マトリョーシカと運動会
彼はとても賢い子供でした。
──なんて言うのを、彼は嫌がるかもしれません。彼は自尊心が高いようで、内面では自分について深く考察されることを恐れているようでしたから。ハリボテのプライド、とでも言った方が正しいような、彼にはそんなところが有りました。
けれども確かに、彼は私にいろんなことを教えてくれました。
彼の凄いところは単純な頭脳の明晰さではなく、何処にも焦点の合っていないような思考の流れでした。彼が提供するそれはいつだって透明に輝いていて、まるで水で満たしたばかりの水槽のように美しいのです。
彼と出会った頃、ちょうど運動会が間近に迫っていました。私は運動音痴ではありませんでしたが、人前に出たくないという性質から、こういったイベントの類は苦手で苦手で、ズル休みをしてしまいたくなるのでした。
そんな或る日の放課後、私は彼を待っていました。
彼とはクラスが別であるために、会えるのは長い休み時間か放課後に限られていました。休み時間に隣のクラスへ乗り込んでいく勇気のない私は、大抵、校門のそばに佇んで彼を待つのでした。
まもなく歩いてきた彼は、その手に文庫本を開いていました。転ばないのかしらと不安になってしまうほど、視線をまっすぐに紙面へ突き刺したまま、ゆるゆるとこちらへ歩いてきます。ランドセルを背負っていることもあって、その姿は二宮金次郎もかくやと思われました。
当たり前のように私に気づかない彼の袖を捕まえると、彼はようやっと目を挙いで私を認めました。
「やあ」
「あの、一緒に帰りましょう」
「うん」
彼はそっけなく頷くと、文庫本を閉じて私に並びました。いつだってこんな調子なので、最初の頃は嫌われているのではないかとさえ考えましたが、今ではこれが彼の普通なのだと判ります。取り繕ったような会話を、彼はあまり好みませんでした。
道々、私は運動会に対する憂鬱を彼に吐露しました。彼は自分から話したがるタイプではなかったので、私の話を黙って聞いてくれました。
「なるほど、つまり君は、目立つのが嫌なんだね」
「はい。とても。駆けっこの『位置について』なんて、なんだか拳銃を突きつけられているみたいで、気が気じゃないんです」
「そうか…」
彼は顎へ手を遣って、何やら思案している素振りを見せました。その当時から彼の考えていることなどさっぱり解らなかった私は、ただ彼が口を開くのを待ちました。
薄橙色の西陽が射して、街路樹が歩道に長い長い影を落としていました。夏が暮れる、独特なグラデーションを帯びた夕風が頬を撫でていきます。今年もきっと、夏を忘れたような秋がやって来るのでしょう。それは、なんだかひどく切ないことだと思いました。
交差点の赤信号に引っ掛かった時、ようやっと彼は口を開きました。
「考えないといけないのはね」不意にこちらを見て微笑んだ彼に、私は見惚れました。「君が、本当に嫌なのは何なのか、ということだよ」
「へ?ですから、目立つのが嫌なんです」
「それは解った。だけども、本当だろうか?君は純粋に、目立つことを嫌っているんだろうか」
言われてみて、私は言葉に詰まりました。確かに、目立つこと自体に抵抗があるのかどうか、それは考えたことがありませんでした。
「マトリョーシカって知ってる?」
「あ、はい。あの、変なお人形ですよね」
「そう。物事っていうのは、時々あんな格好をしている。大きな物の中に、それと瓜二つだけれども一回り小さな、別のものが入っている。最小単位に至るまで、それが繰り返されていく」
彼は意地悪な顔をして、私の瞳を覗き込みます。
「さて、問題だ。君が本当に嫌なのは、いったい何だろうか」
「私が嫌なのは…」
シャイなくせに影響されやすい私は、頭にマトリョーシカを思い浮かべました。一番大きいやつは『運動会』。それを取り払うと、『目立つこと』が出てくる。じゃあ、その中に入っているものは、いったい何だろう。
あ。
そうか。
私は、馬鹿にされるのが怖いのだ。
他者と自分を仔細に較べてしまうことで、自分の劣等が浮き彫りになってしまうことが怖いのでした。その劣等が発見されることが、それ自体が、ひどく私を責め立てているみたいで、どうしようもなく嫌なのでした。
私は素直に、頭の中の出来事を彼に伝えました。すると彼は満足気に頷き、空の、何処か遠いところを見つめました。
黙ったまま、信号が青に変わります。
一歩、踏み出すと同時に彼が呟きます。
「それをね、プライドって言うんだよ」
「プライド?」
「そう、プライド、自尊心。自分が何かより劣っていることを耐え難く思う気持ち。それは、何も恥ずかしいことじゃないよ」
「そう、なんですか?」
「うん。純粋で、とても美しい。だから君は、それを隠す必要なんてないんだ。むしろ目立っていい。大いに、プライドをむき出しにしていい」
唐突な励ましに、私は怯みました。そんなこと言われたって。
「でも、怖いのに」
「うん、そうだろうね。だから、とっておきの魔法を教えてあげる」
私が首を傾げると、彼はニッと、意図の判然しない、けれども心強い笑顔をつくりました。
「思い込むのさ。自分以外の人間はみんなバカで、愚かな下等生物なんだと。君は神様が存在するよりも先に、天に選ばれた人間なんだ。君が何をしたって、世界は許してくれる」
彼の言葉はいつだって胸の深いところへ直截に届くような感じがして、ぼんやり、名前を持たない内腑の中心が温かくなります。
そんなことで、と思うでしょう?
だけど本当に、私は、そんなことで安心できてしまうのでした。
今になって思うのですが、恋というのは宗教に似ているのかもしれません。
神様の全部なんて誰にも解らないのに、少しでも近づきたくて崇め奉るのです。神様の言葉は信じるためにあって、それは科学のように検証可能性や反証可能性を要求しません。いつだって、絶対的に正しい。
そんな非合理で不条理で狂気にも似た失明を、すなわち恋と呼ぶのでしょう。
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