆっくりと体を起こしますと、目の前をスーツ姿の男性が横切って行きました。空は水に溶いた絵の具みたいな青色で、東から鋭い陽光が射しているのが判ります。
どうやら気を失っていたみたいです。
路上で寝たことなんてもちろんありませんから、疲れが抜けていないのか、妙に眠いです。それでも目を擦り、近くに落ちたままだったスマホを拾い上げました。あ、やっぱりヒビ入ってる。割れてるのがフィルムだけだといいけど。
日付は昨日から一日進んでいて、時刻はちょうど七時でした。
そこまで確認してから、ぼんやりと昨日のことを思い出します。
それはそれは、恐ろしい出来事でした。
でも、どうしてでしょう。
なんだか遠いことに感じられて、取り乱すことはありませんでした。あまりに突飛な状況に、脳が理解することを諦めてしまったのかもしれません。すべて悪い夢だったような気さえしていて、私は不自然なほど冷静でした。
とりあえず立ち上がって伸びをします──。
「って」
脇腹に感じた衝撃に驚き、ふらつきます。そちらを見遣ると、近くにある中学校の制服を着た女の子が、怪訝な顔をして立っていました。いかにも物言いたげな表情をしていながら、決して私と目を合わせようとしません。
自分からぶつかってきておいて、その態度はないでしょう。
流石に少し苛立って、私は彼女を見下ろしました。
「ちょっと。なにか言うことないんですか?」
しかし彼女は相も変わらず私の胸の辺りを見つめるばかりで、何も言いません。なんてまあ、無愛想な子でしょう。
呆れていると、彼女はおもむろに右手を持ち上げて、こちらへ伸ばしてきました。その意図を理解できない私は、身動きが取れないままじっとしていました。
次の瞬間、彼女の右手が私の左胸を鷲掴みにしました。
「──っ、な、何するんですか!」
女子同士とはいえ、いきなり胸を触られて良い気持ちはしません。というか普通に驚きです。思わず手を叩いて振り払いました。
え、なにこの子。もしかして私に気があるの?ワケわかんないんですけど。
振り払われた手を、何を思ってか、彼女はまじまじと見つめます。それからサッと顔を青くして、一目散に走り去ってしまいました。
「なんなの、もう…」
昨日からへんなことばっかりです。
もうやだ、一度帰りましょう。お風呂にも入りたいですし。
かくして私は家路に着きました。
あんまり不可解なことが立て続けに起こるものですから帰り着くまでに何かあるかもしれないと身構えていましたが、通勤通学途中の人々とすれ違うばかりで、これと言って奇妙なことは起こりませんでした。そんなことにさえ喜んでしまう私は、やっぱり頭のどこかで今の状況を理解できていたのかもしれません。
だって、おかしいじゃないですか。
自分と電話で話したり、いきなり胸を触られたり。
無意識の予感が現実に化けたのは、家を目前に捉えた時でした。
思わず足を止めて、再び凍りつきます。
──そんな。
だって、そんなのって。
昨日の緊張が、ようやっと心臓に戻ってきました。
「行ってきます」
家の中から聞こえた声の主が私の目に映るまでには、数秒と要しませんでした。
玄関のドアを開けて出てきたのは、まさしく、制服姿の私自身だったのです。
もう何も言えず考えられず身動きもとれず、彫像の如く固まってしまった私を見ないまま、彼女はこちらへ近づいてきます。そしてそのまま、私の隣を素通りして行きました。まるで私なんて見えてないと言わんばかりに。
何か言おうとして私は口を動かしましたが、声は出ず、金魚のモノマネみたいになってしまいます。背後から聞こえる足音は遠ざかるばかりです。
ややあってハッと正気を取り戻した私は、そそくさと電柱の影に隠れました。理由は自分でも判りません。ただ、なんとなくそうしなくちゃいけないような気がしていました。
そっと覗き見ますと、やはり彼女は私のことなんて見えていなかったみたいに、トコトコと歩いておりました。
人間はあまりに理解不能な状態に陥ると、不条理なくらい判断能力を失うようです。気がつくと私は、おそらく学校へと向かっているであろう私自身を尾行し始めていました。なんの目的も考えもありませんでした。強烈な自己暗示にかかってしまったみたいで、体が言うことを聞きません。
ああ、そういえば走馬灯って死にたくないから見るんだっけ。無意識に挽回の手立てを探ろうとしてるんですよね。だとしたら私のこれも、似たようなことなのかもしれません。
いつもの通学路を歩いていく私を追いかける私はあれこれと物陰に隠れながら移動していきます。平凡な朝の風景は私だけを無視して、いつもの通りに流れていきました。
何してるんだろ、私。
というか、いったいこれは何なんだろう。
全行程の半ばほどのところで、彼女が赤信号に引っ掛かりました。私も足を止めて、街灯の陰からそっと様子を窺います。
あれ、てかちょっと待って。
もしかして。
彼女には私が見えていないのではないか。
だって、彼女から見れば私の方がドッペルゲンガーなんですもの。
常識が壊れたこの世界で何を正常としていいのか、もう私には判りませんが、今そこを歩いている私が本当に私と等価な存在だったとしたら、ドッペルゲンガーを見て涼しい顔をしていられるはずがありません。私は実際に卒倒しましたし、路地裏で出くわした時には逃げ惑いました。だとすれば彼女だって、そんな反応を見せるはず。
にも関わらず彼女は背筋をきちんと伸ばして、真っ直ぐ前を見て歩いています。
彼女が私であるならば、私のことは見えていないと考えていいでしょう。
ん?
待てよ。
だとすると、今朝の女の子も。
こっちに戻れば、私は傷つくかもしれない。
勿忘草の女性が言っていたことを思い出します。
忘れられてしまう。
シュレディンガーさんのところに鉢植えを置いたときの彼女の、切なそうな悲しそうな、なんとも言えない横顔が脳裏に浮かびました。
いつぞやに青井くんたちと笑って話した、デカルトくんの持論を思い出します。
人間の人格は複素数みたいな形をしていて。
足し算の答が合わないと、私に成らない。
そして帰り道が判らなくなると、答が合わなくなる。
ああ、つまり。
それは突風に似ていて、けれども酷く静かでした。
不可解なこの世界の破れは、確かに存在するのかもしれない。
私は不意に理解しました。その感覚を理解と呼んでいいのかどうかは判然しませんが、確かにその時、私の中でバラバラになっていたものが具体的な形を持ち始めました。
本当のところは、きっと神様にしか解らないのでしょう。
だけど私は、忘れられてしまったのかもしれません。
それでも足を止められなかったのは、全てが夢なのかもしれないという一縷の望みを捨てきれなかったからでした。
学校に着いたのはそれから五分ほど経った時でした。予感は外れる気がしませんでしたが、それでも私は彼女を追い続け、ローファーのままで階段を上って行きました。
二年七組の教室に辿り着きます。ドアは開け放たれていて、朝の清涼な風が吹き抜けています。すでに人がいるようです。
蝉の鳴き声が一際大きく聞こえたのは、錯覚だったのかもしれません。
彼女に続いて教室に入った私は、ようやっと足を止めました。
「…青井くん」
小さな声で呼びますと、彼はこちらを向きました。
ああ、もしかしてあなたは──。
心臓が高鳴りますが、その希望は、彼の視線の方向によってすぐさま打ち砕かれることになりました。
「浮舟、おはよう」
彼は、もう一人の私に向けて言いました。
まるで私のことなんて見えていないみたいに。
もういーかい?
まぁだだよ。
滲む視界に夏夕べが香りました。
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